ひとり部活動記録

文章書いたり、筋トレしたり、自転車漕いだり、山登ったり、基本はひとり。

「困った大人」より「かっこいい大人」「楽しい大人」になりたいよね。

 今日は「困った大人」より「かっこいい大人」「楽しい大人」になりたいよねという話について、あるTweetをきっかけに少しだけ書きたいと思う。

 僕がフォローしている人がリツイートしたこのTweetを見て、僕もこの人と同じように「ストンと全てが腑に落ちた」。

幸いにも僕は仕事で「突然キレる中年」の対応をすることはないのだけど、どうして年をとるとわけのわからない方向に行ってしまう大人(笑)がいるのかという疑問への1つの答えをもらった気がしたのだ。そして自分の生活や人生についての重要な示唆も、もらった気がする。

 

この店長の説明はつまり、単調な日々、変化のない日々を送っていれば人間は自ずと「想定外の事情に直面すると脳が混乱するようになってしまう」ということを意味している。近年の研究では脳も筋肉と同じように衰えても鍛え直すことができるらしいが、それでも限界はある。

取り返しのつかないところまで退化してしまったら、どんなに今クリエイティブでも「怒り狂うばかりで何が気に入らないか説明してくれない」(説明できない)人になってしまう。そうなってしまったら僕はぜひとも自死したいが、おそらく変化を恐れるその時の僕は死すら選べない木偶の坊に成り下がっているだろう。これはなんとしても避けたい。

 

そのためには単調でない日々、変化に富んだ日々を送らねばならない。ところが今の僕は変化を恐れている、というか「疲れるからなあ」という理由で避けている。これではクソ中年まっしぐらである。

実はここ最近生活環境を変えてみた。実家のマンションの開かずの部屋を1ヶ月コツコツ掃除して住める状態にして、仕事と筋トレ以外の生活をその部屋で送るようにしたのだ。「これで何か変わるかも」という期待もあったが、一瞬で日常化してしまった。そりゃそうだ、住む町も買い物に行くスーパーも同じなのだから。これでは脳の退化は免れない。

 

もちろん小さな変化は毎日のように試みている。筋トレの種目を変えてみたり、いつも食べている鶏肉の調理方法を変えてみたり、ジョギングのルートを変えてみたり。以前読んだ本の中にはこうした変化も脳には良いらしいと書いてあったが、「想定外の事情に直面」しても混乱しないような頭にするには足りない気がする(もっとも、僕は混乱してキレるというより「困る」タイプではあるのだが)。

フレキシブルに事態に対応できる脳を維持し続けるには、より大きな変化か、そもそも予想だにしない展開ばかり起きる環境に身を置く必要がある。

そこで、だいたい以下のようなプランを考えた。

 

・1ヶ月くらい、Airbnbhttps://www.airbnb.jp/)で日本の地方部に移住して、そこで仕事をする。この場合、現在の仕事環境(デュアルディスプレイ)を実現するために、ディスプレイがわりになるノートPCをもう1台購入したい。なんならMacBook Airもう1台でも良い。

・まだ挑戦したことのない、2泊以上の山行に挑戦する。山の場合下手を打つと危ないので、歩き慣れた山域をチョイスしたい。秋口の京都一周トレイルとかなら、景色も良いし人里も近いので最適かも。

・すでに計画だけ立てている「大阪〜徳島自転車&山行ツアー」を実行に移す。友人宅と徳島剣山の小屋を駆使してフェリー、自転車、徒歩で1週間くらいかけて決行したい。危険性はほとんどないため、時間と体力との戦いになるだろう。

・趣味は類似しているが、全くジャンルの違う趣向を持つ恋人の趣味に同行する。→これについてはすでに実行予定がある。

 

ただ大きな問題がある。夏が暑いことだ(えー)。僕は夏が昔から苦手で、アウトドア趣味に傾倒している今でもそれは変わらない。なので残念ながらこれらを早急に実行に移すのは難しい。

資金面でも問題がある。独り暮らしの準備を整えるのはたとえ(笑)程度でもお金がかかった。僕の場合、こだわりが多いからなおのことだった。

7月22日に参加を予定している10kmマラソンもチャレンジといえばチャレンジだが、しばらくやってみると10kmのジョギングはすぐに日常になった。筋トレの後にやるのであまり頻繁にやると疲れがまとわりつくことになるが、その調整もできるようになっている。次の変化が必要だ。

 

したがって7月、8月あたりはおとなしくしておいて、9月あたりから定期的に「変化に頭を慣らすアクティビティ」を取り入れていきたい。

「困った大人」より「かっこいい大人」「楽しい大人」になるために。

筋トレは、ツラくない。

 筋トレをしていると必ずと言っていいほどされる質問が「何になりたいの?」「何のためにやってるの?」だ。

これを聞かれたことがない日本の筋トレ好きは、おそらく9割以上に上るだろう。それくらいド定番の質問である。

今日はこの質問への正しい回答と、僕の筋トレへの考え方について書く。

 

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僕は最近まで、こう質問されると何かそれらしい理由を探そうとしていた。「いいカラダになるため」とか「デート中に怖い人に絡まれても、恋人を抱きかかえたまま逃げ切れる筋力と体力をつけるため」とか「心身の整理のため」とか。

しかしいつもそうやってそれらしい理由を答えた後に思うのは、「いや、そんな何か目的じみたことがあって筋トレをしてるんじゃないよなあ」ということだった。

僕は、純粋に筋トレそのものが好きなのだ。だから「何になりたいの?」「何のためにやってるの?」についての正しい回答は「好きだから」である。

 

何が好きなのか?それはざっと以下の3点に集約される。

徹頭徹尾自分との戦いである。サボっても、全力を振り絞っても、全て自分に返ってくる。自分で責任が取れるし、絶対に裏切られない。筋肉は人間より信用できる。

・重量の増加や、挙上回数の増加を記録しておくことで、自分の成長を確実に体感できる。それが積み重なれば「筋肉のサイズアップ」という目に見える形でも実感できる。

単純である。もちろん筋トレにも技術は必要だが、「この筋肉を鍛える」という目的があって、「こういうトレーニングがある」という手段があるだけという意味で単純である。あとはやるだけだ。そこには「世間体」やら「大人の事情」やらは入り込んでこない。やったやつだけが結果を手にいれる。それ以外のやつに筋肉の女神は微笑まない。

 

確かに筋トレはツラい。「何になりたいの?」「何のためにやってるの?」という人たちは、なぜわざわざツラい思いをしているのかが不思議で仕方ないのだろう。

しかし筋トレでツラい思いをできているということは、それだけ努力できているということだ。前述のように筋トレの(正しい)努力は、必ず報われる。筋トレにおける正しい努力と結果のつながりは、たとえ国家権力でさえ邪魔できない。だから筋トレのツラさは結果の約束と同義なのだ。

ツラいことがツライだけになるのは、結果につながらないときと結果につながるかどうかわからないときだろう。筋トレにおいて、これらは当てはまらない。だから筋トレはツラくない。

 

  

むしろ筋トレでツラいのは「努力し続けられないこと」だ。本当は筋トレがしたいのに、やりすぎれば筋肉はつかないし、何より筋トレの質が悪くなる。いつもなら挙げられる重量が挙げられなくなる。それはつまらない。だから我慢しなくてはいけない。これがツラい。

※ちなみに「筋トレが続かない」という悩みを抱えている人に関しては「とりあえず全力で3ヶ月打ち込め」と言いたい。その頃には体の変化が感じられるようになるので、もう筋トレを止めることなんてできなくなっている。

しかし1日ないし2日程度の休養をとっていると、徐々に「筋トレしたい筋トレしたい筋トレしたい」という欲求がカラダ中にみなぎってくる。この欲求が充満した状態で筋トレに臨むと、そりゃもうめちゃくちゃ楽しい。インターバルに音楽に合わせて踊ってしまうくらい楽しい。大きな重量も挙がるし、「ヒャッハー!やったるでー!」という妙なテンションにさえなる。

 

「おいおい、こいつヤベエじゃねえか」と思う人もいるかもしれないが、仲の良い友人と飲みに行く約束をした日の17時頃のはやる気持ちと、1杯目のビールを飲んだ時の快感あたりを思い出してくれれば良い。あるいは我慢していた甘いものを1ヶ月ぶりに食べた時の気持ちでも良いだろう。それと全く同じだ。

結果、休養後の筋トレの充実感を知っていると、徐々に我慢が我慢にならなくなってくる。「この我慢の先には充実した筋トレがある」という筋トレのツラさと同じロジックになるからだ。むしろ休養日に筋トレとは別の趣味を入れたり、やりたい家事の予定を入れたりすれば、日々はどんどん充実していく。

 

こんな具合で僕にとって筋トレは、筋トレそのものを楽しむだけでなく、そのほかの生活を楽しくするための重要なアクティビティになっている。好きにならないわけがない。

 

筋トレは楽しいですよ。みんなもやりましょう。

『成功する人は偶然を味方にする 運と成功の経済学』で運と自力の捉え方を学びました。

月曜日更新がずいぶん遅れてこんなタイミングになってしまった。

今月は身内の不幸があったり、一人暮らし(笑)をするための準備を急ピッチで進めたりと、かなりバタバタしたせいもあるし、ただ単に怠けていたせいでもある(主にこっち)。梅雨のシーズンの気圧の変動やばいわー。

 

今日は先日読んだ本で非常に示唆に富む言葉に出会ったので、ちょいと共有しておきたいと思う。

 

<blockquote class="twitter-tweet" data-lang="ja"><p lang="ja" dir="ltr">未来に向かっているときは自分の能力と影響力を信じる。過去に起きたことは、成功も失敗も運のおかげ、あるいはせいにしてしまう。ただ成功に関しては他人のおかげにもすると、良い印象を与えられる。<br><br>これ、コンパクトにまとめて座右の銘にしたいなあ。</p>&mdash; なおとさん (@kibaranai) <a href="https://twitter.com/kibaranai/status/877560337284739072">2017年6月21日</a></blockquote> <script async src="//platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>

 

本のタイトルは『成功する人は偶然を味方にする 運と成功の経済学』。運という極めて自然現象的な要素が、私たちの人生にもたらす影響について、昨今流行りの行動経済学やらなんやらで解説したものだ。このtweetは僕がこの本の片隅に書かれている内容をテキトーにまとめたもの。要は運と自力の上手な使い分けをしようというわけだ。

 

僕は失敗すると何でもかんでも自分か他人のせいにしたがる。「自分があの時手を抜いたせいだ」とか「あいつがわけのわからんいちゃもんをつけてきたせいだ」とか。あるいは成功した場合も何かしら人為的な力の影響だと考える癖がある。

それは時に的を得ているし、自信にもつながるのだけれど、逆に他人との関係悪化や、自分との関係悪化(うつ症状)につながったりもする。

こういう問題を事前に避けられるのが「過去に起きたことについては運で理解する」という考え方だ。これを癖づけられれば、結構いろんな問題が解決する気がする。

 

そして何よりオシャレなのだ、この考え方は。だって「さすがですね」とか「鈴木さんの力ですね」とか言われた時に、「いえ、運が良かったんです」というのはいかにもカッコいい。いっそ自信さえ感じる謙虚さである。これはぜひ体得したい(下心)。

みなさんもよかったら『成功する人は偶然を味方にする 運と成功の経済学』を読んでみてください。結局のところ筆者が言いたいのは別のところにあるのだけれど、紹介されている実験や研究はなかなか勉強になるものが多かったですよ〜。

 

一応、リンク貼っときます。こちら! あ、アフィとかではないんで、別にこのリンクから買わなくても構いません。 

マラソン大会に出ます(10kmやけど)

 5月の末ごろだったか、妙にハイな気分になってとあるマラソン大会にエントリーした。10kmやけど。

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長距離走が大嫌いだった高校時代の僕なら今の僕をみて「うえ〜!お前頭おかしいんとちゃうか!何を好き好んで10kmもはしるんや…」と言うことだろう。それくらい僕の中でマラソン大会にエントリーするというのは狂気の沙汰だ。

初めてのことで不安だったので、「ひとり部」の名を裏切って幼馴染2人を誘っての出場である。「運動不足だったし」と快く一緒にエントリーしてくれた2人には感謝している。自分以外にも沢山の人が参加するマラソン大会なるものに、1人で特攻を決めることはメンタルたまご豆腐の僕には到底無理だ。

で、せっかく参加するのだから1時間は切りたいと思い、この2週間ほど家の近くを少しずつ距離を伸ばしながら走っている。街中を走るのもいいのだけど、車やら信号やらが面倒なので、「万代池公園」という自宅から2km弱のところまで走って行って、公園内をぐるぐる回ってまた帰ってくるというコースを繰り返している(公園1周は700m)。

 

自分以外にもジョギングしている人やウォーキングをしている人もいるが、高級住宅街ということもあってかこの上なく穏やかに走り続けることができる。

このジョギングを何回か繰り返していると、不思議な気持ちになってくる。まだたかだか数kmのジョギングに過ぎないが、「走ることの気持ち良さ」を実感できるようになってきたのだ。

これはもともと僕が何をしていても考え込む癖があること、そして以前のように肺が辛くなるような走り方ではなくゆっくりとしたペースで黙々と走る方法をとっていることも影響しているだろう。ただそれでも、「走る」という行為には色々な人が取り憑かれるなにがしかの魅力があることは間違いないと思う。

ノーベル文学賞候補として何度も名前が挙がっている作家村上春樹もエッセイでこんな文章を書いている。この文章は村上春樹ウルトラマラソン(100km)を走った時の情感を綴ったものだ。

 

「僕は人間ではない。一個の純粋な機械だ。機械だから、何を感じる必要もない。ひたすら前に進むだけだ」

その言葉を頭の中でマントラのように、何度も何度も繰り返した。文字通り「機械的」に反復する。そして自分の感知する世界をできるだけ狭く限定しようと努める。

僕が目にしているのはせいぜい3メートルほど先の地面で、それより先のことはわからない。僕のとりあえずの世界は、ここから3メートル先で完結している。その先のことを考える必要はない。空も、風も、過去も、記憶も、僕にとってはもうなんの関係もないものごとなのだ。

ここから3メートル先の地点まで足を運ぶーそれだけが僕という人間の、いや違う、僕という機械のささやかな存在意義なのだ。

引用:村上春樹 『走ることについて語るときに僕の語ること』(2010)

*改行筆者

 

 

この文章を見つけた時、「そうそうちょうどこんな感じ」といたく共感した。といっても数kmしか走れない僕がこの領域まで到達しているわけではない。

ただ3年以上続けている登山をしている時に、ほとんど同じ心境になったことは何度もある。ジョギングの時の「気持ち良さ」がその時の心境に似ていることに、この文章を読んで気づいたのだ。

 

自分の存在の意味が限りなくシンプルになり、透明な意識だけが地面を移動していく。それまでは太ももに、膝に、腰に、肺に、全身に負荷や痛みを感じていたのが、たちまち霧散してしまう。登山であれば山の一部になってしまったかのような、そんな感覚(別段ものすごい山を登っているわけでもないので、これもまた偉そうな物言いには違いないが、確かにそういう感覚を僕は知っている)。

 

とはいえ、毎回この感覚が訪れるわけではない。特にジョギング前の筋トレが充実すればするほど、ジョギングの時の体の重さはどうしても増してしまう。コンスタントに、意識的にこの感覚を味わえるように、もっともっと走る練習をしていきたい。そうすればまた楽しい趣味が一つ増えることだろうから。

 

今『岸田アパート物語』を少しずつ手直ししているのだけど

大学卒業間際の12月、僕はとある小説を書き始めた。当時どっぷりと入り浸っていた「西田アパート」という集まりを主題とした青春小説『岸田アパート物語』だ。ワードで150枚弱の中編小説で、バカみたいに恋したり、バカみたいに酒飲んで暴れたり、小難しいことを考えて色々なものをこじらせたり、そんな「THE大学生」をふんだんに盛り込んだ物語だった。

 

人生で初めて書き上げた小説だったから、記念にと幻冬舎の雑誌『papyrus』の「パピルス新人賞」に応募した。今調べたら僕は応募した2011年が最後の応募だったようだ。そしてその結果は「最終選考候補作」だった。当時神奈川の川崎で荒みきった毎日を送っていた僕にとって、飛び上がるほど嬉しい出来事だったものだ。

 

実際『岸田アパート物語』の評判は上々で、周囲からも面白いと言ってもらえた。自分でも正直面白いと思っていた。しかし先日あることがきっかけで読み直してみると、「おいおい、なんじゃこら……。よくこれで最終候補に残ったなあ」と思うほど文章がひどい。

主述関係もむちゃくちゃだし、日本語もおかしい。誤脱も多いし、第一表現が「小難しい」のではなくて「ズレている」。物語のつじつまもそこかしこで矛盾している。

 

村上春樹は『騎士団長殺し』の原稿を出版社に渡すまでに、5度書き直したという。僕は『岸田アパート物語』を一度として書き直したことがない。そりゃこんな文章のままだわなあと合点が行く。

 

「自分史上最高の文章」と思っていた文章が、憂鬱になるくらいの悪文駄文だと気づけたのも、この3年間延々と仕事で文章を書き続けてきた成果かもしれない。

そう思った僕はいまになってぼつぼつと『岸田アパート物語』の手直しを始めている。完成はいつになるはわからないが、完成したらブログに公開しちゃおうかなあと思う。その時はどうぞ読んでやってください。