ひとり部活動記録

文章書いたり、筋トレしたり、自転車漕いだり、山登ったり、基本はひとり。

クラウドソーシングで「なんか嫌な予感がする」クライアントの特徴9選

 

更新が二日も遅れてしまった。季節の変わり目で気分がすぐれない日が多く、文章がまとまらなかった…。
今回はこれまでだいたい4年くらい?クラウドソーシングをやってきて「こういうクライアントは後からろくなことにならなかった」という話をしてみたい。

まだ一文字も原稿を見ていないのに「継続を考えている」って言ってくる

このタイプのクライアントはクラウドソーシングのライターは「継続」に弱いと思っている気がする。そしてこういうクライアントには「継続を人質に単価を低く設定する」というやり方をするところも少なくない。悪い言い方をすれば足元を見ているわけだ。

確かに最初クラウドソーシングを始めた頃は「次が約束されている依頼」というのはありがたかった。スケジュールも組みやすいし、何より収入が担保されるからだ。今もそうした不安がないわけではないが、新規の依頼を「継続」だけを理由に受けようという段階ではなくなっている。

条件が良ければ「はあ……」と言って引き受けるが、たいてい何度かやり取りしているうちにフラストレーションが溜まるパターンが多く、最終的にこちらからお断りすることになる。

連絡取り始めてソッコー「直接取引きできませんか?」と規約違反持ちかけてくる

「最近クラウドソーシング始めました」みたいなクライアントに多い、絶対にやってはいけない規約違反である。このタイプのクライアントの場合「直接取引ならいくらでできます」とか言って、やや高めの報酬を設定してくることが多い。

こういう人たちはクラウドソーシングサービスを提供している会社をバカにしているし、そもそも自分たちがそのプラットフォームを利用しているという事実すら忘れている。

こういう失礼で非常識な輩はきっと平気で映画の海賊版とかも見るのだろう。面と向かってコケ下ろすと角が立つので、やんわり直接依頼は断って一度クラウドソーシング上で仕事をし、二度と依頼を受けない。

こっちの専門分野でもない原稿なのに何の修正も注文も入らない

「原稿わからない」「原稿読んでない」パターンのクライアント。もしかすると僕の書く文章が素晴らしすぎるのかもしれないが、「修正も注文もない」のではなく「修正すべきこと、注文すべきことがわからない」か、「そもそも原稿なんかどうでもいい」と思っているのである。羽振りが良いクライアントもいるが、こういうクライアントと仕事をしていてもあまり次に続かないので、その点は覚悟しつつ仕事をした方が良い。

原稿の修正が紙をスキャナで取り込んだPDFだ

こちらは逆に玄人すぎるパターン。校正担当者などが紙媒体出身で、PCでの修正作業ではなく、紙を使って修正するのである。このこと自体が悪いと言っているのではなく、こういうことをする人に「ややこしい人」が多いという話だ。

文法の間違いとか事実関係の間違いなら、こっちも素直に修正する。しかしこういう人は「なんか違う」「◯◯って感じに修正」とか平気で書いてくる。後者ならまだしも、前者に至っては修正のためのヒントさえない。

「なんか違うってなんやねん」とはビビっていえないので、当てずっぽうで修正すると「わかってない」みたいなリアクションが返ってくる。結果あてもない修正作業が続き、お互いが消耗していくのである。確かにすごく勉強になることも多いのだけど、「嫌な予感」には違いない。

1記事1,000文字が3,000円なら1記事2,000文字は6,000円だと思っている

「お前文章書いたことあんのか」というタイプのクライアントの特徴。ライターとして文章を書いたことのある人、あるいは真剣に大学のレポートに打ち込んでいた人ならわかるだろうが、2,000文字の文章を書く労力と1,000文字の文章を2本書く労力はイコールではない。

僕の感覚では読後感だけでなく納得感もきちんとある文章を書く場合、1,000文字でだいたいネタを3つ仕込む必要がある。1,000文字をネタ1つで書くと希釈し過ぎたカルピスみたいな文章になるし、2つでも(書くべきことがあるならいいが)多少もったいぶった書き方になりやすい。かといって4つだと1つ1つの内容が浅くなるので「なんか読んだ気分」にはなるが「何かを得た気分」にはならない。だからだいたい1テーマにつきネタは3つないし2つということになる。

しかし2,000文字になると選択肢が一気に増える。単純にネタを4〜6つに増やしてもいいし、ひとつひとつを掘り下げる余裕があるから3つにしてもいい。あるいは1,000文字ずつに大きく2つに区切り、その中に小さいネタをいくつかちりばめるという作戦もある。

これをあたえられた、あるいは探してきたテーマに沿って適不適を判断し、そこから情報を精査して肉付けの作業に入る。僕は「ネタが仕込めたら6割終わり」と思っているクチなので、逆にいえばネタを仕込むのが大変な場合はそれだけコストがかさむ。

だから単純計算で倍の金額を提示されると、「いやいやなめんとんのか」となる。「文章なんか誰でも書けるけど面倒だから外注してる」みたいなクライアントは、あとあと意味不明な修正や注文をつけてくることが多い。僕にとっては直接契約を持ちかけてくるクライアントくらい嫌な予感のするタイプである。

こちらが提示した参照元URLを確認していない

このタイプのクライアントは単純に嫌いだ。こっちがいくら懇切丁寧に「この部分はこのURLのこの部分」と指定したところで「典拠は?」とかのコメントをよこしてくる。もうどうしたらいいのか。別にすでに書いているから注釈をコピペして「こちらをご参照ください」とコメントすればいいのだが、その労力が無駄すぎる。こちらの時間を平気で犠牲にするクライアントは危険だ。

プラットフォームでの手続きが遅い

僕が利用しているランサーズの場合、「依頼(クライアント)→承諾(ランサー)→エスクロー入金(クライアント)→作業・納品(ランサー)→校了(クライアント)→完了報告(ランサー)→支払い(クライアント)」の順で仕事が進む。メッセージフォームやチャットでやりとりしているのに、いざ書き始める段になってこれらの手続きが全く進まないクライアントがいる。年単位の付き合いがあるならまだしも、1回目とか2回目で「エスクロー入金」とか「支払い」が遅いクライアントは絶対ダメだ。

第一にこちらの気持ちを全く斟酌していない。顔が見えないやり取りは信頼感が7割くらいを占めている。そしてその信頼感の5割以上は「お金関係をきっちりしているか」が占めている。どんなにいいクライアントでも、支払い関係がテキトーなところは、大抵他のところもテキトーだ。そんなところと仕事をしていたら痛い目を見るのはこっちだろう。
第二に多分、仕事ができない。自分がクライアントとして利用したことがないからわからないが、おそらくこの一連の作業は面倒くさいが大した作業ではないはずだ。それをさっと処理できないというのは、どう考えても仕事ができない人間だということだ。現に某大手企業のクライアントはこちらが慌てるくらいに対応が早い。この企業とやり取りするたびに毎回「大企業病とかいうけど、いうても大半の中小企業マンよりは仕事できるんよなあ……」と思ってしまう。

メール送ってきてすぐ電話かけてくる

締め切りの近づいている別のクライアントの原稿を書いている途中に、スマホが鳴る。チャットサービスの着信音なので「この原稿がひと段落したら確認だな」と頭の隅で思い、急いで書く。すると電話がかかってくる。僕の携帯に電話をかけてくるなんて誰だろうと思って見てみると、クライアントである。出ると「先ほどのメールなんですが」と始まる……。

見てねえよ!メール見たらすぐ返信するよ!見れない状況だから返信してないんだよ!急ぎの用事ならまだいいが、なんだかもう癖みたいに「メール即電話」を徹底している人もいる。やめてくれ。

こういう人は他の仕事もばたついていることが多い。締め切り3日前の仕事を持ってきたりとか、昼過ぎに修正指示を送ってきて「今日の夕方までにお願いしたい」とか言ってくる。必要以上に精神を消耗するので、あんまり仕事したくない。

「嘘」をつかせる

ものは書きようである。書き方を変えれば善悪が入れ替わることだって、世の中にはある。しかしそれも世界の一面なのであって、嘘ではない。僕はそう思っている。しかし事実と反していることを書くのなら、それは嘘だ。昨日カツ丼を食べたのに、「お前昨日カツ丼食べたろ」と言われて「食ってない」と言えば嘘なのだ。

驚くことにこれをやってくださいというクライアントもいる。とあるサイトのとあるランキングを、丸ごと上下逆にしてくださいという注文だった。ライターを初めて2ヶ月ぐらいしたころで、確か文字単価は0.5円だった。しかし当時の僕の文字単価は0.25円とかだったので、喜んで飛びついたのである。しかし蓋を開けてみると、そういう注文だったのだ。

確かにランキングも書き方によっては全く違うランキングになる。しかしそのサイトのランク付けはあまりにも全うだった。1位は非の打ち所がないし、最下位はツッコミどころしかなかったのだ。ただ一度引き受けた仕事なので、嫌な汗を書きながら必死に嘘をつき、事実を伏せた。あんなに辛い仕事はいまのところない。

嘘をつく人が平気なら構わないが、苦手な人は一度引き受けたかどうかに関わらず断った方がいいだろう。このクライアントからも継続依頼はきていたが、にべもなく断った。

 

 

こんな感じで「こういうライターは困る」とか「鈴木さんのここが困る」みたいな情報あったらバンバン欲しいんだけどなあ。なんかこう、黙ってフェードアウトされるのが一番嫌だわ。和をもって貴しとなすな日本では、あんまり言わないもんなんですかね。

2017年夏のじゆうけんきゅう!

 ふと思い立って、自分の部屋の筋トレ器具を改造することにしてみた。発想にしろ仕上がりにしろ、「じゆうけんきゅう」という言葉がぴったりになったので、この成果を夏のじゆうけんきゅうとして紹介しようと思う。

 

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まずはこちら。我が家の長男から押し付けられたエアロバイクの座面に、座面の形に切り抜いた厚さ3センチの発泡ゴムを乗せ、これをバンダナでくくりつけた。

 

エアロバイクが家で漕げるというのは、最近有酸素運動にハマりつつある自分としては嬉しいのだが、いかんせんこのサドルの素材が硬すぎて、長時間漕いだ結果、お尻がうちみをしたかのように痛むようになってしまった。

まあ大してこれまでやってこなかったのに、いきなり週3〜4の頻度で毎回1時間程度漕げばそうなっても仕方ないのだが、それでもやっぱり硬い。

この問題を解決すべく、発泡ゴムを採用した。厚さ2cmのものと迷ったが、こういうものはちょっとケチるくらいなら高い方を買っておくのが正解だろう。少し漕いでみたが、クッション性は格段に向上した。

そろそろお尻の痛みがなくなってきたので、今から使うのが楽しみだ。

 

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次はこちら。これはチンニングスタンド(懸垂マシン)の写真だが、ぶら下がる棒の部分に合成ゴムのテープを巻きつけてある。合成ゴムの端は業務用の超強力接着剤を使用した。

また、棒の中央部にぶら下がっている鎖は1本あたりの耐荷重135kgのもので、スクリュータイプのカラビナを使って輪にしている。カラビナの耐荷重は1つあたり85kgだ。

 

僕が使っているチンニングスタンドは別段高いものではない。確かにぶら下がる棒に最初からついているスポンジは、直接鉄のパイプを握るよりはチンニングもしやすい。しかし強く握ると回るし、回れば滑る。結果きっちり追い込めないことが何度もあった。

そこで合成ゴムのテープを巻きつけたところ、劇的なグリップ力が生まれた。

 

鎖に引っかかっているのはVバーと呼ばれる筋トレ器具で、本来は事務などのマシンで使うアイテムだ。しかしこれをチンニングスタンドで使うと、チンニングで鍛えられる部位が増えるので購入したのだ。

ところが実際に使おうとすると、ぶら下がる棒に引っ掛けることになるので、結果最後まで挙げきれないという事態に直面する。挙げきると、ぶら下がる棒に顔が当たるからだ。今回丈夫な鎖に引っ掛けることにより、しっかり最後まで挙げきれるようになった。

 

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こちらはベンチプレス台のセーフティーバーとバーベルラックだ。本来この部分は塗装した鉄だったが、ここに強力接着剤で3mm厚のゴムシートを貼り付けた。

 

僕は極端に胸の力が弱い。ベンチプレス、スクワット、デッドリフトの取り扱い重量を比べても、ベンチプレスだけが「初心者レベル」の数字になっている。これを解消するために徹底的にベンチプレスで追い込めるこの台を買ったのだが、いかんせんバーベルを置いたときの音がうるさい。しかし「音を立てないように」なんて思っていては、最後まで追い込むことができない。

その結論がこのゴムシートだった。ゴムはすごい。たったこれだけの厚さなのに、とてつもなく静かにバーベルを受け止めてくれる。これで弱点克服だ!

 

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最後に紹介するのがチンニングスタンドにぶら下がっているこのロープ。下の部分には長さ15cm直径32mmの鉄パイプがついている。鉄パイプの両サイドはロープを傷つけないように、養生テープで保護している。ロープの両端はクライミングなどに採用されるもやい結びを施し、これによってできた輪を耐荷重85kgのスプリング式のカラビナでつないでいる。たしかロープの切断強度は785kgくらいだったとおもう。

 

これを作ったのは、チンニングスタンドで「吊り輪」がやりたかったからだ。ストリートワークアウトやカリステニックスと呼ばれる自重トレをしているアスリートたちが、よく吊り輪で遊んでいる。もうこれがすごく楽しそうでかっこいいので、ぜひとも自分もやってみたいと思ったのだ。

しかしいざこのお手製吊り輪(?)を作ってみると、とんでもなくきつかった。正直なところ「まだ早かった」と言わざるを得ないほど、きつかった。しかも普通の吊り輪と違って持ち手がくるくる回るので、なおさらバランスが維持しづらい。出来栄えには満足しているが、まだしばらく基礎トレーニングを積み重ねる必要がありそうだ。

 

 

以上が僕の2017年夏のじゆうけんきゅうである。いざやってみて思ったが、大人ももっとじゆうけんきゅう(自由研究でもいい)をやるべきだ。

自分が抱えている問題を把握し、その解決のために自分の頭で考えて工夫する。ネットや本にないモノやコトを、自分なりのコンセプト(予算とか、使い勝手とか)を立てて作り出していく。こういう作業はものすごく頭の体操になるし、なにより楽しい。僕が思うに、研究の題材は役に立ちそうもないことであるほど楽しくなる。

また楽しいじゆうけんきゅうの題材を見つけたら、どんどん研究していきたいと思う。

夏の終わりには、貴女に逢いたくなるんだ。

今日のエントリーは少し湿っぽくなる。なぜなら今日、8月21日は我が家の先代の猫様「フラン」がいなくなってから12年の日だからだ。

 

あの日から干支が一周回ったとは思えないほど、彼女の死に際を鮮明に覚えている。その日はちょうど、朝早くに海外留学から帰省していた姉が留学先のインドネシアに飛び立つ日でもあった。まるで姉との時間を最後まで過ごしたかったとでもいうように、フランは21日未明、家族全員の前で事切れた。

 

 

フランは僕が小学校3年生の頃(担任の教師が本当に嫌いで、毎朝お腹を壊していた頃だ)から一緒に住んでいた。最初彼女に出会ったのは、まだ彼女が野良猫として生きていて、ウチのマンションに居を構えた直後だった。

フランは緑白色の数珠のような首輪をつけて、ある朝小学校へ行く前の僕の前に現れた。そのときにはすでに成猫で、人馴れもしていた。当時僕は犬派で猫は「何を考えているかわからない」「すぐに引っ掻く」というイメージが強く、彼女に擦り寄られてものすごく困ったことを覚えている。

中学に行く姉が上から降りてきて「何してんの?ほっとき」と言われた。

 

学校から帰ると、彼女は僕の家の前にいて、確か母から何か食べ物をもらっていたように思う。ウチはマンションなので、当時基本的に動物は飼ってはいけないことになっていた。だから母も家の中には入れていなかった。

しかしその夜、彼女は一晩中家の前で待ち続け、翌日学校から帰る頃には父の許可を得たのか我が家の家族となっていた。当時僕は嬉しかったのか、戸惑ったのか、今となっては覚えていない。

ほとんど真っ白な毛並みの中に、背骨をなぞるように茶色の毛を生やした大きな雌猫にフランという名前を与えたのは、姉だった。いわく「金がかかるから」(当時フランスの通貨はフランだった)。とんでもないネーミングだと思ったが、今思えばフランという気品と柔らかさのある響きは、彼女にぴったりだった。

 

最初のうちは動物と人間の境目を設けていた我が家も(寝室には入れないとか)、あっという間に彼女の可愛さと図々しさに負けて、彼女が足を踏み入れられないところは食卓の上以外になくなった。

猫の自由さというのは、人間の決めたルールなどあっという間に打ち消してしまう。「私を縛れるのは私だけよ」彼女の瞳と尻尾はいつもそう言っていた気がする。

小学校3年から高校2年まで、彼女はずっとその調子だった。フランはまるで頼もしい姉のような猫で、散歩の途中に雄猫をぶん殴って返り血を浴びて帰ってくるような強さの持ち主だったが、いつも柔和で、噛むことも爪を立てることもない、優しい女性だった。

もちろん猫らしいふてぶしさもあって、勉強をしていればノートや教科書の上に寝そべってきたし、寒い季節に床に寝転がっていると必ず膝の上や胸の上に乗ってきたものだ。ただ僕も家族もそれを嫌がるようなことはなく、いつも彼女の中長毛のふわふわな毛並みに癒されていた。

 

 

息をひきとる前、フランは母自ら注射をしてやらねばならないほど弱っていた。にもかかわらず、やっぱり僕が机に向かっているとあがってきて横に寝そべるのだ。だから僕は彼女がいなくなるなんて、全く理解できていなかった。来年も、その次の年も、さらに次の年も、彼女は僕の机の上で寝そべるのだと思っていた。

だから、というと言い訳になるだろうか。折悪しく僕は人間関係で悩んでいて、ちょっと遅い思春期特有の苛立ちを抱えていた。確か何かそれに関する書き物をしていて、それをフランに邪魔されたのだったと思う。僕はそこで彼女を邪険に扱ったのだ。ノートか何かの上から彼女を押しのけるようにしたと記憶している。

 

僕はそのときの手の感触を未だに忘れられない。 弱った彼女はそのとき何を思ったのだろう。どうして僕はあの時彼女の頭やあごを優しく撫でてやれなかったのだろう。

彼女は、フランは、「気分が悪いの。ねえ、撫でて」と言っていたのかもしれないのに!

あるいは「あんたはいつまでうじうじ悩んでるの。元気出しなさいよ」と言ってくれていたのかもしれないのに!

 

 

それからほどなくして8月21日がやってくる。僕はこの時、初めて愛する命の最期というものに立ち会った。そのときは困惑していて、机の上で彼女にしたことを振り返る余裕もなかったが、周りでフランに声をかけたり、号泣したりする家族を、どこか冷静な目で見ていたことは覚えている。

当然悲しくなかったわけではない。ただ、わからなかったのだ。今まで当たり前のように一緒にいたフランと、もう二度と会えなくなる。ずっと一緒にいると思っていた彼女と、もう一緒にいられなくなる。それがどういうことかが、わからなかった。

小学校3年生から高校2年だから9年だ。高校2年にとっての9年は人生の半分以上になる。それほど長い間一緒にいた彼女がいなくなる……?どんな顔をすれば正解なのか、僕に分かるはずもなかった。多分今だって、わからない。

 

僕たちにすがることもなく、自分の足で立とうとしてはがくりと崩れ、また立ち上がろうとする。目は虚ろながらもどこか一点を見つめていて、その姿が彼女の生き様のようにさえ思えた。最期まで凛々しい女性だった。

クーラーを強くかけた部屋で、彼女が火葬場に行くまでの間にカゴの中に入って冷たくなっていることに気づいた時、僕はようやく「フランともう会えない。話せない」という事実を理解した。その途端、とめどなく涙が流れてきて、僕は彼女の横にうずくまってずっと声をあげて泣いてしまう。

愛してるも、大好きも、もっと言っておけばよかった。

ありがとうも、ごめんねも、ちゃんと言っておけばよかった。

もうそれができないんだということも、ようやくそのときになってわかった。とりわけ、ごめんねを言えなかったことは、今もずっと後悔している。

火葬場で骨だけになった彼女は、嘘みたいに小さかった。あんなに頼もしかった姉が、こんなにも細い骨で立っていたのかと思うと、単純に驚いた。

 

それから2.3ヶ月立って、我が家には新しい家族ができる。まるでフランの影から生まれてきたのかと思うほど真っ黒な、生後1ヶ月に満たない子猫だった。溝にはまって親猫に忘れられていたところを、母が拾ってきたのだ。母曰く、必死に訴えかけるように「ニャアー!ニャアー!」と泣いていたのだという。

彼の名前は僕が「夜雲(ヤクモ)」と名付け、今はやっくんと呼ばれて親しまれている。フランのような凛々しさとは無縁で超がつく甘えん坊で、ビビり、引っ込み思案、鈍臭いとダメダメなヤツだが、なんだか自分を見ているようで愛してしまう。

ももうそこそこの老猫なのだが、僕は絶対に彼を看取ると心に決めている。フランにしてしまったようなことを、彼には絶対にすまいと、心に決めている。罪滅ぼしなんかではなくて、あんな想いを二度としたくないからだ。

 

ところでフランは今も実家の中庭に、母が作った立派な庭園墓地に眠っている。屋根のある小箱の中に入っているのは、骨と彼女の生前の毛を丸めて作った毛玉。今も触ると少しだけ彼女の感触を思い出せる。

 

 

フラン、今年も今日がやってきたよ。毎年言ってるけど、あの時は本当にごめんね。あと、これも毎年言ってるけど、今も愛してるよ。大好きだよ。

 

 

 

森山直太朗さんの「夏の終わり」は、僕がフランを思い出すときに必ず聴く曲だ。今年もこれを聴いて、彼女を想うことにしよう。

『プリズナー・トレーニング』という本にハマった。

 先日、表紙に描かれている『グラップラー刃牙』のビスケット・オリバと、中二病臭のすごいタイトルに惹かれて、『プリズナー・トレーニング』という本を購入した。

 

 

 

内容は、かつてアメリカの監獄で囚人たちに「コーチ」とまで呼ばれた男が、長年の服役生活で構築した自重トレーニングメソッドを開陳するというものだ。

ここ3年ほど毎週3冊程度の様々な本を買ってきた経験からして、この手の本はたいてい中身がなく、「そんな改まって言うほどのことじゃねえだろ」という話を、理屈をこねくり回して書いているだけという場合がほとんどだ。そして得てしてそういう本は1200〜1300円くらいのお手頃価格で提供される。

 

しかしこの本は税抜きで2000円もする。これは「騙されたと思っても大目に見てね」という価格ではなく、「騙されたと思って買ってくれ。後悔はさせない」という価格だ。簡単な内容のレビューだけを見てその覚悟を悟った僕は、発売から2日後にはAmazonでポチッといった。

 

中身は期待通りだった。文体こそ中二病臭たっぷりだし、多少のツッコミどころもあるものの、内容は極めて堅実。

 

・高重量のウェイトトレーニングは関節を痛め、将来的な肉体の弱体化につながる。

・自重トレーニングはやり方さえ工夫すれば自分の肉体にとってかなりの高負荷をかけられるばかりか、根本的な身体能力を引き上げる。

・自重トレーニングとはいえやり方次第では怪我につながるし、継続しにくくなる。慎重に軽い負荷かから鍛えはじめ、徐々に負荷を上げていくべきだ。

 

このように想像以上に真面目な自重トレーニング本で、しかもそのステップが写真と文章で非常にわかりやすく解説されている。そして何より、その堅実な文体で説明された先にある、自重トレーニングがかっこよすぎる。

例えば主に肩のトレーニングとなる「ハンドスタンドプッシュアップ」シリーズの最終ステップであるステップ10は、片手で逆立ちした状態で体を上下させる「ワンアーム・ハンドスタンドプッシュアップ」だ。

 

 

 

片手逆立ち腕立て伏せ……ゲームや漫画でしかありえないと思っていた荒技に、もしかすると自分でも手が届く?そう考えるとワクワクしすぎて眠れないほどだ。実際この本を読んだ夜は、早く本の内容を試したくて眠れなかった。

 

この本を読んでいない人からすると「そんなところまでいけるはずがない」と言いたくなるだろう。しかしこの本をじっくり読んでみれば「時間をかけて努力さえすれば、きっとそこまで到達できる」という確信さえ抱くことができる。それくらい、この本は真面目だ。

ただインパクトを得るためだけに「ワンアーム・ハンドスタンドプッシュアップ」の項目を設けたのではないことが、誠実な読者にはわかるのだ。

 

僕はこれまで3年ほど、ウェイトトレーニングに重きを置いてきた。理由は自重トレーニングよりも見た目が派手なので自分の気分を盛り上げやすいということと、体型を効率的に変化させるにはウェイトトレーニングの方が秀でているということだった。しかし最近、以下の理由でウェイトトレーニングへのモチベーションが下がりつつあった。

 

・これ以上筋肉が大きくなると、かなりお金をかけている好きな服が着られなくなる。実際何着かの服はすでに肩がパツンパツンで着られない。

・100kg以上の重量を扱う時の精神的なプレッシャーが辛い。一歩間違えれば事故につながるし、怪我のリスクも大きい。特に限界に近い重量を扱う時になると、意図的に精神を高ぶらせ、なかばブチギレ状態で挑まないと重さに負けてしまう。普段ぼんやりしている僕にはこれがかなりキツい作業になる。

 

僕は別にパワーリフティングの大会やボディビルの大会を目指しているわけではなく、純粋に筋トレが好きだから筋トレをしている。であれば、楽しいと思えるトレーニングを積極的に取り入れていくべきだろう。結果、僕は本の中で紹介されている6種のトレーニングを高重量種目と入れ替える形で、今のウェイトトレーニングのメニューの中に組み込むことにした。

 

まだ両手で逆立ちして腕立て伏せをするところまでも行っていないし、なんなら最終ステップが片手腕立て伏せになる「プッシュアップ」シリーズのうちの通常の腕立て伏せ(フルプッシュアップ)にも到達していない。

しかし僕は毎回この自重トレーニングプログラムに挑戦するのが楽しみで仕方がない。なぜならそれは、片手で腕立て伏せをしたり、片手で懸垂をしたり、片手で逆立ちをして腕立て伏せをしたりする未来の自分への、1本道だからだ。

やることは決まっている。なりたい姿も見えている。ならやるしかない。

 

 

 

こういう人たちみたいに体を自在に動かせるようになったら、さぞかし楽しいだろうなあ……。

 

 

追記 これくらいのモチベーションで仕事ができれば、もっとお金持ちになれるのになあ……。

だいたい20km走ってみた結果……。

先週の土曜日、ふと思い立ってだいたい20km走ってみました。結果、死にました。

 

万全の体調で臨めばもう少し楽だったのかもしれませんが、何を思ったのか走る前に筋トレで思いっきり下半身をいじめ抜いていたので、途中から大腿四頭筋の外側(外側広筋)がひきつるように痛み始め、特に集中して負荷をかけたお尻の筋肉(臀筋)と裏もも(ハムストリング)は「何こんなの知らない……こわい、こわいよお」ってなるくらい痛かったです。

 

さらには人生で10km以上の距離を走ったのが初めてだったので、「途中で水分補給が必要」なんてことも知りませんでした。 なので10kmくらい走ったあたりで「あれ?最初は滝のような汗だったのに、今汗出てないな」と思い始め、12kmくらい走ったあたりでは「あ、なんかやばい。頭フラフラしてきた」と危険を感じました。

ところが余計な荷物は持たずにできるだけ身軽で行こうと思っていたので、財布も水も持ってきていません。しかし長居公園まで走りに行っていたので、多分水を飲まないと家に帰れないということはわかります。

参ったな、やべえなと思っていたら、なんとコースの脇に水飲み場があるではありませんか!(ランニングおじさんが飲んでた) すがるように蛇口をひねり、水を飲みました。スポンジのように水が体に入っていくのがわかりました。体にも心なしか力が入ります。いやー助かった。このまま我慢してたら倒れるまではいかなくても、多分後日に響いていただろうなと思うと、ランニングおじさんには感謝です。そして、その辺の水飲んでもお腹壊さない日本という国にも感謝です。

 

しかしこのあたりからまた別の問題が発生します。それは「一定以上の距離を走ると服が擦れて乳首が痛くなる(ひどい場合は血が出る)」という問題です。今まで真面目に走ったことがなかったので知らなかったのですが、調べてみると長距離ランナー共通の悩みだそうです。

対策としては絆創膏を貼ったり、ニップレスを貼ったり、コンプレッションウェアのような擦れようがないくらい密着した服を着たりといったものがあるようです。

そんなことはつゆほども知らない僕は、「なんで?なんで乳首痛いの?すげえ痛い!走るたび痛い!」と軽いパニック。服が擦れていることに気づいてからは服を浮かしながら走ったりもしましたが、ずっとそうしているわけにもいかず、かといって浮かすのをやめればまた乳首が痛く……筋肉痛より何よりこれが辛かった。

 

とまあ、諸々の問題に歯を食いしばりながら、なんとか家の下までたどり着くまでの道のりが以下の画像です。

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もうちょい走ればきっちり20kmだったのですが、筋肉痛やら乳首の痛みやらでもうその余裕はありませんでした。目標は平均ペース1kmあたり7分だったのですが、途中結構歩いたりしたのにこの平均速度ということは、もっと落としても大丈夫ってことですかね〜。

いろいろ問題は発生するし、走ったあと5日くらいは脚の調子が万全にならないので、あまり頻繁にはできそうもありませんが、1〜2ヶ月に1回くらいは一人ハーフマラソンやりたいなと思います。

 

3kmとか5kmだと「こう走ろう」とか、場合によっては仕事とかプライベートのことを考える余裕もあります。10kmだとその余裕は途中からなくなるけど、「あとどれくらいかなあ」と考える意識の余地は残ってるんですよね。

ただ20kmになると、(今回は水分不足の影響もあったのだろうけど)途中から頭が真っ白になってきて、とにかく目の前の一歩一歩を踏み出すしかなくなってくる。うだうだ言ったって、それができなきゃ目標の距離には届かない。だからできるのは我流で詰め込んだフォームの知識と体の感覚を総動員して全身に意識を行き渡らせて、正しいフォームで一歩一歩を踏み出す。このシンプルなところにまでいくには、今の僕の場合10km以上は必要なようです。

 

そしてこのシンプルなところに行くと、辛いんだけど少し気持ちよくなってくるんです。普段の生活では絶えず渦を巻いている後頭部あたりのもやもやが、すーっと晴れていく感じ。山を登って景色や歩くことに夢中になっている時や、筋トレの最後の追い込みで筋肉に意識を集中させている時と同じ感覚です。

将来のことも、家族のことも、恋人とのことも、あるいは生まれてから現在までに起きた喜びや悲しみ、幸せだった瞬間への執着や傷ついた瞬間の絶望や怒りも、何もかもを忘れ去って思考が止まる。ただひたすら、今ここの自分に集中する。

『自由への道』という上座部仏教の偉い人が書いた本を読んでいると、この感覚はなんとなく瞑想をしている時の感覚に似ているように思います。僕は瞑想をしてもすぐにあっちこっちへ思考が飛び始める落ち着きのない子なのですが、運動している時はうまく思考がストップするみたいです。だから運動はやめられない。(でも座って瞑想して、この感覚が手に入るようにもなりたい)

 

とまあ、実用面でも思考面でも色々と学びの得られただいたい20kmでした。次は8月末ごろかなあ。