6/20 曇り 少し肌寒い 2部
なぜ今玄米なのか。
この答えはたくさんあるでしょうけど、僕はこの動きを自分の思想に当てはめようと思います。
すくなくとも、僕は以下の考えをもとに、玄米食に切り替えました。
「江戸へ還れ」。
この一言に尽きます。
というのも、明治以降、日本は欧米列強に追いつき、これを追い越すために富国強兵・殖産興業を旗に掲げて、徹底した近代化を推進しました。
それがもたらしたものは、多くの「豊かさ」です。
ハングリーな日本人は満足することもなく突き進み、さらなる「豊かさ」を求めて戦争へと突入します。
太平洋戦争が終結し、日本が敗戦国となった後もそれはとどまることを知りません。
凄まじい勢いで日本は復興を遂げ、高度経済成長を経て、世界のメインストリームに躍り出ます。
それから数十年、日本は「豊かさ」の極致にいます。
整備されたインフラ
何時でも開いているコンビニ・スーパー
なんでもある大型小売店
溢れる食料・衣料・住居
モノモノモノモノモノモノモノモノ
それで幸せな人はそれでも構わない。
けれど、僕なんかは何となくこういう状態に違和感があります。
これは僕が子供のころから何事にも不自由せずに生きてこれたから思うのかもしれない。
そして、今になって先立つもの=お金のない生活に移行しつつあるから思うのかも。
でも、「そんなになんでもかんでも、ほんとにいるの?」と思わずにはいられない。
モノに関して、僕は基本的に蒐集癖があるので、この言葉は自分にとっても耳が痛い。
自分の周りには、「生きるために必要がないもの」が多すぎると思うのです。
多すぎる服→ファストファッション
多すぎる本→溢れかえるビジネス本・ハウツー本。内容は薄っぺらい、字も少ない。
思い出だって多すぎる→デジカメ、携帯、タブレット。外部記憶が多すぎて思い出は忘れ去られることがない。
あと脂肪も。
買う、という行為が当たり前すぎて見えなくなっているけど、買わなくてもいいものが実は僕たちの周りには多すぎる。
新しく買う、作る、そういう「足し算の美学」があまりにも蔓延しすぎた結果です。
僕が思うのは、すでに潮流としては始まっている、「引き算の美学」を生活の中心に据えたライフスタイルを自分のものにしたいということです。
「ない」ということにいかに価値を見出すのか。
ファッション業界のデザインの変遷を見れば、まさに文字通り「引き算の美学」が一目瞭然です。
世界的な「先進国」の経済発展がもたらした華美なデザイン、余分なシルエット。
それが有名サロンすらショーを中止する時代の現在、そのデザインもシルエットも、キーワードはいつでも「ミニマル」です。
無駄なものを排した美しさ。
無印良品が日本を飛び越えてフランスのオペラ座通りに出店し、人気を博したころから、この潮流は始まっていたはずです。
例えば枯山水と呼ばれる日本の庭園術は、まさしく引き算の美学です。
ないものを想起させることで、観る者の想像力を掻き立て、逆説的に無限の風景を生む。
また、茶室に掛け軸(「借景」)様の窓をあつらえ、そこから見える景色を更なる借景として飾る。
あるいは能・狂言。
大道具も小道具も極力排したその世界は、話の筋があるにもかかわらず、観る者の中に沈潜する世界を百人百様に映し出す。
そして、俳句。
5・7・5というたった17音の言葉たちに託すことができる内容は、時に何万字もの分量を持つ小説をも凌駕する。
そういう、「ない」からこそ昏々と湧き出る想像力が、この日本には文化として存在しているのです。
その文化を明治以降に行われた徹底的な西洋化が、どんどん殺してしまった(悪名たかき「鹿鳴館時代」)。
そしてその殺戮は今もなお続いています。
クールジャパンだの、ジャパニメーションだの、言葉ばかりが先行して、多くの人がその芸術のそこにあるものを見ようとしない、知ろうともしない。
こんな状態で愛国心なんてちゃんちゃらおかしい。
日本の教育ってそういうところ考えないといつまでたっても「日本人」は復権しない。
英語教育やってる場合じゃねえんだよ。
閑話休題。
ここで玄米です。
1部でも書いたように、玄米はそれ単体でものすごい栄養を持っています。
マクロビオテックの先生曰く、「玄米は完全食」なわけで、大げさに言えば玄米食ってりゃ死なないんですね。
しかも、食べ応えも抜群なので、そんなに量を食べなくても腹持ちがします。
つまり、ほかに肉だの魚だのをがっつり食べなくても、空腹は感じないし、栄養的にも致命的な問題はないのです。
そりゃそれだけだと必ずどっかに支障きたすでしょうけど(玄米食にはデメリットもあるという話もある)、少なくとも毎食肉を食う必要はないわけですね。
僕は朝は食べずに、昼に玄米とそれ以外に副菜を食べてます。
んで晩に、玄米と肉などを食べるのですが、これをするようになってからやたらと晩御飯の肉や魚が美味く感じるようになりました。
ごちそうなんですよ、動物性の食べ物って。
こういう生活するまで、こんな当たり前のことにも気づかずにいた。
江戸時代で言えば、肉や魚はどこでも食べれるものではなかったはずなんです。
多くの人にとって自分の生活圏内より外のものを手に入れることは、非常な困難を伴うことだった。
でも物流や生産の改善によってそんな問題はどこかに忘れ去られ、それよりも「いかに速く運ぶか」が議論の的になっている。
この状況が当たり前になったせいで、贅沢って何なのかの基準が大きくずれこんでしまったんです。
鮮度の高い肉や魚が手に入るのは、至上の喜びだくらいに思ってれば、日本人の幸福度は爆発的に上がるでしょう。
それくらい節食してるなかでの肉や魚はうまい。
ちょっと前にこんな本も流行りました。
「空腹」が人を健康にする (2012/01/18) 南雲吉則 商品詳細を見る |
これも引き算の健康法なんですよ。
3食が当たり前という固定観念から、2食引いてしまう。
1食生活も一年前くらいにやりましたけど、これはすごいです。
その1食の美味さは、尋常じゃないです。
そして、めちゃくちゃ食べ物の味に敏感になるので、手の込んだ料理の味は万華鏡みたいです(ドヤア)。
それに、1日に食べられるのがそれだけなんで、暇さえあれば「今日は何を食べよう」「明日はこれが食べたい」とごはんがめちゃくちゃ楽しみになります。
もはや食事がレジャーです。
毎食がディスニーランド(ドヤア2nd)。
まあ、結構しんどいんで、普通の生活してたら続きませんけどね。
つまりは、食の引き算を行うことで、食の価値がぐんとあがるということです。
そういう意味で、今だからこそ玄米だ、僕はこう思うんです。
別に僕のこういう考えが絶対的に正しいとは思いません。
父みたいな考え方もありだし、そんなの関係ねえ!足し算万歳!ってのもありだと思います。
ただ僕が思うのは、この足し算の文化はそんなに遠くない未来に崩れ始めるということです。
足し算文化の親玉=資本主義の限界が太平洋の向こう側に見えてきていて、にもかかわらずその背中を追うのであれば日本も心中するしかなくなるでしょう。
いずれ必要になるパラダイムシフト(価値格子の転換)の準備を僕たちはしておいてもいいのではないでしょうか。
と、2部では結構ややこしい話をしました。
でも今後も生活研究会は、こういう視点で生活を見直し、当たり前になっていることを浮き彫りにして再考する作業をしていきたいと思います。
にしても画像多すぎたなwww