ひとり部活動記録

文章書いたり、筋トレしたり、自転車漕いだり、山登ったり、基本はひとり。

「ことば」の役割について。

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真っ暗な世界を朝日が照らし出し、その美しさに胸を打たれた時。「執念」とも言える美しい手描きアニメに感動した時。ライターとしてお金を稼いでいるにもかかわらず、僕には日常生活で言葉にならない時がある。このあいだだって真っ青な空の下、地元の商店街を歩いている時に感じた幸福感をうまく言葉にできなかった。

感情や光景が自分の言葉にならないのは、僕がその対象を表す言葉を知らないからだ。言葉を知らないと対象を言葉として捉えられない。もちろん文章にもできない。もし言葉として捉えられず、文章として表現できないのであれば、それはもはや「体験していない」のとほとんど同じだ。言葉にしない記憶は保存がきかない。あっという間に忘れてしまう。

「言葉にできない」は仕事中にも起きる現象だ。例えばセキュリティシステムに関する文章を書けと言われたら、ネットで調べても僕は書くべき内容を捉えられない。セキュリティシステムに関する言葉を知らないからだ。知らないことは言葉にできない。(それでもクライアントに依頼されれば僕は書く。言葉にできるまでとことんセキュリティシステムについて調べて、書く)




言葉は世界を切り分けて、輪郭をはっきりさせてくれる。逆に切り分けられないと世界はぼやけたまま判然としない。そのままでは描写もできないだろう。例えば映画を見ても「よかった」しか言えない。

「あの映画どうだったの?」
「めちゃくちゃよかったよ!」
「どういうところが?」
「どういうところがって……もうなんか全部!」
「お、おう……」
「いやマジで観てくれればわかるんだけど!めっちゃいいんだよ!」
「う、うん……」
「きぃぃぃぃぃぃ!」

こうなるのは映画が見せてくれた世界をきちんと言葉で切り分けられていないからなのだ。

でも言葉があれば「どこどこがこういう理由でよかった」「なんという映画と比べてここが工夫されてた」というように体験を詳細に克明に記述できる。例えばこんな風に。

「どういうところが?」
「絵柄は萌え系だし、戦車もデフォルメが効いてて可愛いんだけど、やたらと音響にこだわってるんだよ。キャタピラのきしみとか、砲撃の爆発音とか。遠くからちょっとずつ走行音が地面を通して響いてくる感じとか、めちゃめちゃリアルだった」(『ガルパン 劇場版』についての鈴木の感想)

「どういうところが?」
「俺は作画が圧倒的だと思ったよ。恋物語だから派手なアクションとかはないんだけど、ちょっとした眉毛の動きとか頬の筋肉の引きつりとか、雲とか色のトーンを使った心情表現が本当に丁寧だった。もちろん実写映画のラブストーリーもいいんだけど、ああいう微細な表現はアニメしかできないよなあって思ったね」(『たまこラブストーリー』についての鈴木の感想)

こういうふうに体験を語れればそれだけ記憶にも残りやすい。自分はどんなところに感動してその映画を「よかった」と思ったのかがはっきりするからだ。一方で「よかった」だけではその体験を他人だけでなく自分にも伝えることはできない。「あの映画は良かった」という記憶は、もはや記憶というよりは印象にすぎない。



日本は色彩豊かな国だと言われる。青1つとっても60種類以上ある。

花色、鉄紺、薄花色、薄浅葱、薄水色、深藍、水縹(みはなだ)、青白磁、藍鉄色、孔雀青、紺碧、勝色、濃藍、白縹、天色、白藍、深縹(こきはなだ)、紅碧(べにみどり)、花紺青、藍鼠(あいねず)、水浅葱、湊鼠、御納戸茶、花浅葱、錆浅葱、紺青色、御召御納戸、褐色、御納戸色、鉄御納戸、紺桔梗、紅掛花色、千草色、瑠璃紺、深川鼠、熨斗目花色(のしめはないろ)、納戸色、錆鉄御納戸、浅縹、鴨頭草、青碧、熨斗目色、鉄色、紅掛空色、紺、青鈍、青、空色、勿忘草、ツユクサ色、縹色、群青色、瑠璃色、白群、升花色、御召茶、藍海松茶(あいみるちゃ)、水色、藍色、甕覗、浅葱色

このサイトの青の種類を引いただけでもこれだけある。色に造詣の深い人と「青」しか青を知らない人と比べると、目で見て頭で認識する世界の多様性には大きな差があることがわかるだろう。これは眉唾ものの話らしいが、昔エスキモーの言語には52種類もの雪を表す言葉があり、だから彼らからみればたくさんの雪が見えている、という話もあった。




これらは全て言葉が世界を細分化し、形を与えていることを示している。逆に言えば言葉を知らないということはいくらいろいろな経験をしていても、「世界を知らない」ということでもある。これは言い過ぎだとしても「せっかく体験した世界をしっかり体験し尽くせない」くらいは言えるだろう。同時に言葉さえ知っていれば多少の経験の差は十分埋められるということでもある。

名店のラーメンも、名作映画も、壮大な風景も、全部「やべえ」で片付けることはできる。それくらい現代における「やべえ」(そして「かわいい」)の汎用性は高まっている。しかしその「やべえ」の違いを言葉にできなければ、それは単なる「やべえ体験」でしかない。まじクソやべえ。

別にそれが良いとか悪いとかではない。本人にとって「やべえ」でしかないのならそれがすべてだからだ。もしかすると「筆舌に尽くしがたい」とか「なんとも言えない」とか書いてお茶を濁すなんちゃって美文家よりはよっぽど素直で良いかもしれない。ただ、シンプルに「もったいない」とは思う。テーマパークにはジェットコースター以外にも楽しい乗り物があるのに、ジェットコースターに乗ったらすぐに帰るというくらいもったいない。人生にはいろんな楽しみ方があるのに「仕事がすべてだ」と言って過労死するくらいもったいない。そう、結構もったいない。



ではどうすればいいのか?

おそらくそのためにできることは「言葉をストックすること」しかない。表現することをサボっていない文章を大量に読み、言葉の意味や使い方をためこんで、はじめて「世界」が広がっていく。言葉が世界を見せてくれるようになる。こればっかりは多分王道はあっても近道はなくて、ただひたすら本を読むしかないだろう。ネットの文章でもある程度は身につくが、ネットには先ほど言ったような「なんちゃって美文家」が出版物の比にならないほど多いのであまり効率が良くない。もちろん出版物だからといって良い文章ばかりというわけではないので注意が必要だ。

僕はもっといろいろな世界が見たい。ただ光刺激として網膜で感じるだけでなくて、言葉として見たい。そのためにはもっと本も読まなきゃなあ。高山先生の新刊も出たことだしなあ……。ライターとしても人としても、言葉としっかり向き合っていたいものである。