ひとり部活動記録

文章書いたり、筋トレしたり、自転車漕いだり、山登ったり、基本はひとり。

「想い」や「考え」は言葉にしなきゃ伝わらないよ


世の中には「本人にしかわからないこと」が少なからずある。例えば僕は高校のバスケ部生活2年ほどで、足首を2回(3回だったかな?)、右手中指を1回骨折している。これだけ短期間に骨折を繰り返すと、折った途端に「この痛みは折れてる。むやみに動かしたらヤバい」というのが分かってしまう(何の自慢にもならないがw)。


しかし骨折の経験がない人からすれば「捻挫のひどいやつか?こんな痛み知らねえぞ…」となる。ちなみに僕は靭帯も痛めた経験があるが、靭帯を痛めた時と骨を折ったときの痛みも、感覚的に微妙に違ったりもするが、これも経験者にしか(しかも覚えているうちにやるほどのドジっ子にしか)わからない。

 

うつ病」に関しても同じだと思う。実際、僕はごく近しい人がうつ病になったとき、「うつ病ってなんじゃらほい。気合が足りんのと違うのケ?」とか思っていた。このときの僕はうつ病がどれだけ辛く、抗えないものなのかを全く理解していなかった。確かにもともとうつ病体質だったので、高校時代・大学時代にも今思えば軽い抑うつ状態になったことはあった。しかしそれらはごく軽症のものだったので、なんとかやりすごせていた。つまり僕はうつ病になったことがなかったのだ。だからその辛さをわかるはずもなかった。

 

骨折した人が痛みを伝えるためには言葉を使う。それならばうつ病の人も、その苦しみを伝えるためには言葉を使わなきゃらない。骨折ならギプスなりなんなりで視覚的に「痛み」が伝わるが、残念ながらうつ病の辛さは見た目からは伝わりにくい。仮に伝わったとしても「サボってるんじゃないか?」「悲劇の主人公のつもりか?」とか、間違った伝わり方をしてしまう。

 




先日『僕と「うつ」23脚』という本を読んだ。この本は僕よりも20歳年上の著者が、大学卒業後社会人1年目で「うつ病」を発症し、その後完治することなく、微妙なバランスを保ちながらこの病と付き合っていくようになるまでの20年間の記録を綴ったものだ。医者には「統合失調症」と診断されたり、暴れるからという理由で精神病院に拘束具をつけられて軟禁されたりと、時代を感じさせる内容も多々盛り込まれているほか、読む限り僕よりも相当重い症状を抱えておられるようだ。

 

この本の中に、散文的に綴られた「僕たちの苦しみ」という文章がある。簡単に引用させてもらう。

 

僕は何度も思った

何度も願った

そして呪った!

無理解な人たちに対して、叫びたかった!

 

「だったらお前も『うつ病』を患ってしまえ!」

「この同じ苦しみを味わったうえで、その言葉を吐け!」

 

<中略>

 

いや、他人だけではない

家族のほうが理解がないことも多い

「他人ではない、家族だから本当のことを言うんだ!」

「苦しいのはお前だけではない!」

僕の状況をまったくわかりもしない

家族のことばほど

むなしいものはなかった

 

『僕と「うつ」23脚』p9495

 

うつ病に対する無理解な人たちの言葉は確かにうつ病患者にとっては本当に辛いものだ。彼らは骨折している人に「走れよ!」とは言わないのに、心が壊れきっている人に対して「苦しいのはお前だけではない!」などと言う。こういう人たちにとっては「理解できないもの=存在してはいけないもの」なのかと思うほど、無理解な人たちは無遠慮にうつ病患者の心を踏みにじる。

 

しかし今だからこそ言えるのは、「無理解な人たちに対して、叫びたかった!」と思うのなら叫ぶべきだったし、「僕の状況をまったくわかりもしない家族のことばほどむなしいものはなかった」と思うのなら、自分の状況をわかってもらえるまで伝えるべきだったということだ。

 




もちろんそれがとんでもなく難しいことなのは十二分に理解しているつもりだ。実際僕も自分で自分の状況がわかっていなかったし、それを周囲に伝えても自分自身がそのことを信じきれていなかったので、なかなか誰かに自分のことを話すことはできなかった。


「手足がうまく動かせず、ベッドから立ち上がった途端に足がもつれて床に倒れこんでしまった」

「急に悲しくなり、目からボロボロ涙が溢れて、大きな声をあげて泣いた」

「仕事中何があったわけでもないのに目から涙が溢れた」


こんな状況をどうやって誰に聞いてもらえばいい?うつ病の症状が表面化したときに一番困惑しているのは本人なのだ。だからそれを誰かに伝えるのは難しいし、ひどく苦しい。



 

でも、それでも、伝えなきゃならない。自分にとってどうでもいい人にまで伝える必要はない。ただ、自分にとって大切だと思う人には、もしこれからもずっと付き合っていきたいと思う人には、根気よく伝えなきゃいけない。


でなければ相手もどうやってうつ病患者に接していいか、わからないからだ。自分が何を考えていて、何を感じていて、どんなことに困惑しているか、そして「何がわからないのか」も全て伝えよう。

 




そうやって具体的に伝えるためには、少なからず自分も「うつ病の自分」と向き合っていかなきゃならない。「まさか自分が」「自分は違う」なんて目を背けないで、向き合う必要がある。そうでもしなければ、他人に伝わるように言葉にすることなんてできないからだ。

 

僕はこの作業が、うつ病が良くなるごくごく初期のステップだと思う。僕がうつ病になったとき、最初に抱いた考えは「うつ病になるなんて、俺はもうダメだ。ダメな人間なんだ。価値なんてないんだ」というものだった。これはうつ病を直視しているようでいて、その実「うつ病のイメージ」を見ているだけだ。


イメージはイメージに過ぎず、現実ではない。きちんと向き合うということは時間と労力をかけて、その対象の実際の姿を確かめていくことだ。それをすれば「うつ病になる人はダメではないし、価値がないわけでもない」ということが見えてくる。そういう客観的な視点からうつ病と付き合うと、少しずつどう対処すればいいかもわかってくる。他の人にも病気のことを話せるようになる。

 



しかし病気のことを話すのが苦しい作業なのには変わりない。場合によってはきっかけになった出来事を掘り返さなくてはいけないだろう。だから全ての人に伝える努力をする必要はない。その努力が身を結ぶのは「相手も自分を理解しようとしてくれている場合」だけだと考えよう。


理解しようとしない人というのはたいてい「でもな」「だいたいな」「そもそもな」「そうはいっても」とかなんとか言って、こちらの話を奪って自分の価値観を押し付けようとする。結局は「自分の理解できないこと」を話しているこちらが気に入らず、自分の考えを通したいだけなのだ。こういう人は元気があるならやっつければいいが、ないうちは徹底的に避けるに限る。絶対にやりあってはいけない。

 

 

 



 

うつ病はならなきゃわからない」のは確かだ。でもそれならなおのこと伝えなきゃわからない。わかってもらう必要があったり、わかってもらいたいなら、まずは自分が伝えようとすることだ。それがきっと治療の面でもいい結果をもたらしてくれるだろう。