ひとり部活動記録

文章書いたり、筋トレしたり、自転車漕いだり、山登ったり、基本はひとり。

『〆切逃走作家奇譚』3

〈一の二〉

「ちくしょ〜、あのクソ作家。ぜってえ許さん」
力いっぱいに部屋の扉を蹴り飛ばすと、サイトウはそう唸った。

彼女は文学賞作家・サカキの担当になって今月で半年になる。その間サカキがまともに原稿を渡したのは初めの一回だけだった。前任者からは「本当ならあのクソ野郎は首輪でもつけて編集部の倉庫にブチ込んでおくべきだ」と聞かされていたから、最初は拍子抜けしたものだ。前任者は社内でも有名な美人編集者で、普段はその美貌と仕事ぶり、そして何より誰にでも優しく接する人柄の持ち主だったので、そんな人が憎悪の形相でそんな風に言うので、相当なものだと覚悟していたのである。

それを知っていたのかサカキは、最初の原稿を締め切りの一週間前に入稿してきた。「なんだ、きちんとした人じゃないか」と思ってしまうのも無理はない。ところが二ヶ月目から毎回入稿が遅れ、サイトウは前任者の言葉の意味を知る。あの手この手で催促から逃れるサカキに手を焼いた挙句、サイトウは前任者に教えを乞うしかないと考えた。なんだかんだとサカキの原稿は人気がある。どうにかしなければならない。すでに別の出版社に転職していたが、失礼を承知でサイトウは前任者の自宅を訪ねた。

すると彼女は前回とは違い、「あの人も変わらないのね」と優しい声と少し悲しげな顔で『サカキ・ナオト追込みマニュアル』と題された一冊の冊子を部屋の書棚から取り出した。パラパラとページを手繰ると、「インターホンはサカキがノイローゼになるくらい鳴らす」「サカキにはストーカー被害歴があり、ドアノブを鳴らされるとフラッシュバックを起こす。インターホンで出ない場合はドアノブで恐怖を植え付ける(後記 克服してる?)」「締め切り一週間を切っても音沙汰がない場合は、全く書いていない可能性」「こちらの殺意を感じ取らせるべし」など、作家一人にここまでするかというほど詳細に書かれている。中には「誕生日にプレゼントを渡しておくとしばらく締め切りを守る」といったなだめすかしの方法も書かれていた。

冊子の最後のページには滋賀県の地図が貼り付けてあり、山深い場所に赤丸とともに「シェルター」と殴り書きされている。あのクソ作家は山にまで逃げ込むのかと、サイトウは頭をかきむしりたくなった。
「それがあれば、多分大丈夫よ。もっとも彼の逃走手段はどんどん進化するんだけどね」
「進化ですか」
「うん。インターホンもドアノブも、どんどん慣れちゃうのよ。しかも追い詰められれば追い詰められるほど、危機感を感じなくなっちゃう。状況を楽しみ始めるの。こっちはそれが悔しくて躍起になって追いかけるんだけど、その想像を超える方法で逃げて行っちゃう。作家のくせに暇さえあれば体鍛えてるから、走ったりするのも速いしね」
「ま、まじですか」
「マジよ。でも彼の書く文章は私も好きだし、世の中の人も求めてる。だから書いてもらわなくちゃならない。サイトウさん、よろしく頼むね。」
「はい」
とは答えたものの、サイトウはすでにゲンナリしていた。前任者の話は柄にもなく編集の仕事とは何か、などと考え込みたくなる内容だ。彼女は前任者に礼を言い、マニュアルをお守りのように抱きしめて帰途についた。

ひと通り罵詈雑言を吐いたあと、サイトウはマニュアルを開いた。インターホンもドアノブも、ガス流し込みもやった。それでも出てこないサカキは知らぬ間に階下に降り、大きなバックパックを背負ってどこかに姿を消した。もちろん携帯にも出ない。
「大きなバックパック……」
サイトウは休日に合コンを差し置いて登山に行くほどの登山好きだった。サイトウが背負っていたのは、容量だけ大きくて背負っているとすぐに肩が痛くなるような安物ではない。登山家が好んで使う本格的なメーカーのものだった。サイトウはマニュアルのページを一気に手繰る。
滋賀県武奈ヶ岳山域!」
そう力強くつぶやいて、編集者は走り出した。