ひとり部活動記録

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「西成は治安が悪い」はほんとうなのか?軽く調べてみた

「大阪西成」の名前は近畿圏のみならず、全国的にも悪い意味で轟いている。僕が高知大生の頃に奈良県出身の店長に「大阪のどこ出身?」と聞かれて「西成区です」と答えたら、間髪入れずに「ヤンキーやん!」と返ってきたことがある。高校時代も友人たちはあまり僕の家に遊びに来たがらなかったし、今仲良くしている友達の彼氏は「住所が西成って時点で住みたくない」とまで言ったらしい。アパートやマンションも道路一本しか違わないにもかかわらず、住所が西成になった途端家賃が安くなるそうだ。西成はどうやら「マジヤベエ」らしい。

しかし大学四年間と社会人生活二年間を除いて、20年以上この街に住んできた僕からすると、少なくとも「西成」という住所というだけで「マジヤベエ」体験をしたことはない。喧嘩に巻き込まれたこともなければひったくりを見たこともなく、覚せい剤を売りつけられたこともないのだ。思えば「自転車のカゴにカバンを入れるときは注意しろ」と言われて守ってきたが、自転車のカゴの荷物を奪われそうになったこともない。

ここで僕は「もしかして、別に西成って治安悪くないんじゃないの?」という疑念を抱いた。西成区外の人間はもちろん、住んでいる人間すら思い込んでいる人も多い「西成は治安が悪い」というイメージには、実は裏があるのかもしれない。今回はこのことについて簡単に調べてみた。

「西成は治安が悪い」のイメージはどこから来たか?

そもそもこの「西成は治安が悪い」というイメージはどこからきたのだろうか。それは言うまでもなく、1961年から2008年の間に24回も起きている西成暴動釜ヶ崎暴動)だ。

釜ヶ崎とは大阪府大阪市西成区の北部、JR西日本新今宮駅の南側に位置する簡易宿所寄せ場が集中する地区を指す。僕もこのあたりは昔から「警察署に用事がある限り、あんまり行ってはいけない」と言われてきた場所で、今でも良い意味でも悪い意味でも「西成DEEP」といえばこの地区を指す。ここは日雇い労働者が多く住むドヤ街で、労働条件の悪さから常に「鬱憤」が蔓延しているらしい。それがちょっとしたきっかけで爆発し、暴動に発展してきた。Wikipedia先生による暴動の時期と原因は次の通り。

・第1次暴動(1961年8月1日-8月5日) 日雇い労働者がタクシーに轢かれた交通事故の処理を巡って発生した暴動。最初の西成暴動である。

・第2次暴動(1963年5月17日-5月19日) 夜間作業の求人が意外に少なかったことに端を発する暴動。

・第3次暴動(1963年12月31日-1964年1月5日) 求人が思ったよりも少なかった事に端を発する暴動。

・第4次暴動(1966年3月15日) 立ち飲み屋の支払いを巡るトラブルで、日雇い労働者が警察に連行されたことに端を発する暴動。

・第5次暴動(1966年5月28日-5月30日) 火事の現場にいた野次馬が暴徒化した事件。

・第6次暴動(1966年6月21日-6月23日) パチンコ屋の店員と日雇い労働者が喧嘩したことに端を発する暴動。

・第7次暴動(1966年8月26日) 果物屋でのトラブルに端を発する暴動。

・第8次暴動(1967年6月2日-6月8日) 飲食店で支払った代金を巡るトラブルに端を発する暴動。店の備品のほとんどを破壊した。

・第9次暴動(1970年12月30日) 年末で求人が激減したことに端を発する暴動。ちなみに新左翼活動家による越年闘争が始まるのは、この後からである。

・第10次暴動(1971年5月25日-5月30日) 夜間作業の求人に来ていた業者とのトラブルに端を発する暴動。新左翼活動家がこの暴動に介入し騒ぎを大きくした。

・第11次暴動(1971年6月13日-6月17日) 簡易宿所の管理人が玄関に寝ていた日雇い労働者をどかそうとしたことに端を発する暴動。

・第12次暴動(1971年9月11日-9月15日) 果物屋の店員が酔っ払っていた日雇い労働者を転倒させたことに端を発する暴動。果物屋が焼打ちされた。

・第13次暴動(1972年5月1日-5月2日) 釜ヶ崎メーデーで逮捕された容疑者の釈放を求めた暴動。新左翼活動家がこの暴動に介入し騒ぎを大きくした。

・第14次暴動(1972年5月28日-5月31日) 労働組合員と手配師との喧嘩に端を発する暴動。

・第15次暴動(1972年6月28日-7月3日)

・第14次暴動の検挙者の釈放を求めた新左翼活動家とそれに煽動された日雇い労働者による暴動。

・第16次暴動(1972年8月13日-8月16日) 釜ヶ崎共闘会議(釜共闘)と右翼団体とのトラブルに端を発する暴動。

・第17次暴動(1972年9月11日-9月15日) 新装開店したパチンコ屋が、機械の故障でただちに閉店したことに端を発する暴動。

・第18次暴動(1972年10月3日-10月4日) 病院職員と日雇い労働者とのトラブルに端を発する暴動。

・第19次暴動(1972年10月10日-10月11日) 釜共闘手配師とのトラブルに端を発する暴動。

・第20次暴動(1973年4月30日-5月1日) ゴールデンウィーク中の求人減に不満を抱く日雇い労働者が釜共闘に煽動されて起こした暴動。

・第21次暴動(1973年6月14日-6月30日) 酔っ払い同士の喧嘩に端を発する暴動。

・第22次暴動(1990年10月2日-10月7日) あいりん地区を管轄する大阪府警西成警察署の署員が、暴力団から賄賂を貰った事が発覚したことに端を発する暴動。

・第23次暴動(1992年10月1日-10月3日) 大阪市が行っていた資金貸付を、資金が尽きたことを理由に中止したことに端を発する暴動。

・第24次暴動(2008年6月13日-6月17日) 飲食店の支払いを巡るトラブルで、日雇い労働者が警察に連行されたことに端を発する暴動。

……これを読むと「西成マジヤベエ」となっても仕方ない理由で暴動になっているが、この程度のトラブルで暴動に発展するほど、釜ヶ崎には「鬱憤」が蔓延していると考えることもできる。ただ1960年代後半や1970年代は全国の大学でも学生運動の真っ只中であり、これを釜ヶ崎に特有の現象だということはできない。いわば日本全体が何か鬱屈したものに掻き立てられていたと言える。

ただこの暴動の中でも特殊と言えるのは第22次暴動と第23次暴動だろう。ここだけ警察署・大阪市という国家権力との対立が起きている。特に1990年の第22次暴動は、未だにYouTubeなどでも映像がアップロードされており、記憶にも新しい。

機動隊との衝突、火炎瓶や石の投下……およそ今の日本からすれば「マジヤベエ」光景が広がっている。普通に怖い。しかし同時に自分が持っている石でよろけながらも、機動隊に向けて石を投げるお爺さんなどを見ると、そこまでしてしまうような状況に追い込まれている人たちの切実さも感じて目頭が熱くなる。テロリズムの悲哀というとロマンチックすぎるだろうか。

ところで僕の実家の住所は西成区であるが、このような暴動の只中で小中学校に通い、生き抜いて来たわけではない。テロリズムの悲哀を感じるくらいに、この地域に対しては第三者であり、傍観者、部外者である。にもかかわらず「西成出身=マジヤベエ」になるのは、主にメディアとその内容を鵜呑みにする大衆の噂好きが原因だろう。

実際、『経済学者 日本の最貧困地域に挑む』(2016年10月、東洋経済者)の著書であり、大阪市特別顧問でもある鈴木亘さんは、大阪市の正式文書の中西成区、特にあいりん地域は、大阪市においてもっとも犯罪が多い「危険地帯」であるというイメージが、主にマスコミによって作られ、定着している感がある」と記している。

このことについて、もう少し具体的に書いていきたい。なお、以下の内容は特定の地域に住む人を貶めようというものではない。日本の場合、よっぽどのことがない限りどの土地にも人の生活があり、そこで幸せを感じている人たちもいる。それを否定するつもりは毛頭ない。できるだけ客観的、数値的な観点からの記述を心がけるので、その点はあらかじめ理解しておいてもらいたい。

西成区」って実はそこそこ広い。

最初に言っておきたいのは、「西成区」がそこそこ広い地域だということだ。

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この画像の赤い部分が西成区。大阪には南北を貫く鉄道がいくつかあるが、僕がよく利用する大阪市営地下鉄四ツ橋線の駅だけでも「玉出」「岸里」「花園町」があり、南海電鉄の駅でも「岸里玉出」「天下茶屋」「萩之茶屋」がある。ちなみに新世界がある新今宮駅西成区ではなく、浪速区に属している。

このうち、いわゆる「あいりん地区」つまり釜ヶ崎は、せいぜい新今宮駅の南側から萩ノ茶屋駅周辺程度の地区にすぎない。にもかかわらず、それ以外の地域まで「暴動」「火炎瓶」の文脈で語られる。これでは住んでいる人たちが「西成って結構住みやすいけどなあ?」と首をかしげるのも無理はないだろう。

これは僕が今住んでいる場所が大好きだから言うことであって、他の地域を貶めるわけではないが、僕の住む「玉出」という街は、西成区の最南端に位置している。道路一本南に渡れば全国の住吉神社の大ボスである住吉大社のある住吉区だ。つまり、西成区の中でも最も釜ヶ崎から遠い場所にあるのだ。

もちろん可愛い女の子が深夜にパジャマ姿で歩いていても「絶対安全」といえるような場所ではないが、そんな場所は超お金持ちばかりの住宅地か、そもそも人の少なすぎる不便なところにしかない。高知大学のある高知県高知市朝倉でさえ、変質者はいる。

「あいりん地区」がずば抜けて治安が悪いわけではない?

わが故郷「玉出」の弁護はこれくらいにしておいて、最も重要なトピックに移ろう。それはそもそも「あいりん地区」は治安が悪いのか、という問題だ。「何を今さら」という人もいるだろう。「パチンコ屋がすぐに閉店しただけで暴動が起きるような地域の治安が悪くないはずがない」「西成は『日本一治安の悪い街』だ!」と。しかし残念ながらそれは思い込みだ。

都道府県・市区町村ランキングサイト 日本☆地域番付」が出している2009年の「大阪府の犯罪発生率ランキング」によれば、人口100人あたりの犯罪発生率でダントツの最上位に位置するのは外国人が大好きな難波や心斎橋のある大阪市中央区である。古いデータではあるが、犯罪発生率は10.760%となっており、10人いたら1人は何かしらの犯罪者だという、とんでもない数字になっている。とはいえこれは人口総数に対する数値なので、中央区外からやってきた人間が中央区で犯罪を犯してもカウントされてしまっている。くれぐれも「中央区民=10人に1人」は犯罪者などとは思わぬようにしなければならない(こういう数値の操作は人を騙しやすい。注意したい)。

中央区より下を見ていくと、中央区の北側に位置する北区が6.765%、中央区の南側の浪速区が5.652%、通天閣の東側にある天王寺区が3.410%となっており、我が西成区は3.150%で大阪市の区の中で第五位だ。確かに観光客や西成区外からの来訪者が多くないにもかかわらずこの数値というのは、やや高い気がしないでもない。しかし前述の鈴木亘さんによれば、平成21年〜24年7月までの街頭犯罪件数(ひったくりや車上荒らしなど)でも、24ある大阪市の区の中で西成区は7〜10位程度に収まっている。「西成は『日本一治安の悪い街』だ!」というのは、そもそも大阪市内ですらあてはまらない暴言なのだ。

さらに鈴木亘さんは細かくデータを分析し、釜ヶ崎地域での犯罪件数が別段特に高いわけではないということも説明している。もちろん土地柄覚せい剤の売人などがいないわけではない。しかし少なくとも数値上「ただ街を歩いているだけで犯罪に出くわす可能性」は、西成区よりも大阪の繁華街の方が高いのである。

しかも大阪市が発表している西成区の街頭犯罪発生件数によれば、平成29年西成区の年間の全刑法犯(刑法を犯した数)は、平成25年12月末で3,242(大阪市全体の5%)だったが、平成28年12月末で2,272(大阪市全体の4%)にまで下がっている。この数値だけを取り出して断定はできないが、もともと一番悪いわけではなかった治安も改善され始めているのだ。

結論:西成区は「住めないほどやばい」わけではない。

かなり大雑把な分析ではあったが、これで少なくとも西成区が「住めないほどやばい」わけではないことは理解してもらえたのではないだろうか。しかも西成区は鉄道駅周辺に住んでいれば、難波や梅田までのアクセスも良く、なんなら自転車や徒歩でも中心部へアクセスできる便利な場所である。そのわりに不当なイメージのせいで家賃も安く、そこそこの田舎なので繁華街のようなガヤガヤ感もない。

僕の住む玉出に関して言えば「本通り商店街」という大きな商店街があり、寂れてきてはいるがスーパーや美味しい魚屋、餅屋、ケーキ屋、豆腐屋もある便利なところだ。便利さと住み心地、物価や土地の安さを考慮した場合、なかなかこんな街は見つからないのではないか、と思うほどである。釜ヶ崎のおじさん達だっていつもブチギレているわけではなく、話してみると実は気の良いおじさんだったみたいなことも多いらしい。先入観は得てして真実を捻じ曲げるものだ。

大阪の中心から離れた場所や、地方に比べれば確かに「治安が良い」とは言えない。しかしマスコミやネットが作り出す既存のイメージを取り払ったうえで、もう少し西成区の本当の姿も見て欲しい。

結構、良いところなんですよ、西成。