これから少しずつ、昔の文章を振り返ります。
先日講演者として参加した中小企業経営者の会で、ある方から「昔お父さんからブログのようなものを見せてもらったのだけれど、あれは今も書いているの?」と聞かれた。僕がブログを始めたのは最近だったので、おそらくmixiのことをおっしゃっていたのだろう。
そんなきっかけがあって、ふと自分のmixiの文章を読み直してみた。 何も考えずに書きつけていたせいもあり、ものの見事に読みづらく、理解もしにくい抽象的な議論が多い。
でもやっぱり考えていることや価値観は、今にも通じるものがたくさんあった。そこでブログのネタがないときは、昔の自分の文章セレクションをやっていきたいと思う。これに関してはカテゴリを作って、まとめていく。
示唆に富みすぎて逆にわかりにくくなっている文章、読むものを寄せ付けないガチガチ抽象論、酒か自分に酔っているポエミーな文章……mixiには僕の青春が詰まっている。お目汚しになること請け合いだが、興味がある方は是非読んでみてほしい。結構、良いこと言ってたりするんですよ(笑)
今回転載するのは、2014年1月4日の午前5時24分に投稿した日記だ。伝えることについて抽象論に徹した書いたものだが、ひとつひとつ言葉を選んで。丁寧に書かれている。
かなり分かりにくいが、この文章に関しては今の自分から見ても的確だ。 2014年1月4日といえば高知の会社を辞めて、大阪に帰ってきてからアルバイトをしてみたり、カウンセリングに通ってみたりした挙句、少しずつ人をまた信用でき始めた時期だったと思う。
まだ自分がライターになるなんて思ってもいなかったし、筋トレだってしていなかった。確か髪を長く伸ばして、ハンドクリームとかヘアトリートメントとかに凝っていたはずだ。
そんな僕が書いた「伝えること」についての記事、お暇つぶしにごらんあれ。
人は傷つけあって、涙を流して、いつでもすれ違っている。
人はどこまでも、いつまでも不完全で、だからこそわかり合おうと、人を愛するのだけれど、何十年一緒にいても、分かり合えないものは分かり合えない。
不完全さは、大きく言って、感情に起因している。 単純なものなら、感情的になったがために、本来理性的に順を追って話せばよいものを、相手にただ感情的になったことだけが伝わってしまい、すれ違う場合。
この場合の感情は、うまく使えば伝えるのに効果的なこともあるわけだけれども、それはあくまで意図的に行うものであって、それは感情をぶつけるのとは意味が違う。
複雑なのは、見栄や建前、意地や先入観、時には優しさや気遣い、慢心、迷いなどの、直情的ではない、しかし大きく言って感情的なフィルタがその人の自己意識に蓋をしてしまっている時起こる、すれ違いである。
そういうフィルタは、得てして正確な情報を伝える時に、邪魔になる。 繰り返しになるが、たとえ伝えたいことが感情的な内容でも、それはきちんと感情をコントロールし、その感情を伝えるために最適な言葉と表情、身振り手振り、声のトーン、方法で伝えなければ、伝わらない。
すれ違わないためには、傷つけ合わないためには、とても繊細で、微妙な、選択が必要なのだと思う。
それを雑にやるから、今日も何処かで誰かと誰かがすれ違う。
それは確かに人間であることの醍醐味というか、逆説的な美しさに繋がっているのだけれど、僕は、もう、傷つけられるのもごめんだし、傷つけるのも、誰かが傷ついているのをみるのももう嫌だ。
伝える作業というものは、子供が生まれて初めてピアノの鍵盤を恐る恐る触れる時のように、暗闇の中青白い月明かりを頼りに夜道を歩くように、あるいは初めての恋人と初めてのキスをする時のように、いつだってそんな風に行われなければならない。
それだからこそ、伝えるということになんとも言えない美しさが生まれるのだと、僕は思うのだ。
良いこと言うわーw