僕たちが赦される唯一の方法は「誠実であること」だ。(前編)
今日と来週は過去の自分にならって、抽象的な話ばかりしようと思う。テーマは誠実さについてだ。
人は間違いを犯す生き物である。
浮気をしたのに、問い詰められて答えに窮し、「最後まではしてない」とか言い逃れにもならないセリフを吐いたり、どう考えても幸せになれない男との関係に執着して己の人生を浪費したり、塩と砂糖を間違えたり、醤油とソースを間違えたり、とにかく際限なく間違える。
間違えると別れを切り出されたり、冴えない人生になったり、ケーキがしょっぱくなったり、目玉焼きに何をかけるか論争が勃発したりする。なかには笑いに変えられる間違いもあるが、もちろん変えられないものも多い。
だからできれば間違えたくないものだ。 しかし残念ながらどれだけ注意を払っていても、人間は間違える。
なぜ正しいことを正確に行えないかというと、知らないことがあるからだ。無知なのである。 知らないことがある、ということは予測結果を導き出すまでの過程に不確定要素があるということだ。不確定要素の数が増えるほど、結果の予測精度は下がる。
方程式の変数が増えるほど、解を導くのは難しくなる。しかしだからといってわからない変数があるのに解は導けない。 にもかかわらずテキトーに解を導き出せば、間違って当たり前である。
そして私たち人間にはすべての不確定要素を逐一明らかにする力も時間もない。残念ながら、間違える確率をゼロにすることはできない。
ではどうすれば良いのか?僕は「誠実であること」が唯一の方法だと思っている。
間違えたとしても、その選択が誠実であったならば、きっと自分も納得できるだろうし、自分の選択で迷惑をかけてしまった人たちも理不尽に怒り狂ったりはしないはずだ。
もし理不尽に怒り狂うようならこっちだって用意がある。ダンベルを口に突き立ててやろう。目には目を、理不尽には理不尽を。
Google先生によれば、誠実とは「真面目で、真心があること」だそうだ。わかったようなわからないような、ふんわりした説明である。これを今週と来週を使って、もうすこし掘り下げてみよう。
まずは真面目についてである。真面目には時間的要素と空間的要素の2つが絡んでいる。
時間的要素における真面目とは「継続すること」である。三日坊主で止めるような人間のことを真面目だとは言うまい。約束したことを数日後には忘れ、ド派手に破るような人間も、真面目ではないだろう。
真面目であるためには、とにもかくにも継続がなければならない。
一方で空間的要素における真面目とは「ヌケモレがないこと」「ぬかりがないこと」である。1万字の文章の中に誤字脱字が1文字もない人と、400字の間に誤字脱字が80字近くもある人を比べた時、明らかに前者の方が真面目な印象を受ける。真面目であるためには、正確さが必要だ。
ただ注意したいのは真面目か否かは、ゼロかイチかという問題ではないという点だ。5年続けていたことを1日サボったからといって、あるいは1万字の中に1文字のミスがあったからといって、それが即不真面目だということにはならない。
真面目かどうかの評価には「真面目度」とでもいうべきものがあり、それが高すぎる人をクソ真面目、低すぎる人をチャランポランと呼ぶ、と考えるべきだろう。
かくして誠実であるためには、まず継続性を持ちつつ、正確な仕事や言動を心掛ける必要がありそうだ。
人間は間違える生き物なので、後者に関しては100%を実現するのは難しい。しかし真面目さは度合いで測られるので、1つのミスで全てがダメになるわけではない。
極力ミスをなくそうと力を尽くす姿勢こそが真面目、そして誠実さに繋がるといえそうだ。
ではもう一つの要素「真心があること」とは何か?これについては次回考えたい。