ひとり部活動記録

文章書いたり、筋トレしたり、自転車漕いだり、山登ったり、基本はひとり。

筋トレは、ツラくない。

 筋トレをしていると必ずと言っていいほどされる質問が「何になりたいの?」「何のためにやってるの?」だ。

これを聞かれたことがない日本の筋トレ好きは、おそらく9割以上に上るだろう。それくらいド定番の質問である。

今日はこの質問への正しい回答と、僕の筋トレへの考え方について書く。

 

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僕は最近まで、こう質問されると何かそれらしい理由を探そうとしていた。「いいカラダになるため」とか「デート中に怖い人に絡まれても、恋人を抱きかかえたまま逃げ切れる筋力と体力をつけるため」とか「心身の整理のため」とか。

しかしいつもそうやってそれらしい理由を答えた後に思うのは、「いや、そんな何か目的じみたことがあって筋トレをしてるんじゃないよなあ」ということだった。

僕は、純粋に筋トレそのものが好きなのだ。だから「何になりたいの?」「何のためにやってるの?」についての正しい回答は「好きだから」である。

 

何が好きなのか?それはざっと以下の3点に集約される。

徹頭徹尾自分との戦いである。サボっても、全力を振り絞っても、全て自分に返ってくる。自分で責任が取れるし、絶対に裏切られない。筋肉は人間より信用できる。

・重量の増加や、挙上回数の増加を記録しておくことで、自分の成長を確実に体感できる。それが積み重なれば「筋肉のサイズアップ」という目に見える形でも実感できる。

単純である。もちろん筋トレにも技術は必要だが、「この筋肉を鍛える」という目的があって、「こういうトレーニングがある」という手段があるだけという意味で単純である。あとはやるだけだ。そこには「世間体」やら「大人の事情」やらは入り込んでこない。やったやつだけが結果を手にいれる。それ以外のやつに筋肉の女神は微笑まない。

 

確かに筋トレはツラい。「何になりたいの?」「何のためにやってるの?」という人たちは、なぜわざわざツラい思いをしているのかが不思議で仕方ないのだろう。

しかし筋トレでツラい思いをできているということは、それだけ努力できているということだ。前述のように筋トレの(正しい)努力は、必ず報われる。筋トレにおける正しい努力と結果のつながりは、たとえ国家権力でさえ邪魔できない。だから筋トレのツラさは結果の約束と同義なのだ。

ツラいことがツライだけになるのは、結果につながらないときと結果につながるかどうかわからないときだろう。筋トレにおいて、これらは当てはまらない。だから筋トレはツラくない。

 

  

むしろ筋トレでツラいのは「努力し続けられないこと」だ。本当は筋トレがしたいのに、やりすぎれば筋肉はつかないし、何より筋トレの質が悪くなる。いつもなら挙げられる重量が挙げられなくなる。それはつまらない。だから我慢しなくてはいけない。これがツラい。

※ちなみに「筋トレが続かない」という悩みを抱えている人に関しては「とりあえず全力で3ヶ月打ち込め」と言いたい。その頃には体の変化が感じられるようになるので、もう筋トレを止めることなんてできなくなっている。

しかし1日ないし2日程度の休養をとっていると、徐々に「筋トレしたい筋トレしたい筋トレしたい」という欲求がカラダ中にみなぎってくる。この欲求が充満した状態で筋トレに臨むと、そりゃもうめちゃくちゃ楽しい。インターバルに音楽に合わせて踊ってしまうくらい楽しい。大きな重量も挙がるし、「ヒャッハー!やったるでー!」という妙なテンションにさえなる。

 

「おいおい、こいつヤベエじゃねえか」と思う人もいるかもしれないが、仲の良い友人と飲みに行く約束をした日の17時頃のはやる気持ちと、1杯目のビールを飲んだ時の快感あたりを思い出してくれれば良い。あるいは我慢していた甘いものを1ヶ月ぶりに食べた時の気持ちでも良いだろう。それと全く同じだ。

結果、休養後の筋トレの充実感を知っていると、徐々に我慢が我慢にならなくなってくる。「この我慢の先には充実した筋トレがある」という筋トレのツラさと同じロジックになるからだ。むしろ休養日に筋トレとは別の趣味を入れたり、やりたい家事の予定を入れたりすれば、日々はどんどん充実していく。

 

こんな具合で僕にとって筋トレは、筋トレそのものを楽しむだけでなく、そのほかの生活を楽しくするための重要なアクティビティになっている。好きにならないわけがない。

 

筋トレは楽しいですよ。みんなもやりましょう。