ファッションは自己表現だし、自己否定だ。【後編】
ファッションは全部コスプレ
全ての服がメッセージを発信する。それが「なりたい自分」「ありたい自分」へとつながるなら、きっとファッションは全部コスプレだ。
コスプレというとアニメのキャラや「女子高生」「警察官」「ナース」といった社会的な役割を持つものになりきるための服装をイメージするかもしれない。
アニメのキャラの格好をするとか、女子高生の制服を着るといった行為は、身につけるものが持つ強烈なメッセージを発信することと同じだ。
いわゆるコスプレにおける身につけるものの役割は、どちらかというと服装で身分を判断していた前近代の頃の役割と似ている。
ただ、この「発信するメッセージが自分が何者かを決める」という性質は、ここまで見てきたようにファッション全般に言えることだ。
英国王室御用達のブーツ(トリッカーズのカントリーブーツ)を履く人は長い歴史の中でその靴が培ってきた「上品さ」「高貴さ」を借りることになるし、ミリタリーアイテムをメインに着る人はミリタリーアイテムの持つ「強さ」「男らしさ」を借りることになる。
それらは他のアイテムとの編集によって「その人が何者か」という大きなメッセージになる。
一貫性のないファッションをしている人は、良く言えば「おおらかで、チャーミングな人」だし、悪く言えば「大雑把でテキトーな人」に見える。
何者かになるために服を着るのなら、それはすなわちコスプレだ。僕たちはみんなコスプレイヤーなのだ。
ファッションは自己否定
僕にとってファッションは他者や鏡を見る自分に対する「自己表現」という外面的な問題であると同時に、「自己否定」という極めて内面的な問題でもある。
僕が服に浪費するときは、たいてい気分が落ち込んでいるときだ。逆に仕事が充実していて、登山やサイクリング、筋トレに打ち込んでいるときはあまり服にお金を使わなくなる。
前者は自分に満足していない状況で、後者は自分に満足している状況だ。
落ち込んでいるなら自分に優しくしてやればいいのだが、僕は自傷行為的に暴飲暴食を繰り返すようなタイプなので、気分の落ち込みはそのまま「お前はなんてダメなやつなんだ!情けない!かっこ悪い!消えてしまえ!」という自己否定につながる。
たまに本当に消えようと思ってしまうこともあるが、そこをなんとか思いとどまるとき、僕は自分からの自己否定の嵐を回避するために「自分とは違う自分」になりたいと強く願う。
しかし内面的に変わるのはとても大変なことだし、時間もかかる。
そこで「コスプレ」をしようとするのだ。 結果今の自分とは対極にあるメッセージを持つ服、あるいは形になりつつあるが不安定な自分を確定させるような服を買い漁る。
例えば重々しい自分が嫌になったら、明るめの色の風にたなびくような軽い素材の服を選ぶし、軽率な自分が嫌になったらキチンとしたキレイめのシャツを買う。
弱弱しい自分が嫌になったらミリタリーアイテムや、黒のアイテムを手に取りがちだ。
こういうときに服を買うと、得てして「本来の自分に合った服」が選べない。当たり前だ、自分を否定して買う服だからだ。
だから本当はこういう気分のときは服を買わないほうがいい。しかしそれでは自己否定の嵐を回避できない。
この問題を解決するために僕は、折衷案としてファッション面で信頼できる第三者の意見を取り入れるようにしている。
そこでGOサインが出れば即決、「やめとけ」と言われたら渋々引き下がって、また別のGOサインが出るものを血眼で探し始める。
こんな具合に僕にとってファッションは「自己否定」と切っても切れない存在なのだ。
これからも多分、執着はなくならない
僕にとって「服を着る」という行為は、少なからず僕の根底的な部分とつながっている。だから多分、これから先も執着はなくならない。
自己肯定と自己否定がないまぜになった気持ちを伴いつつ、「僕は服が好きだ」と言い続けることだろう。