ひとり部活動記録

文章書いたり、筋トレしたり、自転車漕いだり、山登ったり、基本はひとり。

『岸田アパート物語』4号室

「どうした」
「草さん、飯食った?」
「いや、まだだが」
「里美ちゃんが、カレー作りすぎたから岸田で食べませんか、やって」
「頂こう」
「おっけー、米持って来てくれる」
「うむ、構わん。何合あればいい?」
「六合ぐらいいると思う」
「炊飯器はよいか」
「それは大丈夫。郷田のんと俺のんで済ませる」
「わかった」

私は米をもって岸田へと向かった。


 今日は香織嬢が研究室の都合で来ておらず、今日のメンバーは郷田と私と森野、そしてカレーをもって来てくれた里美ちゃんとその噂をききつけたバーバラである。
「バーバラは、本当に鼻が利く」
「カレーのにおいに引き寄せられた、みたいな言い方はやめてください」
「意図したとおりに伝わって嬉しいぞ」
「もう、草さん!」
バーバラは美味しいものを食べるのが大好きである。岸田の男どもは私を含め皆、美味い物を作ることができるのでバーバラはよく食事をしに来ている。
「バーバラ、痩せるとかほざいていたのはいつのことだったかのう」
「……じ、十月ぐらいかな」
「で、今何月だ」
「じ、十二月、かな」
「しかも、もうじき下旬だな」
「何が言いたいんですか……」
「皆まで言わずとも、君にはわかるはずだ」
「きーっ」
奇声をあげてバーバラは目の前にあった缶ビールをあおった。郷田が買ってきたものである。
「わー、バーバラ、それ俺のん!」
哀しそうな声を郷田があげた。
「す、すいません」
素直なところが彼女の持ち味でもある。しかしそれにしても彼女が肥えたという事実から目を背けることはできない。私が休み明け彼女に会ったのは十月の半ばだった。その時私が開口一番に言い放ったのは、
「バーバラ、肥ったな!」
であった。それほどだったのである。この話をすると、主に女性陣からの非難がごうごうと音を立てて吹き荒れるのだが、何もこれは私の主観的判断などではない。あのゆるさと仏並の慈悲深さで高名な卓ですらも、彼女の目に見える肥えっぷりには言及せざるを得なかったのである。しかも、それをポジティブにとらえるのならまだしも、痩せたい痩せたいと口癖のようにいう割に、飲みに行くのもやめず、食う量も減らさず、間食もやめないのだからダイエット戦士の風上になどおけない。
バーバラを風上になど置いたら、ダイエット戦士にもとから吹き付ける風だけでなく、彼女から発生する臆病風に吹かれて、勇敢だったはずの戦士までくじけてしまうことになる。日本人がアメリカ人のようになってはかなわない。断固彼女を戦士の隊列に加えるわけにはいかないのである。


 耳にタコができるほどに繰り返した説教をバーバラにしていると、森野宅から里美ちゃんと森野が出てきた。森野は食器を手にし、里美ちゃんは大きな鍋を抱えている。あの中にカレーが入っているのだろう。
「ご飯ですよー」
と母親のような言い方で森野が言う。それを合図に私たちは各自お茶を出したり、コップを出したり、ご飯をよそったりと自ら進んで役割を果たした。これが岸田の暗黙のルールである。働かざる者、食うべからずを徹底しているのだ。皆が皆この調子で何か仕事をするために、何もしていない人間あるいは何もしたくない人間は居づらくなってもうこなくなるか、または手伝うようになる。そうして誰もが役割をもっているがゆえに、誰も誰かに気を遣って委縮してしまうというようなことはしない。それが市民権となり、先輩も後輩も男も女も関係のない、フラットでフランクな人間関係が成立しているのである。
 食べる準備が整い、私たちは席に着いた。号令はメインディッシュを作った人間がかける習わしである。ゆえに、この日は里美ちゃんがその任を負う。
「手を合わせて……頂きます」
「いただきます」
日頃一人暮らしをしていて一人で飯を食っていると、こうして食卓を複数人で囲って食事をするということが妙に嬉しくなるものである。加えてこの岸田という空間は先ほど書いたような人間関係があるため、より一層胸がほっこりするのである。まるで魂だけで銭湯に来たような、そんな感覚なのだ。私たちは物理的な距離よりも、精神的な距離の方が近い。
「里美ちゃん、これめっちゃうまいやん」
「何杯でも飯いけるわ」
と郷田と森野が言うと、里美ちゃんは嬉しそうにはにかんだ。その顔を見て、私は少し前の事を思い出した。あの朝、橋の上で叫んでいた里美ちゃんである。なるほど、そういうことかと、遅ればせながら、私は一人首肯した。

 


一二月二六日.

 夢を見た。
 私は一人で何もない場所にいる。正確には何かがあるような気はするが、何も見えない。そこは自分の手すら見えない漆黒の闇である。
「おうい」
私は誰へともなく呼びかけた。予想通り誰も答えはしなかったが、一つの収穫があった。音の反響の具合からそれほど広くない場所であることが分かったのだ。やや安心した私は、その空間をとにかく歩きまわってみることにした。とはいえ一寸先は闇である。私は這いつくばって進むことにする。
 にしても、ここはどういう場所なのだろう。何のためにあって、誰が作った空間なのだろう。そのようなことを漠然と思索していると、私の鼻先に何か布のようなものが突き付けられた。いや私が何ものかに突っ込んだのである。
「誰だ」


そう問うたものの、相手が人間であるかもわからなかった。なにしろ何も見えないのである。清水寺の胎内めぐりのような、あやめもわかぬ暗闇なのだ。その何かは私の問いかけには答えず、身動きもせず、私の目の前に立ちはだかっている。私はその何かを識別することも、コミュニケーションをとることもあきらめ、先に進むことにした。それからしばらくホフク前進していたが、四度ほど何かにぶつかった。そのたびに、
「誰だ」
と問いかけてみたが、どれに関しても何の情報も得られなかった。私はいい加減暗闇が嫌になって、仰向けになって寝ころんでしまった。


 これぐらいの闇になると、目を閉じても開いていても得られる情報量は何一つ変わらない。私は目を閉じる。いつもは変わるはずの眼界が何も変わらず泰然としていることに、私は奇妙な不安を覚える。私の瞼が壊れてしまったのではないかとそわそわする。それに耐えきれなくなって目を開くが、それでも眼界には何の変化もない。暗闇だから当たり前なのだが、この違和感に私はさらにそわそわするのである。
その焦燥感に駆られて何度も目を開いたり閉じたりしていると、今自分が目を開けているのか閉じているのか分からなくなってしまう。私は少し気が違いそうになったので、自分の指先で瞼に触れて、ようやく自分が目を閉じていることを認識した。人間の根源はやはり視覚などではなく触覚にあるのだ、と悟った。


 一人そんなことを考えて、ふむふむ、などと呟いていると唐突に私を呼ぶものがあった。
「草さん、こんなとこで何してんの。はやく。こっちだよ」
「香織嬢ですか。貴女こそこんなとこで何をしてるのです」
「草さんを迎えに来たんだよ。いつまでもひとりでグズグズしているから」
「まいったな。待たせてしまっていましたか」
「そうだよ。みんな待ちくたびれてるよ」
「しかし、私には香織嬢の居場所が分かりません。香織嬢は私のいるところが分かるのですか」
私がそう言うと、はっしと私の手をつかむ者がいる。しかしそれは香織嬢の手ではない。
「誰だ」
「俺や俺や」
「郷田か。お前も私を迎えに来てくれたのか」
「そやで。ほんまに待つっちゅうんは疲れるな」
「無自覚だった。すまない。」
暗闇の中で私はお辞儀をした。誰にも見えないだろう。
「ええからはよいこうや」
「森野まで。ありがとう」
うん、と小さな声で返事をして、森野は先にすたすた行ってしまったようである。
「では行こう」
しかしどこに。私は言ってしまってからそう思った。他の皆は行き先を知っているようだったが、私には皆目見当もつかない。
「大丈夫。私たちが連れてってあげるから」
と香織嬢が郷田の持っていない手をつかんでくれた。香織嬢のその言葉をきっかけに、私の体は宙に浮いた。郷田と香織嬢は私よりも上に浮いている。そのままふわふわとしばらく浮遊していると、
「ここや」
と郷田が言った。その瞬間、視界が一気に明るくなって私は目を閉じた。


 次に目を開けたのは、いつものベッドの上である。私はしばらく茫然としていた。夢を見ると疲れる。ただでさえ凝り性の私の肩がもっと凝る。布団の外の冷気に気付いて、むうう、と一人唸りながらさっき見た夢について考えていた。夢診断だったかなんだったか、そんなメルヘンチックなタイトルの本が何十年前かに大流行して、その名残が今の私たちの時代にも残っている。その本は夢を精緻に分析することで自らの深層心理に分け入り、
「あなたは実は性行為をしたいだけなのです」
という紋切り型の診断を下す、なんともタイトルのメルヘン性からは程遠い無粋な内容だったが、精緻にさえしなければ夢について考えることはなんだかドキドキして楽しいものである。
 ぼんやりと思ったのは、あの時私は香織嬢の場所が分からないと言ったが、実際は自分の居所さえつかめていなかった。いったいあの場所は私にとって何だったのか。それに加えて、あの何度かぶつかった「何か」は何だったのだろう。手触りは布のようだったり、石のようだったり、革のようだったりしたが、結局どれも何なのかは分からなかった。考えても無駄なのかもしれない。私の知性はそんなことよりも飯にしようと私に命じた。思い立ったが吉日。


 思い立つと言えば、文通の話である。思い立った私はあの日岸田から帰るとさっそく原稿用紙を押し入れの奥底から引っ張り出し、何の変哲もないボールペンを手にとって、さらさらと自分の簡単なプロフィールをしたためた。相手が女性(だと思われる)なので、自分が男性であることを強調し、それでもよければ文通がしたいという旨を書いておいた。紳士的であること極まりない。
私が男性であることを強調したのは、なにも私の体中の穴という穴から噴き出しかねないほど満々と体内にたたえられた紳士性のためだけではない。私の筆跡は、如何に荒々しく書こうともいつも決まって、
「なんだか女の子の字みたい」
と言われてしまうのである。だからして、この部分に留意しておかないと、相手がてっきり女性だと思っていた、なんてことになりかねない。それでは適度に浮ついた文面のやり取りなど端から生じえないのである。


 書き終えた私は、もう夜も深い丑三つ時に、寒い寒いと呟きながら駐輪場に降りていき、段ボール箱に貼ってある相手の書面を丁寧にはがし、そのあとに自分のものを貼り付けた。胸が高揚する瞬間である。私は相手の便箋を丁寧に折りたたみ、机の一番上の棚にそっとしまった。この一連の行為が妙に粋なものに感じられて、鼻唄をうたった。このまま静かに眠りつくことができればこの日はまさに吉日であったのだが、いかんせん物事はうまくいかない。私のこの思い立ったが故の吉日感を存分に阻害した者がいたのである。私の生活圏でたびたび出没する、「勝手にミュージックコンサート開催人間」だ。
「そうさ、俺こそV・I・P! ちぇけらー」
と叫びながら、彼は深夜の道を自転車で駆け抜けていった。このような人間はこの町では特に珍しい存在ではない。このあいだは一人で「ゆずぽん」という二人組のミュージシャンのメドレーを歌っていた人間もいたし、「タマブクロ」の歌をご丁寧にパートわけまでしてちょっとこっちが聴き入るぐらいの歌唱力で歌いあげるカップルもいた。なので普段は特に気にかけはしないのだが、この日は少し顔をしかめざるを得なかった。奴の住所さえ分かれば、郵便桶に生卵を入るだけ詰め込んでやるだろう。そうすれば奴は開けた途端に卵が転げ落ちて地面で割れ、
「ああどうしよう、掃除が面倒だ。畜生なにやつだ! おーまいがっと」
と言わざるを得ないだろう。しかし我がジェントルメンな本性が愚かな彼を許してやれよと語りかけてきたので、寛大な私はやつを許してやることにした。


 手紙の返事が来たのは、私がそのような慈悲を示した二日後であった。その手紙から私の記念すべき文通相手第一号は、予想通り女性であることが分かった。彼女は私と同じ読書の趣味を持ち、とくに小説を好んで読むそうである。とりわけ太宰治の著した「斜陽」や「女生徒」などは何度も何度も読み返したらしい。私も太宰をよく読むので、素直に嬉しかった。
 私の読書の趣味はなかなか周囲の人間と合うことがない。私が流行りものに飛びつくことを良しとしないために、いわゆる読書好き人間たちの好むような大衆的なものについての知識がなく、全くもって本についての会話が盛り上がらないのである。小説であれば太宰治をはじめ永井荷風川端康成などの近代文学を好んで読むし、そのほかの好物といえば文芸書なので益々人と話が合わない。
「ああいうの、難しくてよくわかんない」
の一言でそういったジャンルの書物を忌避する向きもあるが、それでよく読書好きを自称できたものだと私は思う。私は本が好きだが、読書好きなどと安易に自称できない。我が尊敬する学問人の方々に比してみれば、私などはミジンコの糞以下のようなものなのだ。
 それに「難しくてよくわからない」という言葉も気に食わない。はじめは理解ができずとも、何か意味があるはずだとじっくり腰を据えて、無い頭を振りしぼって考えるのも読書である。ベッドで寝転がりながらするばかりが読書では断じてない。そのようなファストフードのような読書を私はあまりしない。だから話も合わない。しかし、文通の彼女は小説の趣味に関しては私と合うようである。
 「斜陽」で一番好きな台詞が同じなのには感動すら覚えた。主人公の女性が妻子持ちの作家の所へ押し掛けて行ったときに、作家が彼女に言った台詞である。
「しくじった、惚れちゃった」
あの文脈であの人物にあの台詞を言わしめた太宰はやはり天才のうちの一人だろう。その点に関しても彼女の手紙は言及しており、いやはやこれは良き読書友達を得たのではあるまいかと胸が躍った。その手紙の返事には、彼女の手紙を読んで覚えた感動や読書の趣味が合いそうな気がするという事を書き、最後に永井荷風などはいかがですか、という文を書き添えた。手紙を貼り付ける前から待ち遠しいほど、次の返事が楽しみだった。


 私が二枚目の手紙を貼り付けてから、さらに二日が過ぎた。昨日も駐輪場に行ったときに確認したが、まだ返信は来ていなかった。前回も二日後に貼り付けてあったので、今日あたり返事があるかなと楽しみである。思い立って作った朝飯をもぐもぐとやりながらほくそ笑んでいた。
 今日は岸田の忘年会である。岸田によく出入りする人間を集め、総勢十名を超える大人数で酒池肉林の飲み会を繰り広げるのだ。なにせ今夜は千沙がオーストラリアから帰ってくる。生半可な飲み会にはなるまい。
何だか丸っこい哺乳類のような容貌を持つ千沙は、人類史上類を見ぬ前代未聞空前絶後人跡未踏の変態である。奇妙な猫か何だかわからない生命体を紙の上に生み出し、それを趣味だと言ってTシャツにまでしてしまったのもこの女である。一枚千円で学園祭で売りに出したところ、こんなの売れてたまるかという岸田の面々の大方の予想をあっさり裏切り、ある時期大学構内での「岸田Tシャツ」遭遇率が100%になったほど売れに売れ、用意してあった二百枚が全てなくなってしまった。
しかもその売り上げ二十万円也を全て酒と肉に使い三日間の大宴会を岸田で開かせた。その飲み会は昼夜問わず続いたのだが、途中からみたこともない人間も乱入し、それについて誰ひとり何も言わずに酒を注ぎ、飯をよそい、ともに笑った。そんな中でも最も呑み、喰っていた人間は言うまでもなく千沙であった。彼女は百グラム千円もする牛肉を惜しげもなく醤油で焼き、焼いたそばから菜箸でさらっていったし、そうかと思えば岸田のリーサルウェポンとまで乱入者に言わしめた九十六度の酒を冷凍庫から取り出し、瓶ごとあおるという奇行に出た。それを一気に半分ほど飲んだ後、
「おっまえも、のっめー」
と満面の笑みで岸田の人間、乱入者問わずその口に瓶を押し付け、酒を流し込んだ。大抵の人間はその時点で再起不能となり、とりあえずトイレに駆け込んだものだ。私は人生であんなに必死の形相で人間が便器を取り合うのを見たことがない。
「で、でちまう! でちまうんだよぉぉぉ」
と泣き叫びながら便器をあきらめて外の排水溝に脱兎のごとく走っていく者も数え切れないほどいた。それを見ながら悪魔のような高笑いをしていたのは千沙である。私は途中から寝たふりをしながら一部始終を観察していたが、三日目の夜になって千沙は、私の狸寝入りを見破ったのか、あるいは見破ってはいないがそんなの関係ねぇと思ったのかは定かではないが、
「おうい、こっいつぅー」
と叫びながら私にボディープレスをぶちかまし、起き上がって抗議をしようとした私の口にリーサルウェポンを投入した。私はあまりの素早さに直撃を免れず、見事に酒の海に沈んだ。恐るべき変態である。


 そんな千沙が帰ってくる今年の忘年会は、大荒れに荒れるのは容易に予想できる。どこかのげじげじ眉毛の似非天気予報士でも的中させるだろう。参加人数もいつもより多い。大量の酒と肉を用意する必要がある。しかも今日は香織嬢までやってくる。岸田の二大酒乱が一堂に会するとあっては戦慄すら感じるではないか。
 私は朝食を終えた後、早速今夜の飲み会の買い出しに出かけることにした。千沙はとんでもない変態ではあるが、岸田の面々の例に漏れず、菩薩もびっくりの優しい心を持っている。私は友人としてその帰還を素直に喜んでいるのである。その気持ちを表すために、今日はとびっきりの料理を作ってやろうと前々からメニューを考えてきた。そのうちのいくつかは時間がかかるものもあるので、準備は早めに始める必要があった。それに、例の段ボール箱のことも気にかかる。
私は素早く支度を済ませて、寒風吹きすさぶ戸外に出た。三センチほど浮足立った足取りで駐輪場へと降りた私は、段ボール箱に貼り付けてある彼女の便箋を見つけた。私はもう二センチほど浮足立って箱のそばに駆け寄った。ピリピリと丁寧に剥がしとった後、買い出しを終えてから読むか今読むかと一瞬間逡巡したが、欲望にはあらがえず、私は彼女の美しい筆跡を追った。


 彼女と私の読書の趣味は、相当に合致するらしい。彼女の手紙には、荷風が未読であったのでさっそく『つゆのあとさき』を購入して読み始めたところ、あっという間に読んでしまったこと、ヒロイン君江の悲哀をはじめとする登場人物の心情にいたく感動し、途中何度も涙を流してしまったこと、それらを美しい表現で書きあげた荷風の才能についても書かれていた。
私は一人寒風に吹かれながらも、胸の奥を熱くしていた。自分の好きな作品をこんなにも深く考察してくれたのが嬉しく、しかもその考察が私が考えていたものよりもさらに掘り下げてあり、ああそこまで読めるかという発見すらあったことが、さらに私を喜ばせた。しかし、私に歓喜の声をあげさせたのはそれだけではなかった。その手紙の最後の一文に、私は電気で撃たれたような感覚を覚えたのである。
九鬼周造先生の『いきの構造』などはいかがでしょうか」
こんな言い方をすると妙かもしれないが、自分と同世代でしかも女性に、『いきの構造』を勧められるとは思いもしなかったのである。私はこの本に一度挑戦していたが、途中で挫折していた。これを機にもう一度読んでみようと思った。そして私のように彼女にも発見すらある考察を示したいと思った。学問的野心に燃え、かつちょっぴり甘い気持ちに胸がほっこりとなった私は、鼻歌交じりで自転車を走らせながらスーパーへと向かった。

 


一二月二七日.

 私はいつもと違う寝具の様子に違和感を覚えて目が覚める。まぶたの向こう側には本来あるべき天井と左側から差し込むやわらかな朝日はない。あるのは大きいだけでその能力を生かされていない箪笥と、右側に眠る毛むくじゃらの大男である。
むくりと体を起こすと、そこかしこにアルコールを濃厚にまとった人体が転がっており、机の上には空の瓶が無数にある。転がっている骸をざっと数えてみたが、何体か足りない。残りは森野の家だろう。私はぐわんぐわんと大海の上の船上かと思う程揺れる視界をなんとか抑え込んで、自らの家に帰還すべく立ち上がった。今になれば事が済むまで寝ていればよかったと思うばかりである。何倍にも広がった私の視界に飛び込んできたのは、玄関の辺りにまき散らされた吐瀉物であったのだ。


 少し時を巻き戻せば、それは前夜のことである。私が種々様々な料理を運びこみ、郷田・森野両氏の自慢の手料理の準備も整ったところで、岸田の大忘年会が開始された。始めのうちこそ皆仲良く歓談していたのだが、食と酒がすすむにつれて各々の欲望が少しずつあらわになり始める。当然その先頭を突っ走ったのは千沙であった。
彼女は開始一時間ほどで大人しくしていることにもはや飽いていた。手当たり次第に肉を喰らい、コップに注ぐのももどかしいと言わんばかりにウィスキーを瓶ごとあおった。それが彼女のうちなる炎への油と化し、その炎が江戸の町を火の海とした明暦の大火さながらに岸田の面々に延焼していったことはもはや言を俟たぬ。被害者が加害者になり、また被害者を増やすという愛憎満ち溢れた酒乱劇がそこに繰り広げられた。

始めの被害者は香織嬢である。どうしてまたそんな酒癖の悪い人にはじめに呑ませるのだと言わずにおられない、何とも絶妙な人選である。岸田二大酒乱は、千沙の半年の留学という休戦期間を経て此処に再び相まみえたのだ。相まみえて共倒れになってくれれば何の問題もなかったのだが、そういうわけにはいかないのがこの二匹の悪魔である。
誰に頼まれもしないのに二人で友情イッキのコールをかけ始め、コップになみなみ注いだウィスキーを飲み干すと、それがまるで此処にいる人間すべてをアルコールの海に沈める協定の締結でもあったかのように、二匹はそれぞれ手分けして私たちを襲い始めた。

千沙は真っ先にこの私を餌食にせんと牙をむいたが、
「私が潰れると、せっかく家に用意したミートソースドリアが食えぬぞ!」
と必死に説得したところ、食いものにつられたかあの化け物、その矛先を弘毅に向けた。許せ弘毅、とは別にこれっぽっちも思っていない。
「弘毅はね、飲むもんねー」
という千沙の強制的に同意を求める言葉に、この従順で貧弱な小動物のごとき弘毅が逆らえるはずもなく、
「飲みます!」
ときわめて爽やかに宣言して、彼女の差し出した杯を一息に空にした。彼は勇敢だった。しかしながら、一杯やそこらでこの怪獣の猛攻がやむはずもなく、
「ぬはあっ」
という苦しげな声を吐きながら弘毅が机に置いた空のコップへ、一瞬の間隙もなくまたなみなみと日本酒が注がれる。
「良い飲みっぷりだ、ほら飲め飲めー」
弘毅は、ほんの少しだけ逡巡するそぶりを見せたが、それは本当に一瞬のことであった。彼の瞳からはその日の飲み会を正常な精神状況で過ごすという希望は消え失せ、何か悟ったようにすら見えた。
「うおーい」
という高らかな叫び声とともに、彼は盃に口をつけ、その底を天上へと向けた。弘毅陥落の報せである。私は自らの料理の腕が、千沙という邪知暴虐なる軍国主義国家の眼鏡にかなったことを心からいるかどうかわからない神に感謝した。


 早くも陥落した弘毅の向かい側では、今まさに香織嬢の餌食になろうとする里美ちゃんがいた。可愛い女の子はいち早く食べてしまいたくなる彼女である。
「ねえ、里美ちゃんも飲もう」
酒を飲まされる、という恐怖さえなければどんな男も代わってあげたくなるような艶美な声とほほ笑みであったが、無論この状況では代わりたいなどと言う弩級の阿呆は此処にはいない。見て見ぬふりを決め込むほかないのである。そんな情けない男どもになど端から期待などはしていないのか、里美ちゃんは香織嬢の誘い(あるいは脅迫)に敢然と立ち向かう。
「いえ、もう飲んでいますから」
しかもとびきりの笑顔である。彼女は此処岸田によみがえったジャンヌ=ダルクであろうか。
「もっと飲もう、って言っているのよ」
もはや単なるチンピラでしかないが、それでも何とか彼女の美貌がチンピラになることを食い止め、色気(酒気も)むんむんのお姉さんがうら若き少女をかどわかそうとしているようにぎりぎり見えなくもない、と言えなくもない状況であるような気がしないでもない。
「いえ結構です」
それでも少女は決然とした態度で立ち向かった。しかし、どんなに勇敢な戦士とはいえ、時には敵の恐ろしい暴力のためにその膝を屈するものである。けなげな少女がその台詞を言い終わる前に、極悪非道の酒乱怪獣はその口に日本酒の瓶をぶち込んだのである。一歩間違えれば殺人になりかねない所業をそつなくやってのけるのは、酒乱怪獣の面目躍如というところか、なんて冷静に言っている場合ではない。こんなところでそんな面目を躍如されても何一つめでたくないので、それを見ていた私と森野は香織嬢を両脇から止めにかかる。


「なにするんだあ」
暴れる香織嬢を抑えつつ、私と森野は里美ちゃんを気遣った。
「大丈夫か、里美ちゃん!」
しかし、彼女は答えない。
「はなせえ」
だというのに酒乱怪獣は大暴れである。もし私と森野が手を離せば、怪獣は里美ちゃんにとどめを刺しにかかるだろう。それだけは何としても防がねばならぬ。そこで、私は一世一代の大決心をした。


「香織嬢!」
「なんだ、草人!」
「私が、お相手いたしましょう!」