ひとり部活動記録

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「巨乳が正義」というイデオロギー 〜『巨乳の誕生』で面白かったところまとめてみた〜 その2

OPPAI CHRONICLE

現代の男性たちにとって「巨乳」は「エロい」と思っていいものだし、それを「好き」だと言ってもいいものなわけだが、時代を思い切りさかのぼって「おっぱい」を見てみると、そこには驚くべき「常識」がある。部分的にではあるが(おっぱいの歴史は深く、長い)、おっぱいに関する「常識」のエッセンスを見てもらうために紹介しておこう。

 

まず先史時代では貧乳がモテたという。いまだ理性よりも本能の方が尊ばれた時代だから、産み育てるために大して役に立たない大きなおっぱいに価値は見出されなかったのだろう。栄養状態的にも胸が大きく育つ余裕があったとも思えない。またローマのコロッセオを舞台にした映画などでもわかるように「肉体美」は男性に求められるものだった。たくましい肉体は、強さこそが正義だった時代には「男のステータス」になる。

 

「貧乳=正義」の時代は中世になっても続いている。中世ヨーロッパといえば1639年~1651年にかけて起きた「清教徒革命」の影響を色濃く受けている。清教徒ピューリタンプロテスタントは敬虔だ。食べ物や資源の乏しいイギリスを中心に盛り上がった教派なので、食べ物も資源も豊富で気候も良いイタリア半島を中心とするカトリックよりもストイックになる。
このプロテスタントが強い存在感を持った中世ヨーロッパにおいては「性的なもの=悪」である。おっぱいは「悪魔の器官」で、胸の谷間は「悪魔の隠れ家」とさえ考えられた(プロテスタント必死だな、おい)。
結果「おっぱいの大きな女性より、小さな女性の方が良いよね」という結論になる。これは当時の男性からしても「おっぱいはエロいもの」だったということで、「だからおっぱいはダメ」という理屈である。「エッチすぎるからダメ」とはまるで、現代の萌えアニメ好きのヲタクのようではないか。

 

「巨乳=良いもの」という認識が一般化したのは、19世紀末から20世紀初頭にかけてである。この時代にブラジャーが発明され、大きな胸でも垂れずに美しい形を保てるようになった。こうして初めて男性たちは「お、おっきなおっぱいも良いかもしれぬなあ」と思い始めたのである。ブラジャーが完全に世の中に浸透するまでは、世の男性はみんな「脚線美」つまり脚フェチが主流だった。50年代~60年代にはアメリカで『プレイボーイ』が創刊され、爆発的に「巨乳」が流行する。

 

イデオロギーとおっぱい

簡単におっぱいの歴史を振り返るだけでも、いかにおっぱいへの認識が変遷してきたのかがわかる。しかし多分一番すけべであろうプロテスタントの「性的なもの=悪」という言説からも見て取れるように、おっぱいへの認識にはイデオロギー(政治思想、社会思想)がつきものである。以下では【文明開化と日本の「裸」】【敗戦とおっぱい】【戦争とおっぱい、ウーマンリブ×ツイッギーとおっぱい】の3つのパートに分けて、イデオロギーとおっぱいの関係を見ていくとしよう。

 

文明開化と「日本の裸」

おっぱいに限らず、江戸時代以前の日本では「裸=エロいもの」という認識さえなかった。これは江戸期のエロ画像・エロ漫画にあたる春画にみてとれる。春画で性の対象として描かれるのはもっぱら性器であり、おっぱいはほとんど描写されていないのである。
2014年に出版された『江戸の性語辞典』という本によれば、「性器」を表現する単語が種々様々あるのにたいし、「おっぱい」に関しては「乳」の一語のみだという。どんだけ興味ねえんだよといいたくなるくらい、江戸人はおっぱいに興味がない。美人の条件としても「つかめばきへる傾城の乳」といわれるくらい、ど貧乳が尊ばれたとされている。

 

なぜ性器という直接的なシンボルに到達するまで、江戸人はエロを感じなかったのか。それは彼らにとって「異性が裸でいること」が日常だったからだ。彼らは毎日のように共同浴場へ行き、混浴風呂を楽しんだ。そんな彼らにとっては「男と女の体は基本同じで、ついてるものが違うだけ」という認識だったと考えられる。だからその「ついてるもの」に性的な関心が向かったのだろう。
当時の日本を訪れた外国人が「うわマジ!?混浴!?エロすぎなんですけどぉ!」と鼻息荒くしているのに対し、「え、アレがエロいとか、お前ら頭のなかピンクすぎん……?」とドン引きしたという話も残っている。

 

ではなぜ今の日本が「ポニーテールは男子生徒の劣情を煽るから禁止」(出典:http://getnews.jp/archives/1855778/gate)とか言い出すまでに性癖をこじらせるようになったのだろうか。これとは多分あまり関係ないが、とかく「裸=エロいもの」という認識が生まれたのは、文明開化以降の「西洋を真似よう」という動きの中である。
1883年(明治16年)より1887年(明治20年)のいわゆる「鹿鳴館時代」、日本は西洋文化を積極的に(無批判にともいう)取り入れ、自国の様々な文化を規制・修正した。その中には江戸歌舞伎も入っていて、この頃有識者によって結成された「演劇改良会」により、江戸期の想像力豊かな歌舞伎は「外国に見せられる文化ではない」とされ、今に続く「伝統芸能・歌舞伎」へと矯正されてしまっている。
歌舞伎でさえこんな調子だから、裸でそこらへんをぶらついたり、男女が一緒に風呂に入ったりするような行為も禁止されてしまう(裸体禁止、混浴禁止)。ここでそれまでの日本人にとっての「エロ」が急変するのである。

 

みなさんにも経験があるかもしれない。小学校低学年くらいまでは体育の授業の着替えは男女合同だったのに、高学年くらいになると別々の部屋で着替えさせられる。それまでは一緒に着替えるのが当たり前だったので覗こうともおもわず、恥ずかしいとも思わなかったのに、いざ別々に分けられると「覗いてみたい」「ちょっと見えた!エロい!」と思ったり、「見られるのは恥ずかしい」「ちょっと男子ィ!」となったりする。
これと同じ現象が当時の日本でも起きた。そう、裸体禁止・混浴禁止と言われると、それがものすごく「イケないこと」に思えてきて、興奮してしまうようになったのである。

 

つまるところ、文明開化は日本人の「エロ」まで開化したのであった。