ひとり部活動記録

文章書いたり、筋トレしたり、自転車漕いだり、山登ったり、基本はひとり。

「巨乳が正義」というイデオロギー 〜『巨乳の誕生』で面白かったところまとめてみた〜 その3

敗戦とおっぱい

戦前の日本において性表現は禁止されていた。「欲しがりません、勝つまでは」の精神を説いているところに、エロが入り込む余地はない。当然水面下ではたんまり性的なものはあったはずだが、表立ってやれば「憲兵さんこっちです!」となった。そんな時代にはもちろん「巨乳」の「き」の字もない。

 

きっかけは敗戦にあった。GHQの占領下に置かれた日本には、アメリカから大量の「エロ」が輸入される。色気ムンムン、性の匂いしかしないようないわゆる「肉体女優」ブームが起きる。ジェーン・ラッセルやマリリン・モンローといったグラマラスなボディラインを持つ女性たちの写真や映像に、日本人男性は熱狂する。
こんななかで日本人初の巨乳アイドル「川口裕子(愛称:おっぱい小僧)」が登場。巨乳をウリにしたストリップが盛んになり、1950年代~60年代には「ストリップのおっぱい全盛期」を迎える。1956年にはブラジャーやコルセットなどの西洋の下着が日本でもブームとなり、ブラジャー発明によって巨乳が受容され始めた西洋と同じ道を歩んでいく。

 

ここで指摘しておきたいのは、日本の最初の「巨乳(ここでは別段おっぱいにフォーカスが当てられたわけではないが)」ブームが、またしても西洋からの文化の流入で起きているという点だ。当時の日本は「アメリカに習え」「アメリカを追い越せ」という意識のもと、病的なくらいにアメリカを追っていた。なかには「日本製のものはみんな嫌いだ」とかいう日本人もいたそうだ。
そんななかで男性たちは「西洋の女」に憧れた。そこには「西洋の女って日本の女とは違うよな」という気持ちもあったろうが、「西洋の女だからいい。日本の女だからダメ」という認識も多分にあったはずだ。だとすればこのとき、エロの概念は「西洋への追随」というイデオロギーに絡め取られている。

 

日本人が「グラマーな体型」に目覚めたのは、敗戦から生まれたイデオロギーがきっかけだったのである。

 

戦争とおっぱい、ウーマンリブ×ツイッギーとおっぱい

西洋で巨乳の下地を準備したのはブラジャーだった。その前の「下着」の主流といえばコルセットだったが、この旧式の下着が新式の下着であるブラジャーに取って代わられたのには理由がある。それが「戦争」だ。

 

現代の形に近いブラジャーの特許が取得されたのが1914年。これは第一次世界大戦と全くの同時期である。コルセットという大幅に女性の身体機能を制限する下着は、国中の男たちが戦争に駆り出されて自ら労働せざるを得なかった女性たちには邪魔以外の何物でもなかった。結果彼女たちはコルセットを脱ぎ捨て、ブラジャーへと移行したのだ。つまり西洋とて「巨乳」と「イデオロギー」はセットなのであった。

 

戦争の際の「女性進出」は巨乳へとつながったが、ウーマンリブは少し違った。はじめて「ウーマンリブ」という運動が起きたのは1960年代後半である。この運動は以降に続くフェニミニズム運動の先駆けとされている。「働く女性」たちは自分たちが女性であること=男性にとっての性的な消費物であることを拒否した結果、ブラジャーを「女性を拘束するもの」「女性性の象徴」とみなし、脱ぎ去った。
その後に何を身につけたか?何も身につけなかった。こうして始まったのが「ノーブラ運動」だ。しかしノーブラになると胸の大きな女性には都合が悪い。結果ウーマンリブの価値観では胸の小さな、女性的でない女性が良しとされるようになる。

 

ウーマンリブと同時期に世界的な大ブームを巻き起こすのが、「ツイッギー」という一人の女性モデルだ。もはやガリガリといってもいいくらい脂肪をそぎ落とし、乳房に関してもほとんどフラットなモデルだった。彼女がまとったのは、そんな女性的でない女性にふさわしいイヴ・サンローランのパンツルック。
そのマスキュリンなルックは世界を熱狂させ、女性たちはツイッギーのボディラインを目指しこぞってダイエットを始めた。貧乳の「復権」である。おっぱいは「ウーマンリブ」というイデオロギーに色濃く影響を受け、その行く末はツイッギーというスーパーモデルによって決定づけられている。

 

とはいえこのあとまた世界は「大きなおっぱい」に夢中になっていくわけだが、その現象の委細についてはここでは省略しておこう。

 

おっぱいと自己同一性の物語

「私が私である」とあなたがいうとき、それは何を根拠に言っているのだろうか。近代哲学の始祖ルネ・デカルトは「我思うゆえに我あり」と言い放った。これは「世界中の全てを疑うことはできるが、世界中の全てを疑っているこの自分だけは確かに存在する」ということだ。しかしその疑念さえ、自分自身のものでないとしたら?

 

私たちが「自分は巨乳が好きだ」と言うとき、その趣味は何重にも重なるイデオロギーによって編まれたテキストにすぎないかもしれない。極めてプライベートな「巨乳好き」という自己同一性でさえ、疑うことができる。では私たちはなぜ私たちなのか。その答えをデカルトは用意できない。

私たちは理想のおっぱいを探しながら、同時に「自分とは何か」という深遠な問いの答えも探し続けなければならないのである(?)