ひとり部活動記録

文章書いたり、筋トレしたり、自転車漕いだり、山登ったり、基本はひとり。

大学2年、9月15日の文章。

2008年9月15日、ほとんど10年前の自分のmixiを掘り返してみたら、一周回って今の自分と同じことを言っていてびっくりした。読点やら改行の仕方、「↑↑」はなんやお前と突っ込みどころ満載だが、書いていることは的を得ている。

 

やりたいことをやる。

やりたくないことは極力やらない。

それが、このはかなくて、短くて、ひょっとしたら無意味かもしれない人生の、1番いい歩き方なんかもなー。

楽しんだもん勝ちみたいな?(笑)

まぁビビりの俺には難しいことやけど、1番憧れる歩き方やな↑↑

やっぱ力いっぱい楽しんでる人が1番カックイー。


ある日ふと、

将来のために歩くんもえーけど、

将来のために、今歩いてる道が全然楽しめてないとかいうのは、

なんかちゃう気がした。

そして、まぁとりあえず今歩いてる道をおもいっきりはしゃぎ通したろうって、思う。

それが、最高やろ、って思うねん。


興味あることに首突っ込んで、やりたいことやって、はしゃぎまくったる。


うぉりゃあ~~~~

これに友達が残しているコメントも素敵だった。

 

増田さんって絵かきのおっちゃんが「俺小学校から好きなことしかやってへんわ!」ゆうてた笑
そんなおっちゃんと結婚したなったわ\(^O^)/笑

増田さんも素敵なんだけど、そんなおっちゃんに対して「結婚したい」と思うこの友達も、改めて素敵なヤツだなと思った。

 

それにしても大学2年の夏休みが終わった時点で今と同じことを考えていたのに、なぜ僕はそこから「人生とはこうあるべきだ」とか「将来のために今はこう生きるべきだ」みたいな考え方になったんだろう……。 

ぼんやりmixiを読み直したら、その答えも見えてくるのかもしれないな。

ファッションは自己表現だし、自己否定だ。【後編】

ファッションは全部コスプレ

全ての服がメッセージを発信する。それが「なりたい自分」「ありたい自分」へとつながるなら、きっとファッションは全部コスプレだ。

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コスプレというとアニメのキャラや「女子高生」「警察官」「ナース」といった社会的な役割を持つものになりきるための服装をイメージするかもしれない。

アニメのキャラの格好をするとか、女子高生の制服を着るといった行為は、身につけるものが持つ強烈なメッセージを発信することと同じだ。

いわゆるコスプレにおける身につけるものの役割は、どちらかというと服装で身分を判断していた前近代の頃の役割と似ている。

 

ただ、この「発信するメッセージが自分が何者かを決める」という性質は、ここまで見てきたようにファッション全般に言えることだ。

英国王室御用達のブーツ(トリッカーズのカントリーブーツ)を履く人は長い歴史の中でその靴が培ってきた「上品さ」「高貴さ」を借りることになるし、ミリタリーアイテムをメインに着る人はミリタリーアイテムの持つ「強さ」「男らしさ」を借りることになる。

それらは他のアイテムとの編集によって「その人が何者か」という大きなメッセージになる。

一貫性のないファッションをしている人は、良く言えば「おおらかで、チャーミングな人」だし、悪く言えば「大雑把でテキトーな人」に見える。

何者かになるために服を着るのなら、それはすなわちコスプレだ。僕たちはみんなコスプレイヤーなのだ。

 

ファッションは自己否定

僕にとってファッションは他者や鏡を見る自分に対する「自己表現」という外面的な問題であると同時に、「自己否定」という極めて内面的な問題でもある。

僕が服に浪費するときは、たいてい気分が落ち込んでいるときだ。逆に仕事が充実していて、登山やサイクリング、筋トレに打ち込んでいるときはあまり服にお金を使わなくなる。

 

前者は自分に満足していない状況で、後者は自分に満足している状況だ。

落ち込んでいるなら自分に優しくしてやればいいのだが、僕は自傷行為的に暴飲暴食を繰り返すようなタイプなので、気分の落ち込みはそのまま「お前はなんてダメなやつなんだ!情けない!かっこ悪い!消えてしまえ!」という自己否定につながる。

たまに本当に消えようと思ってしまうこともあるが、そこをなんとか思いとどまるとき、僕は自分からの自己否定の嵐を回避するために「自分とは違う自分」になりたいと強く願う。

 

しかし内面的に変わるのはとても大変なことだし、時間もかかる。

そこで「コスプレ」をしようとするのだ。 結果今の自分とは対極にあるメッセージを持つ服、あるいは形になりつつあるが不安定な自分を確定させるような服を買い漁る。

例えば重々しい自分が嫌になったら、明るめの色の風にたなびくような軽い素材の服を選ぶし、軽率な自分が嫌になったらキチンとしたキレイめのシャツを買う。

弱弱しい自分が嫌になったらミリタリーアイテムや、黒のアイテムを手に取りがちだ。

 

こういうときに服を買うと、得てして「本来の自分に合った服」が選べない。当たり前だ、自分を否定して買う服だからだ。

だから本当はこういう気分のときは服を買わないほうがいい。しかしそれでは自己否定の嵐を回避できない。

この問題を解決するために僕は、折衷案としてファッション面で信頼できる第三者の意見を取り入れるようにしている。

そこでGOサインが出れば即決、「やめとけ」と言われたら渋々引き下がって、また別のGOサインが出るものを血眼で探し始める。

 

こんな具合に僕にとってファッションは「自己否定」と切っても切れない存在なのだ。

 

これからも多分、執着はなくならない

僕にとって「服を着る」という行為は、少なからず僕の根底的な部分とつながっている。だから多分、これから先も執着はなくならない。

自己肯定と自己否定がないまぜになった気持ちを伴いつつ、「僕は服が好きだ」と言い続けることだろう。

 

ファッションは自己表現だし、自己否定だ。【前編】

ずっと、「服を着ること」に執着してきた

僕は昔から「服を着ること」に執着がある。

記憶に残っていないほど幼い頃、母が服を着せてくれたのに「あの服が着たい!この服はイヤ!」と駄々をこねて「男のくせに細かいこと言うな!」とあまりそういうことを言わない母をイラつかせたという。

かたや5つ上の兄はまったく頓着せず、上から順番に着ていくのが常だったそうだ。

 

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小学校の頃はお小遣いも少ないし、ほとんど制服で過ごすので何を着るかについてあまり深く考えていた記憶はないが、中学に上がってしばらくするとHIPHOPにハマって、ラッパーの服装を真似するようになった。

ダボダボの服を着て「ブリンブリン」と呼ばれるデカいネックレスをつけ、兄のお下がりのエアジョーダンを履いていたものである。

このマイブームは高校2年くらいまで続き、その後はロックにハマってロックミュージシャンの服を真似してみたり、おしゃれな友達に影響されて雑誌『チョキチョキ』のような格好をしてみたり、お金がないからと手持ちのものでオシャレを追求した結果迷宮に迷い込んだりしていた。

大学に入ると少しお金に余裕ができたり、「周囲にウケるファッションがしたい」と思ったりしたので、服を着ることへの執着はどんどん強くなる。

 

今はほとんど「周囲にウケるかどうか」を気にすることはなくなったが、「自分が着たい服」への欲求は強いままで、衣食住のうち衣への浪費がとまらない。

 

ファッションは自己表現?

大学生の頃、僕の異常な服への執着を知ったある女性から「あなたにとってファッションってなんなの?」と聞かれ、気取った当時の僕は「自己表現だ」と即答したことがある。

これは今もその通りだと思っていて、着ているもの、身につけているものは望むと望まざるにかかわらず「私はこういう人間です」という表現(メッセージ)になると考えている。

 

これは着るもののそもそものルーツをたどればわかりやすい。

例えば江戸時代、武士は武士の格好、農民は農民の格好と身分に応じて身につけるものは決まっていたし、もっと細かくみても武士の中で将軍と足軽は身につけているもので見分けがついたはずだ。

もっと時代をさかのぼって飛鳥時代に制定された「冠位十二階」は、身につけているものの「色」で階級を分類した制度だった。

冠位十二階で高位とされる「紫」は、日本だけでなく世界的にも高貴な色とされ、英語には「ロイヤルパープル」という色があるし、、"born in the purple"(または "born to the purple")は「王家に生まれた」という意味になるそうだ。

カエサルのマントは紫だったし、クレオパトラ7世の旗艦の帆も紫、「マルコによる福音書」でイエスが着せかけられたマントも紫だった。

身につけるもの(服や装飾品)は、歴史的に「自分が何者か」を表明するものだったわけだ。

 

身分制度がなくなった今の日本でもそれは変わらない。

むしろ身分や収入の多寡がそのまま身につけるものに現れなくなったせいで、より内面を表明するためのツールになってきていると言えるかもしれない。

例えば動きやすさ重視のスニーカーを履いている人は、活動的なイメージを与えたり、場合によっては「子供っぽい」というイメージを与えたりするし、安物の革靴を履いている人は「見た目にそこまでお金をかけるつもりはないけど、見た目はキチンとした人間、大人っぽい人間に見られたい」というメッセージを放っている。

同じスニーカーでもハイテクスニーカーやハンドメイドの高級スニーカーを履いていればファッションや見た目への興味の強さをアピールすることになる。

 

ただ、身につけるものが発するメッセージはそう単純ではない。なぜならファッションはトップス、アウター、インナー、ボトムス、ソックス、シューズ、バッグ、アクセサリーという「記事」が集まって1つの大きなメッセージになるからだ。

例えるなら雑誌や新聞のようなもので、個々の記事の内容だけでなく、編集によってトータルなメッセージを持つのがファッションだと、僕は思っている。

だから全身無難で「間違いない」服で揃えていれば、「オシャレでもなく、かといってダサいわけでもない服を着ることで、周囲に溶け込んで目立たないようになりたい」とか「服なんてどうでもいいけど、他人を不快にはさせたくない」といったようなメッセージになる。

あるいは全身を奇抜な服ばかりで固めている場合は「俺を見ろ!俺はここにいる!」というメッセージにもなるし、「お前らがどう思うかなんて知らない!私は私よ!」というメッセージにもなる。

生地にこだわった服を中心に身につけていれば、「自分を大切にしたい」という自己充足感を重視している印象を与えるし、見た目重視の服を選んでいる人は「自分よりも他人からどう思われるかが大事」という印象にもなる。

 

もちろんそうしたメッセージは各人の人となりとも強く関係しているので、純粋な見た目だけで判断することはできない。

しかし少なくとも何かのメッセージを発していることは確かだろう。

 

今の僕の場合、見た目にはただならぬこだわりがあるが、それは実は「他人からの見た目」ではない。

僕がこだわっているのは、多分「自分からの見た目」だ。

なりたい自分なのか、あるいは今の自分の気分を体現している自分なのか。

この意識は服を脱いだときの筋肉や脂肪、肌の状態にまで及ぶ。

 

「自意識過剰だな」?

その通りだと思う。僕はおそらく物心ついたときから、かなりの自意識過剰だった。

 

長くなったので明日に続く。

「持ち物ログ」を始めようと思います(今日はM47の話をします)。

 僕はモノが好きだ。そして買い物も好きだ。でも何も知らない人に話すにはマニアックすぎるし、かといってマニアックな人たちと仲良くなるようなバイタリティはない。

なのでこの場で、半ば独り言的に、「このモノのここが好き」を書いていけたらなと思う。

 

興味のない人からすれば「どうでもいいこと」だろうけど、そこは独り言なので読み流してくれればいい。

詳しい人からすれば「浅い話」だろうけど、そこは「こんなのもあるよ」とか教えてくれれば嬉しいです。

 

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今日は手始めに、WWII後〜60年代にフランス軍で使われていたカーゴパンツ「M47カーゴパンツ」について書こうと思う。

M47カーゴパンツといえば「Martin Magela(マルタン・マルジェラ)」というデザイナーの話になる。

 

彼は現在当たり前のように存在する「ユーズド加工」なんかのパイオニアで、1988年だかに登場して、ファッション界に世界的なムーブメントを作り出した男だ。

謎の多いデザイナーで、デビュー当初以外はメディアの前に全く姿を見せず、2008年を最後に自分のブランド「Maison Martin Magela(メゾン・マルタン・マルジェラ)」からも退き、現役を引退してしまった。

それ以降のメゾン・マルタン・マルジェラは「メゾン・マルジェラ」と改名したりしながら、ネット通販を始めたり、H&Mとコラボしたりして古参ファンからすれば苦々しい道をたどることになる。

 

ただ2008年以降ブランドの業績は持ち直し、現在はジバンシィディオールなどのデザイナーも務めたジョン・ガリアーノがデザイナーになっている。

お店に行ってコレクションラインの服を見てみたけれど、僕の目からすると面白いことやってるなあとしか思えなかった。

やっぱり古参ファンからすると「つまんねえ」「コレジャナイ」なのかなあ。

 

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話をM47に戻そう。

なぜM47とマルタン・マルジェラがつながるのかというと、彼がまだ現役の頃、フランスの縫製技術の高さをアピールするためにM47を裏返しにしてモデルに履いてもらい、ランウェイに送り出したという逸話が残っているからだ。

最初は「なにそのファッションフリーク受けしそうな話」と思ったが、実際に手に入れてみて眺めると「軍モノでここまでやってるのは確かにあんまり見ないな」と唸らざるを得なかった。

 

僕が購入したのは前期と後期(の前期と後期)のあるM47のうち、後期の前期のサイズ33。前期よりも生地が薄く、後期の後期よりも緑みが少ないという特徴がある(だったかな)。あ、あと前期よりもややシルエットが細めになっているそうだ。

僕からすればこれでも「ズドン」という太さがあるのだが、確かに前期の太さは「唯一無二」という感じがしてカッコいい。

このシルエットの独特さがM47の大きな魅力の一つ。

 

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次にディテールを見ていこう。わかりやすいのが後ろポケットのフラップの形だ。普通大量生産の軍モノは真四角のフラップか、ホームベース型の直線的なフラップが採用されている。

しかしM47では微妙にカーブを描いた曲線的なフラップを使っている。何その美意識。

 

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そしてフランス軍はエレガントなのでボタンが見えるような仕様にはしない。

フラップの裏に一枚布をつけて、それをボタンに留める方法を採用し、外からはボタンが見えないようになっている(これは多分、作戦中にボタンが装備に引っかからないようにするためでもある) 。これは横ポケットにも採用されている。

このおかげでパンツ全体が静かなデザインになっており、M47の魅力を高めている。

 

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また個人的にすごく好きなのがこの裾を絞るためのボタンだ。アメリカ軍とかドイツ軍のカーゴはここが紐になっているのだけど、紐って結ぶのが面倒だし、なによりなんかエレガントじゃない。

でもボタンだと急に「おしゃれ」って感じになる。 僕は絞ったら、2回ほど折り返して履いたりもする。

こうすると膝下くらいまではM47流のズドンと太いシルエット、そこから下は急激に細くなるテーパードシルエットという、なかなか変わったシルエットになる。

 

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M47の横のポケットは、かなり広いマチが取られているから思い切り広げて履くと、さらに独特の形になる。もうここまでくるとドラマチックだ。

 

お気に入りはM47をヘソのあたりで思い切り縛り、マーガレット・ハウエルのゆるいフィッティングのリネンシャツをイン。同じくマーガレット・ハウエルの上品なグレーのワークジャケットを羽織る。そこにマルジェラのブーツを合わせる着方だ。

実は上品一辺倒なマーガレット・ハウエルも、もともとは当時の英国紳士服ではありえなかった「たっぷり身幅をとったゆるく着る紳士シャツ」という、ある意味パンクなファッションを提案した女性でもある。

そんな彼女の感性が、「新しいものこそ善」というテーゼに「ユーズド加工」というアンチテーゼをぶん投げたマルジェラの感性に似ている気がするのは僕だけか。

そしてそんな英仏のパンクなデザイナーをつなぐのは、フランスの名もなきデザイナーと職人が作り上げたカーボパンツの名作だ。見た目は野暮ったいんだけど、着ていて気分が盛り上がる。

 

マーガレットやマルジェラに限らず、後世に残るデザインというのはどこかパンクだと思う。

もちろん僕はコンサバも好きなのだけど、服装でくらい静かにパンクしてもいいかなあ、とも思う。

いやはや、服は着るのも楽しいけど、眺めるのも楽しいなあ。

久々にどん底まで気持ちが落ちたときに僕がやることと、今回感じたこと。

 

 いやはやなかなか派手にブログをサボってしまった。何をしていたのかというと、久々に思い切り気分が落ち込んでしまって、にっちもさっちもいかなくなっていたのです。

 

僕の中での「どん底の気分」の目安は、特にこれといった理由もないのに何もかもが悲観的にしか見れず、涙が出てきて「う゛〜」と嗚咽を漏らしてしまう状態だ。

こうなるとたいていの「うつ対策」は効果がなく、むしろやればやるほど「何をしてもダメ」と絶望的な気分になっていく。

 

ここまで落ち込んだのは随分久しぶりのことだったので、かなり辛かった。

筋トレのおかげで多少落ち込んでもなんとかなっていた食欲も全くなく、一番ひどい日は朝起きてから日が落ちるまでの間に無理やり流し込んだプロテイン以外は口にせず、いざ起き上がって料理をしようとしても肉を見ると吐き気がする始末だった。

すっかり夜になってから「お腹すいた」という感覚が戻ってきたので、ここぞとばかりに炭水化物とタンパク質を押し込んだ。

 

こんなとき、どうすればいいのかというと、経験上文字通り何もしないほうがいい。ただぼんやり天井を見つめる。「眠いな」と思ったら夜眠れなくなってもいいから眠る。洗濯でもしようと思ったら洗濯すればいいし、いざ洗濯してみても干す気力がわかないなら干さなければいい。ただ漫然と、気分が浮き上がってくるのを待つ。

すると徐々に「外に行きたい」とか「この服が着てみたい」とか、そういった「〜したい」がやってくる瞬間がある。

 

ただここでも慎重になる必要がある。仮に「カラオケに行きたい」と思ったとして、ではカラオケに行ってカラオケだけして帰ってこれるかというとそうではないからだ。

店員さんと話さなくてはならないし、場合によっては他の客とのコミュニケーションも必要だ。

そこで何か落ち込むようなことがあれば、「俺はカラオケまで来て何がしたいんだ」とまともに歌わずに帰ってくる羽目になる。

 

だから慎重に、できるだけリスクの低い「〜したい」を選ぶ。そして一つずつ「〜したい」をこなしていって、気分を浮き上がらせていく。今回はこれがうまく行って、いろいろ代償は必要だったけれど比較的短期間で浮き上がることができた。

 

今回、久しぶりに落ち切ってみて感じたのが、「めちゃくちゃ落ちてるんだけど、どこかで冷静な自分」の存在だった。

例えば落ち込んでいるときに恋人とメールをしていると、少し行き違いがあっただけで「もうだめだ、呆れられた。嫌われた」と絶望的な気持ちになった。もともと依存傾向がある僕にとって、このときの気持ちは本当に辛かった。

ところが今回の僕の背後には「いやいや、何を言ってるんだ。彼女の文章は何もそんなこと書いてないだろ。普段の彼女の言動からして、そんなことを思ってないことは明白だ。頭を冷やせ」と指摘する僕がいたのだ。

もちろん落ち込んでる僕はそんなことでは立ち上がれないのだが、それでも少しは冷静になれる。

そこで今回僕がとった行動は、日本語がむちゃくちゃでも内容が整理されてなくても、今の自分の状況をただひたすら書き連ねて、彼女に僕の状態を把握してもらうことだった。僕のうつについて理解してくれている恋人は、この行動で僕の窮地を理解してくれたし、僕もそのことがわかって心底安心した。

これがそのあとのスムーズな浮き上がりのきっかけになったようにも思う。

 

こういう自分に対する冷静な視線というのは、これまでノートやブログでやってきた認知療法的な行動の賜物だと思う。

うつで苦しんでいる人は、「まさか」と思ってもいいから、とにかく試してみるに値する療法だと思う。

 

さあ、溜まった仕事をこなしていこう。

2週間穴をあけたので、ペナルティとして今日から三日間連続で投稿しようと思う。読んでいただける方はおつきあいくださいまし。