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ひとり部活動記録

文章書いたり、筋トレしたり、自転車漕いだり、山登ったり、基本はひとり。

伝えたいこと、伝わること、伝えるということ

アニメ『甘々と稲妻』がなかなか良くて、自分も食の大切さを伝えたいと思った。このアニメは漫画原作のある作品で、誰と何をどんな風に食べるかの大切さを、可愛らしい絵柄と丁寧な描写で伝えてくれる。



この作品の素晴らしさと、食の大切さを自分の鬱時代の「砂利を噛むような感覚」と合わせてブログ記事にしよう。そう思った。なのに文章にならなかった。




もちろんだらだらと書くことはできる。しかしブログを開いてくれた人が最後まで読んでくれるかというととんでもない。作品の概要を説明したところで手が止まってしまう。その概要自体も間延びしていてつまらない。

「人に伝えたい」という文章は難しい。これは仕事をしていても常に感じている。根気強い人は別として、普通の人は文章の中に間延びしたところがあったり、理解しづらいところがあると、あっとう間に読むのをやめてしまう。

ブラウザの「戻る」ボタンを押してさようならだ。これを防ぐためにはきちんと文章を作らなきゃならない。


「きちんと作ろう」と思ってプロット書いてみる。僕は仕事の時プロット作成に記事作成の4分の1から3分の1くらいの時間をかける。昔は見出しだけを書くことも多かったけど、最近はその記事で書く内容ほとんど全てを要素として書き出してしまう。

そうするとどこで熱を入れて、どこに客観的事実を入れるかといった全体のバランス調整も簡単だし、あとから修正して辻つまあわせをする必要がなくなる。結果的に良い文章になるし、早く書ける。


ところが「食の大切さ」を伝えようと思ったら、なんと3つくらい項目を挙げたところで手が止まってしまった。これが何を意味するかというと、「書くべきだと思っていることがそれしかない」ということだ。


これではダメだ。絶対に書けない。


人に何かを伝えたいときの前提は、自分に伝えるべき何かがあることだ。それがないのに、空疎な言葉を並べてみても、伝わることなど皆無である。炊飯器を空焚きしてみても、決して米は炊けない。

確かに言葉の意味は伝わるかもしれない。「食は大切だ」と書けば、「しょく・は・たいせつ・だ」という意味は伝わるからだ。しかしそれは何も伝わってないのと何一つ変わらない。




何を伝えたいのか、どう伝わってほしいのか。「伝える」という行為においては、それが9割以上を占める。文章の巧拙など「伝えるためのテクニック」はその残りでしかない。

だからこそ「伝えたい」「伝わってほしい」の部分は、これでもかというほど練る必要がある。そのトピックについて考えて考えて考えて、これ以上考えるところがないというほど、考えぬかなければならない。


「何を伝えたいのか」は伝えたい内容だ。「食は大切だということを伝えたい」では弱すぎる。「なぜ伝えたいと思ったのか」「どういう風に大切だと思ったのか」「何をきっかけにそう思ったのか」「食は大切ではないという意見についてはどう思うか」など、深く広く掘り下げていく。

「どう伝わってほしい」は伝える相手に求めることだ。伝わった相手が「へー」というだけで終わっていいのか、あるいは日々の生き方を変えてほしいのか。そういうところまで考え抜いた上で、言葉に、文章にしなきゃならない。


もちろんこれを常にやるのは難しい。しかしそれでも大切な場面では、つまり伝えたいと強く思う時には、徹底してやるべきだと思う。そしてそれ以外のときのサボった「伝える」は、基本的にはまともに伝わなくて当たり前と思うべきだろう。




煮物は時間をかけて丁寧に煮込まなければ美味しくならない。材料の切り方をテキトーにやったり、出汁の取り方を雑にしたり、途中で煮立たせて仕舞えば、それ相応の味にしかならない。労力を割かずにやったことがうまくいくというのは、マグレというものだ。

そのマグレに賭けるのもいいだろう。しかしそんなやり方ではそれ相応の伝わり方しかしない。言葉の意味は伝わっても、伝えたいことは伝わらないのだ。



ところが困ったことに、仮に9割を完璧に練り上げたとしても、残り1割で全てが台無しになることもある。これについてはまた日を改めて書くとしよう。

さてこの文章でどれだけの人に僕が伝えたいことが伝わっただろうか。ちなみにこの文章には「食の大切さを伝えたい」と思って書き始めたところから「書くべき内容がない」と気づくまでに30分、「このこと自体を記事にしよう」と思ってプロットを組み立てるのに30分、書き上げるまでに30分の時間をかけた。それだけ分の内容は伝わっていれば嬉しい。