褒めることの代償
「褒めて伸びるタイプ」「褒めて育てる」など一般的に褒めることにはポジティブな要素が認められています。確かに僕も褒められることは大好きだし、褒めてくれる人のためならもっと頑張ろうって思います。
これは子供の頃からそうだし、今もそうです。でも長い目で見ると、この「褒める」って行為には、なかなかに大きな代償もあるような気がします。
「褒める」は麻薬
これは僕の経験に基づいた見解なんですが、褒めることがもたらす効果って短期的なうえに依存性があるんですよね。
怒られたり、罵倒されたりしたときの記憶って振り返ると、むしろ実際に怒られたり罵倒されたりしたときよりも怒りや悲しみを感じるんですけど、褒められた記憶って振り返ってもイマイチ喜びや嬉しさって思い出せない。忘れてしまう。
なんなら自分がネガティブな気持ちになっているときに思い出すと、「あの人に申し訳ない」「きっと勘違いだったんだ」とかむしろマイナスの方に働くこともあります。
また、褒められるとたいていはそこで満足できなくて「もっと褒めて欲しい」「褒められるために頑張りたい」ってなります。でも自分の努力が向かう先って、本来は自分の満足だったり、成長だったりするべきだと思うんです。他人が褒めてくれるとか、喜んでくれるとかっていうのは二の次であるべきです。でないと自分のために頑張ることができなくなってしまう。
「誰かのために頑張れることはいいことでしょ?」と思うかもしれませんが、誰かのために頑張れることと誰かのためにしか頑張れないことは全く別の話です。
誰かのためにしか頑張れない人は、得てして「誰かの評価依存症患者」です。
「誰かの評価依存症患者」は自分も他人も困る
誰かの評価依存症患者になると、概ね以下の4点の問題が生じます。
1.「やりたいことはある?」と言われても、明確に答えられない。答えられたとしても理由を掘り下げていくと「○○が喜ぶから」とか「社会的に価値があるから」とか、他者が発端になっている。
2.いわゆるメンヘラになる。「私はこんなに頑張ってるのに!(どうして評価してくれないの?)」「君に見てもらえないなんて、僕には何の価値もないんだ……」的なことを言い始める。
3.自分で選ぶということができなくなる。例えば服飾品も社会的ステータスなどで選ぶようになるし、自分の将来も「世間体が」「みんなそうしてるから」で選ぶようになる。
4.死に物狂いで努力して、実際は成長しているのに、それが他者に評価されないと「全部無駄」だと思ってしまう。その他者が「評価できない無能者」とは思いもしない。
多分もっとあるんですが、ひとまず今思いつくものでこれだけあります。ちなみにこの4点、いずれも以前の僕の話で、今も全くなくなったわけではありません。いやもうほんと、他者に評価されることが目的になると、ロクなことにならないんですよ。
そして何より、他者に依存するっていうのはすっごく身勝手な状態です。なぜなら自分だけでなく、他人にも迷惑をかけるからです。
他者にはきちんと自由意志があって、誰かの評価依存症患者をかえりみる自由もあれば、かえりみない自由もあるわけです。仕事が忙しかったり、失恋したりして、患者のことを考える余裕がないこともあるでしょう。
にもかかわらず、患者たちは「どうして自分を見てくれないの?」と被害者ヅラです。「知るかよ、そんなもん!」とはねつけられる人は問題ないでしょうが、自分を慕ってくる相手を無碍にできない人は、かなり心苦しい気持ちになるはずです。
でもそれもこれも、患者がその人に依存しているのが原因です。依存された人が気にすることではない。誰かの評価依存症患者は単に自分の意思がないだけでなく、他人の意思にまで干渉してくる厄介者なのです。
誰かの評価依存症は他の依存症よりもタチが悪い
他者からの評価に限らず、依存症というのはよほどの重症にならない限り、自覚するのは難しいイメージがあります。ギャンブルとかアルコールとか、ニコチンとか、無関係の人からは依存症に見えても本人は「いつでもやめられるから」とか言っているイメージです。
ただ僕が思うに、誰かの評価依存症は他の依存症よりもタチが悪いです。 なぜなら、調子がいい時の誰かの評価依存症患者は、周囲から見ると「努力家」とか「可愛いやつ」といったポジティブな評価が得られるからです。
当然本人は周囲の評価に依存しているので、自分が悪いことをしているなんて自覚をするのは不可能です。するとどんどん依存症は助長されていきます。
これはカフェインとかエナジードリンクで自分の体にハッパをかけている状態と同じです。つまり結果が出ているうちは問題ないどころか高い評価を得られますが、誰かの評価が不足した途端、カフェインが切れて体調が崩れるように、自分の価値そのものが崩れてしまうのです。こんな脆い人生、リスクが高すぎます。
「褒める」の用法・容量
話を「褒める」に戻しましょう。多くの人が気づいているように、褒めるという行為は誰かの評価依存症患者を作り出します。褒めるという麻薬を投与し続けると、相手はそれなしではいられない体になってしまうのです。
だから誰か(特に子供がいる人は子供)を褒めようとするときは、用法・容量をきちんと守る必要があります。また褒められる方も害のない程度に薄めて受け取る必要があります。具体的には以下のようなイメージです。
<褒める側>
・基本的には褒めない。なるべく客観的な事実だけを伝える。「前はできなかったのに、できるようになったんだな」(「すごいな」「偉いな」など、評価になるようなことは言わない)
・褒める回数を調節する。少量のアルコールも毎日飲めばアルコール依存症になる。もし毎日褒めたいのなら、一生毎日褒め続ける覚悟を決めるべき。
*これは「叱る」ことでも同じ。褒めるはポジティブな評価だが、叱るはネガティブな評価である。ネガティブな評価を受け続けても「誰かに評価されること」は癖になる。
<褒められる側>
・褒められたら「本当に褒められるべきことだろうか」と考える。客観的な数字などを調べて、自分が褒められるに値する能力を持っているのかを「自分で」確認する。
・褒められても一旦その事実は横に置き、「自分が決めた」目標に到達できたかを振り返る。他者に評価されたことよりも、自分の評価に見合った結果かを再考する。これは叱られた場合にも有効である。他者に評価されなくても、きちんと決めた自分の評価基準に達しているなら、自分を褒めるべきである。
自分は自分で評価しよう
僕は近年になってようやく自分が誰かの評価依存症患者であることを自覚でき、少しずつ症状を緩和できるようになってきました。しかし今でも自信がなくなったり、体調が悪くなったりすると、依存症はひょっこり顔を覗かせます。
「誰かに褒められたい」
「誰かに頑張っているところを見て欲しい」
まるでアルコール依存症患者が酒を求めるかのように、そのときの僕は褒められることを渇望します。それに気づいたら、少しずつでも自分で決めたことを一人で達成し、自分で自分を評価することを思い出すようにしています。
なかなかうまくいかないことも多いですが、自覚できているだけでも以前よりはマシかなと思っています。
褒めること、褒められることには、それと引き換えに失われるもの(=自分の意思)があるのだということが、もっといろんなところで理解されればと切に願います。