ひとり部活動記録

文章書いたり、筋トレしたり、自転車漕いだり、山登ったり、基本はひとり。

『岸田アパート物語』12号室

しばらく誰も話さずに、テレビの音だけが流れていた。ここ一年ほどで一気にトップアイドルグループにまでのし上がったYSP(やきそばパン)48のメンバーの一人が、芸人に囲まれて何を話せばいいのかわからないと言った表情を隠しきれずに、とりあえずの笑顔を浮かべている。


 私がこのアパートに気楽に来れるようになったのは、四年生になってからである。郷田との河原での邂逅のあとも、勉学に打ち込み続けたから、というのもある。と言っても、それまで没頭していた「哲学」界隈の勉強ではなく、「文化史」と呼ばれる学問の方に鼻息荒くして臨んでいたのであった。それは、それまでの使命感による勉学ではなく、好奇心に基づく勉学であった。結果どうしても岸田を訪れる頻度は少なくならざるを得なかったのである。本を読むという理由で岸田の集まりを断っていたこともある。
 しかし、どうしてかは言葉では説明しがたいが、四年生になってここに来る頻度が日増しに高まっていった。私にとってこの場所がすこぶる居心地のいい場所になっていったのであろう。ともに飯を食い、酒を飲み、ゲームをし、とにかく笑う。そうすることに何のためらいもなくなった頃から、ここが私の居場所になったのだ。
 この一年のどうでもいいような時間が、何とはなしに頭によぎって、私は少し鼻の頭がツンとした。
「ど、どないしたん、草さん! 泣いとるやん」
森野が驚いた様子で私の方を見て言う。
「い、いや……」
私は急いで目から滲みだしたものを拭うのだが、いくらやっても視界はまたすぐ滲むのだ。
「寂しいか、草さん!」
突然起き上がった郷田が、その巨大な手のひらでバチンと私の背中をたたく。
「うん、寂しいぞ!」
「俺も、俺もさみしい! けどまだ泣くのは早いで!」
彼の声も少なからず滲んでいる。
「う、うむ……ところで森野」
「ん、どうした」
「これ、美味いな」
私がそう言うと、彼はそうか、ありがとう、とそう言って、フハハハハと素敵に笑った。

 


一月三〇日.

 人間は覚える生き物であると同時に、忘れる生き物である。記憶の容れ物に入りきらないもの、あるいは必要性がないものをどんどん消していってしまう。そうでなければ入れ物がいっぱいになってしまい、パンクしてしまうのだ。中学生の時、学習塾の講師に忘却曲線というものの話を聞かされたことがある。なぜか私はそれを案出したヘルマン・エビングハウスという心理学者の名前だけが記憶にこびりつき、他の細かい内容は失念してしまっているが、講師の話の大意は「繰り返し覚え直せ」だったと思う。
しかし、覚え直すに値する情報であればそうするが、その価値もないのに繰り返し覚え直していてはいくら命があっても足りない。だから私たちの記憶は、要るものと要らないものを意識的ないし無意識的に選別し、要るものだけを収容しているのである(ただしその選別がいつも正しいとは限らない)。


 私は自分の誕生日を忘れていた。
 私はそのことに郷田からの電話で気付いた。その時私は遅い昼食を済ませて机に向かっていたところであった。一年生の時に買ったまま押入れの奥底にしまっていた谷崎の『細雪』を読み進めていたのである。結婚するならやはり雪子さんであろうか、などと決して叶うことも想う甲斐もない妄想などしながら、雪子さんが東京へと連れられて行って寂しい思いをしている場面にグスリとしていると、携帯電話が鳴ったのである。
「もしもし」
「誕生日おめでとう、草さん」
「え」
「え、やないで。誕生日やろ、今日」
「そうだったか、すっかり忘れていた」
「岸田でお祝いするから、今日七時ぐらいに来てや」
「それは本当か。すまないな」
「当たり前や。ほなまたな」
電話を切った後、私は少し感慨に浸っていた。正直に言って、嬉しかったのである。大学に入って以来、ろくな交友関係を持ってこなかった私には誕生日を祝ってくれる友人などいなかったのだ。加えてこの時期は去年まではテスト期間であるために、レポートやら勉強やらに追われていて、自分自身それどころではなかった。そんなこんなで三年も自他ともに祝うということがなかったこの一月三〇日という日は、いつしか「何も特別な日ではない」と私の記憶中枢に判断されるにいたったのである。
「誕生日パーティーというやつか……何を着ようか……」
などと浮かれた悩みごとなどしてみたくなるのも無理はないと言えよう。しかしながら、私はいつでも冷静である。その悩みとともにフワフワフワと五分ばかり宙に浮いたあと、騒ぎすぎて汚れても嫌なので、いつも通りの格好で行くことに決めた。


 私は余っていた卵で三本ほどたまご焼きを作り、それを手に七時ごろ岸田に出向く。何だか妙に緊張してしまう。何しろ友人に祝われる初めての誕生日である。初めて、というのはいくつになっても緊張するものだ。私は努めて冷静を装いながら、会場だと指示された郷田の家の扉を開けた。しかし、中は明かりもついておらず、ひどく暗い。
「……どういうことだろう」
私は思案した。郷田の事だからいつものように時間ぎりぎりになって買い出しに出たために、七時に間に合わなかったという可能性は大いにあり得る。しっかりしていそうで、意外と抜けているのがあの大男の魅力でもあるのだが、当然玉にキズでもある。
「とりあえず、電気をつけよう」
私は手探りで壁のスイッチを探し当て、その一番上のスイッチを入れた。それが郷田の家の居間の電気に通じているのだ。チカチカチカと点灯しつつ、明かりがついた。
「ハッピーバースデイ!」
パンパンパンパンッと破裂音が連続して四回聞こえた。クラッカーを鳴らしたのは郷田と森野である。私の気は物凄い音を立てて動転している。
「び、びっくりし、した」
「びっくりしすぎやろ、草さん」
郷田ががっはっはと笑う。
「し、しかし、しかしだな……」
私はようやく気を確かにすると、自分の状況を把握した。私の腕や頭にはクラッカーから出た紙吹雪やらなんやらが絡みついており、キラキラキラと輝いている。なんだかまさに誕生日パーティーではないか。私は胸の底からこみあげる嬉しさを感じた。
「うふ、うふ、むふふ」
「や、やばい、郷田、草さんがおかしくなった! びっくりさせすぎたかな」
「ち、違うんだ、嬉しくて、とても嬉しくて、なんだかこうこみあげてきたのだ」
私がそう言うと、そうか、そうか、ならよかった、と森野は笑って言った。
「今日な、草さん。ほんまは他にも呼んだんやけど、みんなテストやらなんやらいうて来られへんのやて。俺と郷田の、二人だけですまんけど……」
「い、いや、それで十分すぎるぐらいだ。私はとても嬉しい」
「あ、あと香織も遅れて来るって」
台所で料理をしている郷田が居間の方に顔を出して言う。
「なら、もっと嬉しい。本当にありがとう」
私がそう言うと、
「まだ何も食ってないし、飲んでもおらんのに喜びすぎやで」
と森野が自分も嬉しそうに言ってくれた。
「いやあ、私は友人に祝ってもらうのが初めてだから、それだけで嬉しいのだ。ただ、こんなに嬉しいとは思わなかったが」
「ほしたらこれから、草さんぶっ倒れるぐらいうれしなるんとちゃうか。今日の飯やら酒はなかなかええもんつこてるで」
「のぞむところだ。ぶっ倒れるぐらい飲みたい気分だ。うふ、うふ、むふふ」
 私たちはそれから三人で鍋をつつき、酒を飲んだ。確かにその日の鍋にはいつもより高価な食べ物が入っていた。豆腐は一丁三九円のものではなく一丁九八円するものだったし、豚肉も一〇〇グラム八九円の豪州産のものではなく一三八円の国産のもののようである。白菜などの人参もいつもより甘い。どこで買ったのだと尋ねたが、
「俺だけの秘密の店やからな、内緒や」
といって郷田は口を割らなかった。ひょっとすると山の中にでも秘密な田畑でもあるのかもしれない、と思った。それはそれでなかなかロマンチックな想像である。
「そうだ、ロマンチックで思い出した」
「何やロマンチックて、そんな話したか?」
「え、あ、いや、頭の中で」
「なにそれ」
フハハハハと森野は笑って、それで? と先を促した。


「森野は里美ちゃんと、いったいぜんたいどうなのだ?」
「お、草さん、いきなり切りこむねえ」
郷田が囃し立てる。
「どうって、何が」
「むう、じれったい。好きなのかそうでないのか、と聞いているのだ」
「好き……かあ」
森野はコップに残った焼酎をぐいっと飲んで、もう一杯、と言いながら考える様子を見せる。
「なんやなんや、えらい焦らすやん」
「いやだって、好き、ってよくわからんしなあ」
「では、どんなふうに思う」
「まあ、居心地は悪くない、かな。長いこと一緒におっても苦痛やないし」
「なるほど……」
「でも、あれは、里美ちゃんは明らかにお前の事好いとるやろう」
「貴様、郷田、それは!」
言ってはいけないことだと私が言おうとしたところ、
「うん、まあ、それはわかっとるけどな。向こうがどうこうしたいって言うてきたわけでもないし」
私は驚きを隠せない。鈍い鈍いと思っていた森野が、よもや里美ちゃんの気持ちに気付いているなどとは思わなかったのである。
「森野、気づいていたのか」
「そらなあ、弘毅にあれで、俺にあれやからなあ」
森野はそこで初めて少し照れたような顔をした。口元が緩んでいる。
「これからどうすんのん」
「俺は別に。付き合ったりするといろいろ面倒やろ。今のままでいい。里美ちゃんから言うてけえへんことには、何も変わらんやろな」
森野の控え目ながら、誠実そうなもの言いに、ああこの男はしっかりちゃっかり里美ちゃんに惹かれているのだということが分かった。私は盟友として、胸の内で彼女に祝福の言葉を述べた。


「そんなん言うてる草さんは?」
「何がだ」
「女の子関係、どうすんの」
「私にはそのようなものはない、と前から言っているだろう」
「もう、草さん、草臭いわ」
「それは私の名前への侮辱と受け取っていいのか」
郷田の冗談に私は報復として脇腹を刺激する行動に出る。二人でじゃれていると、駐輪場にバイクの停まる音がする。エンジン音からするに香織嬢だ。
「おお、香織嬢が帰ってきたぞ。酒を注がせてもらおう」
私がそう言ってコップの準備をし始めると、俄に森野がニヤニヤニヤとし始め、郷田はむしろ居住まいを正している。
「何だ、どうした」
「草さん、いよいよお待ちかねの時間や」
「何のことだ? 何なのだ、郷田」
郷田は私の眼をまっすぐとみて、言った。私はその言葉に、胸がビクリとした。


「文通の相手に、逢いたないか、草さん?」
「どうして、それを……香織嬢に聞いたのか?」
脳裏に数日前の花火の夜が舞い戻る。あの時した話を彼女が彼らにしたのかもしれない。別段気にはしないが、それにしても逢いたくないかというのはおかしい。
「逢いたないんか、逢いたいんか、どっちや」
有無を言わせぬ郷田の視線が、私を射る。
「た、確かに、逢いたいとは、思う」
「なんで逢いたい。好きなんか?」
「惹かれては、いる……しかし、私は!」
私は同時に佳菜子さんの事を忘却したわけではない。何度も何度も彼女の事を思い出しては、記憶の容れ物に収納し直している。
「わかっとる、それはええ。とにかく、惹かれとんねんな?」
「う、うむ」
「よっしゃ、香織、連れて入ったって」
郷田がそう言うと、はーい、という香織嬢の声とともに扉が開いた。私が唖然としながらそちらを見るとそこには―――佳菜子さんが立っていた。
「先日は、どうも」
と彼女は外気の冷たさにあからんだ顔をして言った。
「い、いえ、こちらこそ」
私たちはお互いに顔を見合わせて、それからしばらく黙ったまま、その予想だにしなかった対面を受け入れようとしていた。しかし、その様子を見かねたのだろうか、しばらくして郷田がこう言った。
「まあまあ、とりあえず二人とも座りや」
その声にようやく我に返った私は、近くの敷物を佳菜子さんに勧め、私もその近くに座った。そして、改めて私は彼女に尋ねた。
「どうして、佳菜子さんがここに? 佳菜子さんが私の文通相手というのは?」
気が動転しているのは彼女も同じらしく、頭の中で自分を取り巻く状況について整理している様子で、話し始めた。
「私も、実はよくわかっていないのです。先ほど突然香織さんが私の家に訪ねていらっしゃって、文通相手に逢いたくないか、と」
それで彼女は、ぜひ逢いたい、と答えた。
「けれども、どうして香織さんが私の文通をしていることを知っているのか、どうしてその相手のことまで知っているのか、ということについては全く私もわかっていないのです」
言われるがままにここへ来たら、草人さんがいて……と、彼女はそこで顔を赤らめてうつむいてしまった。先刻の私の言葉を思い出したのだろう。私だって赤くなる。
「ということは、佳菜子さんも私とさして変わらない状況のようです」
私はそう言って、郷田の方へ体を向けた。
「説明、してくれるのだろうな。確かに私はこの状況に歓喜するにやぶさかではない、やぶさかではないが、この奇々怪々の状況を理解しなければ堂々と喜ぶこともできん」
郷田が、では、と一言前置きをして、こう話し始めた。


「ことの発端は、ふた月ほど前から草さんがどうやら佳菜子ちゃんのことをまた思い出しているというのがわかったからや」
「な、なぜわかった」
と言うよりもその話をされるのがこの場ではすこぶる恥ずかしい、ということはすこぶる恥ずかしくて言えない。
「まあ、わかりやすかったからなあ」
郷田の代わりに森野が答える。
「それでまあ、香織に頼んで方々聞いて回ったところ、どうやら佳菜子ちゃんもよう似た想いやっていうのがわかったんや」
となりで彼女が小さくなるのが分かる。
「んで、二人をくっつけようって話しになったんやけど、や」
彼はそこで一呼吸置いて、自分のコップに酒を注ぎ足してから、続けた。壁掛け時計の秒針の音が響く。
「佳菜子ちゃんはともかく、強情で意地っ張りで、一度決めたらなかなか自分を曲げようとせえへん、もっと言えば決めた自分の方針に縛られて身動きとれんくなる草さんの性質から言うと」
酷い言われようである。
「絶対に俺らが、佳菜子ちゃんもこう思てるからヨリ戻せ、言うたところで聞かへんにきまっとる、ってことになってな。それで俺が策を凝らしたんや」


郷田はまず、私が彼に勧めたスパイ映画『メカは意外と泳ぐのが遅い』を着想に、スパイ募集ではなく文通相手募集の貼り紙を拵えた。それが私の家にはじめに出現したあの文章である。私はまんまとそれに引っ掛かったのだ。郷田はそれを確認するや否や、佳菜子さん宅の郵便桶に同じような内容の手紙を投函した。佳菜子ちゃんは素直だから普通の渡し方でいいと思った、と郷田は言った。とことん失敬千万な男である。私だって素直である。とにもかくにも、彼女も文通の誘いに乗り、舞台の前提は整った。
 彼は香織嬢や森野とともに我々のはじめの手紙を検証した。というのも、私と佳菜子さんはどちらも相手から文通を持ちかけてきたと思っている。そのままただ手紙のやり取りをさせてしまうと、いつまでも話題はすれ違い続けるのである。そのために、彼らはどちらか一方の手紙を握りつぶしてしまう必要があった。結果、佳菜子さんの一通目がその憂き目にあうことになった(ごめんな、と郷田は謝った)。このことにより、話題のすれ違いという問題は解消される。


 しかし、解決するべき問題がもう一つあった。まっとうな手段で始めていないこの文通は、手紙の交換そのものが困難を極めたのだ。私の方は段ボール箱の貼り紙、佳菜子さんに対しては住所を突き止められても困ると言うので架空の住所を使っていた。誰かが仲介しなければならないのである。そのことで頭を抱えていた郷田に手を差し伸べたのが、森野である。
彼は私の件に関しては例のサイトを作らせ、香織嬢に対してもまた一計を案じた。彼は学校の近くの郵便局に勤務している先輩に頼みこみ、香織嬢が投函する手紙をそこで留めてもらい、それを郷田が回収する、というシステムを作ったのだ。こうして彼らは私たちの不自然な文通を成立させてしまったのだった。
 こうして当人たちは奇妙に思いながらも楽しげに文のやり取りをしていくのだが、或る時問題が発生する。兵頭茂による「貼り屋」の存在の露呈である。しばらく様子見を決め込むはずだった岸田の面々はこの事件に動揺を隠しきれなかったらしい。その状況に置いて、冷静に事象を捉え、危機を好機に変える策を講じたのが香織嬢であった。

彼女は私と岸田の交友関係から全く埒外にある人物を、私が文通相手を突き止めるまでの案内役として投じるという提案をした。そこで彼女が名前を挙げたのが、態侘落先生であった。態侘落先生は例によって寝床を探しによく山に行くらしく、郷田は山の中でたびたび顔を合わせ、相当親密になっていた。
そのことをを聞いていた香織嬢はこの怪老人を利用することを思いついたのである。先生は郷田の頼みなら致し方あるまい、と一つ返事で請け負ったという。彼が突如構内に姿を現したのは、こういうことであったのだ。全ての事情を郷田から聞かされている先生は、兵頭のことも知っていたし、長田を通じて郷田が入手していた佳菜子さんの動向にも通じていたために、あの予言じみた助言ができたのであろう。


「そこまでしたのにやで」
郷田は言った。
「草さんはいつまで経っても佳菜子ちゃんにたどりつかへんねん。参るで、ほんま」
他の二人も深く頷いている。
「ほんでこないだ花火の時と、誕生日の今日に、草さんの気持ちを確かめたんや。佳菜子ちゃんにも文通相手にも、ちゃんと惹かれてるんかっていうのを」
「もう、そろそろ俺らも辛抱できんなってしもてな」
フハハハハと笑いながら森野が言う。
「それで、私は佳菜子ちゃんに気持ちを確かめた、ってわけ」
香織嬢の言葉のあとに一瞬間をおいて、郷田は私の眼を見て言った。
「草さんは佳菜子ちゃんの前で文通相手に惹かれてるって宣言した。もう、引っ込みはつかへんやろ」
私はコクリ、と頷いた。私は郷田に向けていた体を、改めて佳菜子さんへと向ける。
「佳菜子さん……」
「……はい」
私は彼女のその返事を待って、自分の想いを言葉にした。その言葉の行きどころは……もはや、言うまい。

 


一月三一日 午前二時

 雪が舞う。真っ暗やみの空の底から、はらはらはらと舞い踊る。私たちは空を見る。白い息がほんのり闇に溶けていく。深い静寂の水底へ、二つの小さな足音も、すうっと消えて溶けていく。

 

 


三月七日.

宙に舞ったのは皿だけではない。無論、そのうえに載っていた出し巻き卵も一回転ひねりを加えて見事頭部から着地した。憎らしいことにプラスチック製の皿は、さも私を嘲笑するかのようにふてぶてしくアスファルトに横たわっている。この予期せぬ転倒について、私には何ら責任などないというのに。私は冷静に、しかし素早く、少し形の崩れた出し巻き卵と憤然とする皿を拾い上げ、元の状態に戻し、岸田アパートへと向かった。
 まだまだ暖かいとは言い難いにせよ、日が落ちたところで寒い寒いと身を縮めることももうなくなった。空気はどこかしら春めいてすらいる。少しずつ来年度の新入生たちがこの町に顔を見せ始め、彼らのどこかあどけない顔を見ていると、なんだか少しせつない気持ちになってしまう。スーパーの売り場で、戸惑った様子の彼らが過ぎし日の自分のように思えて、無性に抱きしめたくなどなるが、彼らの心に色々な意味で深い傷を負わせてしまいそうなので自粛せざるを得ない。


 春の香りがふうっとする夜の風に、そんなことを思いながら私は郷田の家の扉を開けた。
「おうい、やってるかあ」
「お、草さん」
そこには既に香織嬢も森野も揃っている。
「あれ、佳菜子さんは」
「友達と旅行に行った」
「そうなんや」
「お、今日は肉じゃがか」
「今日のは特にうまいこといったわ」
私の口内において唾液が満潮を迎える。
「草さんは? 何持ってきたん」
「あ、そうそう、皆に謝ることがある」
彼らは一様に私の方を見る。
「たまご、落してしまった」
皆が笑って、私も笑った。

 


郷田が洗えばええ、洗えばええ、とそう言った。