ひとり部活動記録

文章書いたり、筋トレしたり、自転車漕いだり、山登ったり、基本はひとり。

『岸田アパート物語』6号室

私はその時、ひょっとして奴は森の賢者か何かかと思ったものである。とにかく彼の言葉は私の腑にストン、という気持ちのよい音をたてて落ちた。それからしばらく彼の言葉をかみしめるように、小一時間ほど河原に一人坐していた。


 それからしばらくして後に、私は自宅付近にて森の賢者と再会するのだが、その後の私たちの関係は読者諸賢の知るとおりである。郷田はその時のことをあまり覚えていないという事だが、私はそれ以来人を否定することをやめ、色眼鏡で見ることもやめた。外見を気にすることをやめたのもその時期であるから、それが私の大学生活にどれだけ資する所あるかは定かではないが、とにかく生きるのが楽しくなったのは確かである。
 と、そんなこんなで過去にばかり浸っていると、気づけば外はもはや暗くなっているではないか。残りの部分をさっさとやってしまおうと、寸分の無駄もない動きで掃除を実行していると、この日一番の「イタイトコロ」が出てきてしまった。それは、佳菜子さんから頂いた、一冊のノートである。


「私が、草人さんの頭の中を覗くための、ノートです」
と素敵な笑みを浮かべて彼女はそう言った。
「はあ」
と私がその笑みに照れながらも、その意図を解しかねている様子を見せると、
「草人さんは、ただご自分の思いつかれたことなどを、ここに書いてくださればよいのです。」
「はあ」
「それを私が読むのです。」
「ああ、それで私の頭を覗く、ですか」
「はい」
彼女はさらに素敵にほほ笑んだ。


 それがこのノートなのである。何の変哲もない大学ノートなのだが、彼女の美しい筆跡で「草人さんの頭の中」とタイトルが記されていて、私の感興をおのずから催しめる。ぱらぱらとめくってみると、どうしようもない思い付きから、どうしようもない思い付きまで、つまりどうしようもない思い付きばかり記されていた。諸々の読書体験から得た感動などである。それに彼女は逐一コメントを記してくれている。感極まるとはこれだろうか、胸が苦しくてとはこれだろうか、私はこの日二度目の涙を流した。
 その時である(私の感興は外部からの干渉によって邪魔される傾向にある)。私は掃除に伴って舞い踊る埃による空気のよどみを解消すべく、窓を開け放っていた。だからであろう、ティシューで涙をふき、鼻水をかんでいた時、階下で何やら音がしたのを耳にした。
「もしや」
手紙の主ではないか。私はそう考えた、いや感じたと言ってもよい。私は心身に纏わりつく過去や現在や未来の諸々の懸念をえいやと振り払い、外に出て大急ぎで階段を駆け降りた。するとそこには上下黒づくめで黒のニット帽をかぶったマスクの男が必死に何かを段ボール箱に貼り付けている姿があった。私は一瞬間言葉を失ったが、自らを奮い立たせ、声をかけた。少し、震えていたかもしれない。
「……あなたが、手紙の主でしょうか」
ギクリと体全体を飛び上らせた男は、突然私に突進するかと思うとその脇を抜けて逃げようとした。私は思わずその腕を捕まえていた。
「答えてくれ」
私の声は半ば懇願するようにすらなっていた。想像していた結末と、あまりにも懸隔がありすぎる。黙する眼前の男の返答を、私は待った。しばらくして、男はあきらめたように口を開いた。
「ちがう」
「ほんとうに?」
「俺は、うまいハナシに乗っただけだ」
「頼まれた、ということか」
「そう」
ただの文通にしては、あまりに手の込んだやり方ではあるが、郵送ではなく段ボール箱を介しているという時点で、そもそもただの文通ではない。何かしら「裏」があってしかるべきなのである。しかし、あの手紙の文面に裏があるとは考えにくいのもまた事実である。
「誰に頼まれたのだ」
「わからない、俺たちはあそこに紙を貼って、金をもらうだけだ」
「たち?」
私がそういった瞬間、男は私の手を振り払って走り去ってしまった。たかが段ボール箱に紙を貼るだけのことに、いったいどれだけの意味があるのだろうか。問い詰められて話せないほどに、その秘密の露見はあの男にとって不利益になるものなのだろうか。たった今交わした会話からはそれらの疑問の答えになる何ものも得ることはできなかった。


 私は段ボール箱まで戻り、いつも通りその手紙を剥がしとったが、先ほどのような出来事の末に手に入れたものであるから、なんだかすこし不気味である。しかしそこにはいつもと変わらない「彼女」の筆跡があった。私は「カネかモノを要求されるまではこの秘密の遊戯を愉しんでもよい、但し深みにははまるべからず」という、この文通を始めた時に自らに課したルールを思い出し、後半の部分には些かの不安があるものの、まだその要旨には抵触してはいまいと考え、その「彼女」からの手紙を丁寧に折りたたんで、懐に納めた。
「とにかく、飯にしよう」
私は誰にともなくそう言って、自室への階段を上った。

 


一月六日~一月十四日.

 私の小さな頃の夢は、野球選手だった。人並みに無邪気で、人並みに夢見がちであったということだ。人並みに恋もし、人並みに恋破れた。国破れれば山河があるが、恋破れた後には何が残るというのだろう。今の私には後悔としか答えようがない。
 あの日の夜から一週間ほど、私はあまりよく眠ることができなかった。あの黒ずくめの男の言動がどうしても気になったのである。文通の相手の女性(仮)が私と同じ大学であるとするならば、まず間違いなくあの男もそうであろう。そしておそらくその他の男たちも。ということは、虱潰しに構内の男どもを問い詰めれば必ず突き当たるということだ。しかし、私にそんなことをする度胸などあるはずもない。しかし気になる、でも度胸がない。そういう堂々巡りを延々と続けていたのである。気づけばもう年も明けて、大学の講義もはじまってしまった。むくりと布団から体をおもむろに起こした私は、そのまま大学へと赴いた。
 一週間堂々と堂々巡りをしながら、練りに練りすぎて逆に液化してしまいそうになった「虱潰し」作戦を実行に移すか否かと思案しながら大学まで歩いてみたが、私の思考は臆病大迷宮をぐるぐるぐると回る一方で、一向に決断する気配が見えない。茫然として図書館の前のベンチに腰かけていた。
「貴様」
私はビクリとした。あまりにも突然の声であったのだ。それまで人が私に近寄ってくる気配など微塵もなかったのである。一睡もしていないせいで脳が私をして幻聴を知覚せしめたのかと疑ったが、声のする方向に顔を向けるとそこには確かに人がいた。しかし、普通の人間ではなさそうである。その男は長く伸びた髪を束ね、髭を胸のあたりまで伸ばすに任せ、そしてスーツを着ていた。しかしそのスーツも全くもって折り目正しくはなく、全体的にしわだらけでスーツがフォーマルウェアであることに疑念を抱くほどに、彼のそれはカジュアルダウンされていた。
「貴様」
男は同じ言葉を繰り返した。よく見てみたが、その風体も一向に変わり映えがしない。
「なんでしょうか」
「そこは、儂の場所だ」
「いえ、ここは公共の場所です。あちらにもベンチがあるので、あちらをどうぞ」
「やかましい。儂はそこで眠るのだ」
「やかましいもくそもない。眠るのなら別のベンチでもできるし、というか家で寝てください」
私がそう言うと、その怪人はしばし沈黙した。あの程度の説得に応じるような外見には見えなかったが人は外見には寄らないな、反省しよう―――などと思った私は限りなく聖人に近い。男は激怒したのである。
「喝!」
と耳をつんざくような怒声を発したかと思うと、男は背中に仕込んでいたらしい木刀を取り出した。正気の沙汰ではない。第一、正気の人間がこのような風体を衆人に晒すことなどできはしまい。
「ま、まあ、ゆっくり話し合いま」
「問答無用!」
男は木刀を一直線に私の脳天めがけて打ちおろした。それを間一髪でかわした私はすぐさまそのベンチを立ち退く決心をした。ベンチはほかにもいくらだってある。私がほかに移って事が丸く収まり、おまけに自分の身の安全まで確保できるならそれに越したことはない。
「わかりました、どうぞ、どうぞ!」
そう言って私が席から立ち上がると、男の怒りの烈火は瞬く間に鎮静し、木刀も納められた。
「はじめからそうすればよいのだ、この愚か者」
傲然とそういってのけた男は悠々とベンチに横になり、ものの数秒で高らかにいびきをかき始めた。私はほっと胸をなでおろし、近くのもう一つのベンチに腰掛け、先ほどの懸案に取りかかった。相も変わらず迷宮から脱出するすべはなく、ぐるぐるぐると思考を円環状に巡らしていると、
「貴様」
という声が聞こえた。見ると、言うまでもなく先ほどの怪人である。寝ていたのではなかったのか。しかも、またもやお怒りのご様子である。
「どうしましたか」
「そこは、儂の場所だ」
いえ、ここは公共の場所です。あちらにもベンチがあるので、あちらをどうぞ。などという台詞を極めて最近に口にしたような気がして、私は口をつぐんだ。そして、静かに席を譲った。
「うむ」
と満足そうに頷いて、男はまたそこに横になる。私はと言えば、このまま思案していてもらちが明かないことに少し気がつき始めたので、とりあえず構内をぶらぶらと歩いてみようと思った。さてまずは北側から歩こうか、と私が足を踏み出した時である。背後から怪人が私を呼びとめるのである。
「貴様」
よもや、そこは儂の場所だ、などと言いだすのではあるまいか。しかしそうではなかった。
「して、何を思い悩む」
「え」
「して、何を思い悩む」
「どうしてそれを」
「儂は、何でも知っている」
「仙人でもあるまいし」


とは言ってみたものの、なんだか少し怖くなってきている自分に気付く。この男は人間などではなく魑魅魍魎の類ではなかろうか、という疑念が首をもたげる。そう言えば、そう見えないこともない。いつの間にかベンチに胡坐をかいていた怪人の眉間には深い深い皺が寄り、彫刻刀で刻みつけたようである。耳はよく見れば先が少し尖っており、耳たぶはほとんどないに等しい。中世の欧米において恐ろしい数が火刑に処せられたいわゆる魔女のような鼻の上には、奥底のしれない漆黒の瞳があり、その岩をも貫くのではと思わせるほど鋭い眼光は今私に向けられている。
一見すれば単なる華奢な老人にしか見えないのだが、今目の前にいるその男は何人も決してそのように形容することはできない、何か妖気のようなものを身にまとっていることが分かる。しかし私の分析と緊張感とは裏腹に、怪人の口から発せられたのは何とも間の向けた台詞であった。
「いや、儂はこの大学の教職員である」
「私はあんたなんか見たこともない」
「それはそうだ、儂は滅多と大学に来んからの」
仕事しろ、と言いたくなったがやめた。
「滅多と大学に来ない教職員が、なぜ私が思い悩んでいることが分かるのだ」
「蟲の知らせ、かの」
「なんですか、それは」
「まあ、よい。して、何を思い悩む」
「貴方に話してどうこうなる問題でもない」
「ならばなおさらよいではないか、いいから話してみろ」
あまり堂々巡りをしていてはまたいつ木刀が振り下ろされるかわからないので、私はなし崩し的に男の言うとおりにした。文通の始まり、そのとき心に決めたルール、彼女(仮)の流麗な筆跡や知的な文面、そして昨晩のこと。要点を絞って話し、今私が迷い込んでいる臆病大迷宮について説明したのである。その間怪人は黙って聞いてくれていた。
「それで終いか」
「……そうだ」
「して、貴様はどうしたい」
「あの手紙の依頼主を突きとめたい」
「突きとめてどうしたいのだ」
「え」
その時私たちの間を一陣の風が駆け抜けた、気がした。なんだかドラマティックである。
「どう、したい」
男はゆっくりと、私の精神に深く問いかけるように、言った。しかし、私にはその答えがない。
「わからない」
「ふむ……まあ、それも一興」
おもむろに立ち上がったその男は、その場から立ち去ろうとしているように見えた。
「ほんとうに話聞いただけなのか」
「儂は貴様に何かしてやるなどと言ったか」
「言ってはいないが、そんなに偉ぶるのだ、何かしてくれてもよかろう」
本音が出てしまった。
「……仕方あるまい、これも一興。あそこに理学部棟がある」
彼は木刀でその方向を指し示す。
「あそこに男がいるだろう」
見ると確かに男が一人、建物の前で携帯電話をいじくっている。
「あれがどうしたのだ」
「あれに、走って近寄っていけ。そうすればおのずと道は開ける」
そこまで言うと、男は図書館の方へと向かって行こうとする。
「あんた、名前は」
「ふむ、態侘落(ていたらく)先生とでも呼ぶがよい」
「ていたらく……? 私は……」
「言わずともよい、知っておる」
そういうと、態侘落先生は木刀を背中に納めて図書館に入っていった。
「何という怪しい奴。しかし」
なぜか妙に説得力のある男であったことは認めざるを得ない。それはあの瞳に一度対峙してみればわかるだろう。私は先生の言うとおりにしてみることにした。
「どうにでもなれ、だ」


私は件の男めがけて全力で向かって行った。男は全く私に気付いておらず、その距離はずんずん狭まっていく。あと二〇mほどの所で男は私が迫って来ていることに気付いたそぶりを見せた。そして私の顔を見るや否や、ひどく狼狽した様子になり、あと五メートルほどのところで彼は私が迫り来る方向とは逆の方へ駆けだした。つまり、逃げたのである。
「待て、怪しい奴!」
と私は叫んだが、私だって十分怪しい奴である。何しろ突然見ず知らずの相手に向かって全力疾走しているのだから。
 私は男を三〇秒ほど追っていたが、結果的に逃げ切られてしまった。何しろ普段は歩く以上の速度で移動することなどない私だ。一瞬にして肺活量の限界が来てしまったのである。敗北感に苛まれつつもと来た道を戻っていると、道端に何か落ちているのが見えた。なんと、財布である。
「これは神の憐れみか……」
一瞬その慈悲深さにひれ伏しそうになり、落ちていた財布を手に取ったが、たかが神の憐憫などに屈する自分に気付き、その慈悲をこれでもかと地面にたたきつけた。
「私は神などには頼らぬ」
と誰ともなしに弁解するように言って、その場を立ち去ろうとした。が、たたきつけた拍子に飛び出した学生証の顔写真に見おぼえがあった。拾ってみてみると、なんと先ほどの男である。学部も学科も名前も、無論記してある。私はにやりとした。


 男は兵頭茂。理学部理学科の三回生である。私がそれから一週間を通して彼の友人、知人、元恋人、元浮気相手などに聞き込み調査をした結果得た情報は以下のとおりである。
出身は兵庫県神戸市。四歳の頃に初めての恋人ができた。同じ幼稚園の隣の組の女の子(名を奈緒ちゃんという)である。彼らは相当に「オマセ」な幼稚園児で、休み時間になるとデートと称してコンクリート山麓のトンネルの中で二人きりで語り合っていたそうである。それを幼稚園の先生に咎められた二人は、理解を得られない二人の関係を嘆き悲しんで駆け落ちまでしようとしたそうである。ほかの園児が昼寝している隙をついて二人は走った。どこへ、などと言う事は考えなかったと彼は語ったらしい。逃げなければ、という漠然とした使命感に駆られたのである。
昼寝の時間が終わり、先生が二人のいないことに気付いてすぐさま捜索に向かった結果、二人は幼稚園の建物の裏で身を寄せ合って震えていたという。二人の相思相愛に半ば自分に恋人がいないことを責められているような気がして思わず感情的になっていたその先生は、震えながらも自分たちの愛を貫こうとする姿に感動して、それ以来彼らの関係を認めるようになった。
その後兵頭茂が七歳になった頃、その先生にも運命的な伴侶が現れ、彼女は幸せになった。結婚式の写真が手紙とともに彼のもとに送られてきたが、そこには
「茂君と奈緒ちゃんのおかげで私も素直になれ、幸せをつかむことができました。本当にありがとう。」
と記されていた。しかし、元来女癖の悪い兵頭茂はその時すでに奈緒ちゃんと別れ、別の女の子と甘すぎて吐き気がしそうなほどの甘ったるい愛をはぐくんでいたそうである。


 そんな放蕩癖のある兵頭茂も小学校六年の時に叶わぬ恋をした。お相手は三つも上の中学三年生の女の子である。小学校への集団登校中、時折見かけるその見目麗しい姿に少年の心は鷲掴みにされたのだ。しかし相手は中学生、しかもあと一年で卒業してしまう。彼は生れてはじめての道ならぬ恋(彼がそう言ったらしい。使い方は間違っている)に身も心も引き裂かれそうになった。同学年のどんなに可愛い女の子にも全く興味をなくし、ぼんやりとしていることが多くなった。そんな彼を見かねた友人一党が、彼に元気を出させるために連れて行ったのが福岡県北九州市にある某宇宙テーマパークである。
しかし、この涙ぐましい友情が彼の将来にある欠落を招くことになる。彼らは散々に遊び呆けた。3Dのプラネタリウムに感動し、凄まじい頻度で高度の上下するジェットコースターに乗り、脂分の恐ろしく多いファストフードを貪り、添加剤満載の炭酸飲料を飲みまくった。そこまでは十二分に彼も楽しんでいたし、いつもの元気な彼が見られた友人たちもとても楽しかった。そして、一通り遊んだのでそのテーマパークでは有名なプールに行こうということになった。和気あいあいと騒ぎながら彼らはプールに入る。ひとしきりプール内にもあるアトラクションを愉しみ、ビーチボールなどで遊んだ。そうこうしているうちに閉園時間になり、それではそろそろ帰ろうかという段になって、彼らは兵頭茂の姿がないことに気付く。彼はと言えば、その頃一人でウォータースライダーの階段を上っていた。最後にもう一回、と小さくつぶやきながら。彼は自分の思惑通り、最後の一回を滑り降りることができた。
事件が起きたのはそのあとだ。彼がスライダーから飛び出した途端、彼の両足のふくらはぎに激痛が走った。彼は必死に浮かびあがろうとするが脚が言う事を聞かない。ジタバタしているうちに彼は意識を失った。幸いにも彼が溺れていることに気付いた係員が意識を失った彼を救いあげ、適切な措置をとったおかげで命に別条はなかったが、彼はそれから金槌になっただけでなく、洗面台にたまる量以上の水が怖くなってしまった。それ以来浴槽につかったことすらないという。汚い話だ。


 時は過ぎて彼が高校生の時、海にも川にもプールにもいかずに何とか許容量の水との接触だけで過ごしてきた兵頭少年に、再び悲劇が訪れる。彼は中学入学と同時に野球部に入り、元来運動神経のよい彼はメキメキと上達し、中学三年のときにはエースナンバーを背負うまでになっていた。無論彼は高校入学と同時に野球部に入り、悲劇の待ち受ける高校二年生の時にはすでにエースであった。女の子にも当然ちやほやされ、手癖の悪い彼は何人ものうら若き乙女たちに涙を流させていた。ある日彼が家に帰ると、母親がこう言った。
「茂、そこにあるゆで卵、食べちゃってくれる」
「ああ、うん」
と生返事をして部屋に荷物を置き、キッチンへ行くと、そこにはボールに山盛りのゆで卵があった。
「母ちゃん、これ、なに」
「だから、ゆで卵」
「全部?」
「うん、そう」
「えっと、なんで?」
「まちがって買い過ぎちゃってね、たまご。それで」
「ああ、そう……まあ、いいんだけどね」
彼は、(まあこれもタンパク源だし良しとしよう、筋肉もつくだろうし)と自分に言い聞かせて、一つ目をパクリと齧った。半熟でとてもおいしい。
「母ちゃん、美味いよ」
「そりゃあよかった」
彼は二つ目を手に取った。手際良く殻を剥き、先ほどと同様パクリと齧った……つもりだった。しかし、なぜか噛み切れない。そんなことより、触感がおかしい。彼は不審に思ってその噛み切れないたまごから口を離し、手元を見てみた。
 あまりグロテスクな描写をしていたずらに読者諸賢の気分を害するのはやめておこう。しかし、このエピソードが彼の心的外傷になったということをはっきりさせておくためにも、一言だけここに書かせてもらおう。それは、有精卵だった、とだけ。

 そんなこんなで彼は大学生になった。海、川、プールにはいかず、風呂はシャワーだけですませ、生玉子やゆで卵を食すことは固辞してきた彼は、それ以外の部分でたっぷりと遊蕩生活を送っているようである。彼の友人は必ずこう彼を形容した。
「いい奴なんだけどね、女癖がね。いい奴なんだけど」
また元恋人はこう言った。
「あの人は私以外の女の方により多くの金を使っていたわ」
元浮気相手はこう言った。
「いい男なんだけど、夜の方がね、あんまり」
様々の情報を収集した結果、彼を私の思惑通りに動かすために必要なのは、大量の水と卵であることがわかった。私は一度決めたことは最後まで徹底してやり抜く男である。とはいえ、この頃の私は何かに取りつかれているような気すらする。未だかつて私がこれほどまでに活動的であったことがあったであろうか。

 

ともかく、異様なほど私は一生懸命であった。