ひとり部活動記録

文章書いたり、筋トレしたり、自転車漕いだり、山登ったり、基本はひとり。

『岸田アパート物語』2号室

 私が貴重品の移転作業をしながら、昔の甘酸っぱい思い出に鼻先をツンとさせていると、香織嬢がスーパーから帰ってきた。
「お、いいにおいだ」
クンクンと、その端正な鼻先で森野の料理のにおいをかぐと、香織嬢は満足げに郷田の部屋に戻っていった。両手には凄まじい量のアルコールがぶら下がっていることが容易に観察できた。何とも嫌な予感のする光景である。
「おい、郷田、今日は何かしら嫌な予感がする」
「草さん、もうあきらめや」
がっはっは、と豪放に笑う野蛮人を横目に、私は最後の貴重品を運び終えて一息をつく。時刻は午後五時過ぎである。物悲しいほどに淡い夕日が、目の奥の腺に沁み渡るようである。まったくもってこの季節は心に悪い。むやみやたらといろいろなことを思い出させるのは、下衆のすることである。このゲス夕日め。私はなし崩し的に、佳菜子さんとの事を思い出さずにはいられなかった。


「もう一緒にいられるのは、困るのです」
私は確かにそう言った。今では到底信じえない発言だが、それはもはや消しようのない事実である。
 佳菜子さんは、付き合いが長くなるにしたがって、あろうことか私などという人間を崇拝するにいたった。彼女は私のすべてを肯定し、讃美し、許した。始めのうちは、素直なままの感受性を満々とその身にたたえていた私であったから、彼女のその態度を大変ありがたく思った。私の高慢な自尊心がこれ以上ないほどに満たされたのである。
しかし、私の傲岸不遜な自我は、つねにそこに無いものを欲した。彼女が私を肯定するがゆえに、私はその現状に甘んじて、自らを過酷な状況に置くようなことをしなくなっていた。そのことを私は非常な怠慢であるように感じ、その原因が彼女との関係にあるのだと断定したのである。今思えば、そのような状況でも自らを練磨することもできたのだろうが、あの頃の私には到底そこまで思いが及ばなかった。

「貴女といると、私が、駄目になってしまうのです」
私はその時憤然としていた。すべてが彼女との関係が原因であると思い込んでいた故である。身勝手極まりない言動としか言いようがない。弁明のしようもない。すべてを受け入れてくれていた彼女に対して、なんという酷い事を言ったものだろう。思い出すだけで頭を掻きむしりたくなる。
 彼女は、泣いていた。老若男女問わず抱きしめたくなるその女性を、その時の私は冷淡な眼で見ていた。ひとしきり上品なすすり泣きをしたあと、彼女はふっと私の方に向き直った。決心した眼であった。彼女は私をまっすぐに見つめ、しかし震えた声で、
「わかりました、お別れ、ですね……」
と言った。私は、彼女のこの言葉を聞いた途端、はっと我に返る。お別れ、と、ですね、の少しの間隙が、私を無知蒙昧傍若無人の催眠から解放したのだった。しかし私にとって、もはやそれは手遅れでしかなかった。彼女のあの瞳を目の当たりにして、
「今の話をなかったことにしてはくれまいか」
などと無様なことは言えはしない。なによりそのような惨めな私を、彼女がまたあの輝きに満ちた目で尊敬してくれるはずなどありはしないと、そう思った。彼女のその言葉に静かに私がうなずいたのを合図に、私達は別れた。思えばそこは、はじめに彼女が私に声を掛けてくれた図書館の出口の前であった。


「草さん」
家の前でいつのまにか泣き崩れるに至った私の横に、森野が立っていた。
「す、すまない」
自分の醜態を私が必死に隠そうとすると、森野は何も言わずに私の肩に手を置いて、郷田宅に引き入れてくれた。そのせいで、私は余計に無様なことになってしまうのだった。
 しかし、郷田宅に入ると、一瞬にしてそれまでの感興は吹き飛んだ。もうすでに机の上には森野の絶品料理が所狭しと並び立ち、料理の隙間を埋めるように五〇〇ml缶の発泡酒が傲然と立ちはだかっている。そして、そのうちの何本かは既に空である。
「弘毅の野郎、おっせえなあ」
空にした張本人は、香織嬢である。
「香織嬢、もうそんなに飲んだのですか」
「お、おい、草さん、あかん」
私の少し呆れたような指摘に、郷田が忠告を施したのだったが、それは既に遅かった。
「ああ? おい、草人、なんか言ったかあ?」
草人(くさひと)というのは私の本名である。香織嬢は酩酊すると、必ずと言っていいほど私をこう呼ぶ。そして、それは諸々の意味で、もはや手遅れであることを示している。
「いえ、何も言っていません」
「いや、言ったね。おお、言ったね」
目が据わっておられる。
「おい、こら、飲めやー!」
と言って、自分の手に持った発泡酒を差し出す。
「いや、でも、まだ弘毅が来ていませんので」
そういいながら横目で、郷田と森野に助けを求めるが、期待はずれと言おうか期待通りと言おうか、郷田はパソコンでメールチェックをするふりをしているし、森野は食器の準備をしようとしているのだが、どこにあるんだっけな、というしぐさをしている。もはや腹をくくるほかない。
「あたしの酒が、飲めない……飲めないんだあ……そっかあ」
「いえ、滅相もない、飲ませて頂きます」
そう言って、私が香織嬢の方へ歩み寄ろうとするときに、私にとっては運よく、そして彼にとっては運悪く、弘毅が駐輪場に馳せ参じた。香織嬢、もとい酒乱女の興味もそちらに移ったようである。おお、来た来た、と小さな声で満足げに呟いている。そうとも知らずに、弘毅が入ってくる。
「おじゃまします……」
あからさまに元気がない。無理はない、想い人に出撃前迎撃をきっちり決められた直後である。しかし、そのような瑣末な背景など、今の香織嬢の前では風前のマッチ棒である。
「おう、弘毅い、おせえよ」
そう言うなり彼女は立ち上がり、弘毅の口に先刻の缶の注ぎ口を押しつけた。あ、あば、という声にならない声を漏らしたが、なんの甲斐もなく、ほとんど中身が入っていたらしい五〇〇ml缶は見事に空になった。
「なんてことするんですか、香織さん」
と言いたかったのだろうが、可哀そうに、もともとアルコール分解酵素が脆弱な弘毅の舌は、もはやその主のいうことを聞いていなかった。しかし、そんな恋の敗残者の意向など歯牙にもかけず、その胸倉を引き摺って、香織嬢は無理矢理席に着かせた。
「よし、みんな、乾杯だあ」
という女王の掛け声とともに、今まで知らぬふりをしていた郷田・森野の両氏も缶をもち、アルコールを身に浸したのであった。


 その後のことはもはや多くは語るまい。弘毅の話を聞きたいという香織嬢の願望は果たされず、弘毅の苦い恋はまたしても便器に流された。それだけである。

 

一二月四日.


「ジャガイモが、食べたいです」
そう一言、彼女は言った。彼女とはかつて弘毅が恋した、奇妙な絵を描く美少女である。その名を里美ちゃんといった。


 それは、ある日いつものように郷田の所属する学生団体の面々を集めて飲み会をしていた時である。例のごとく奇奇怪怪の儀式を淡々とこなしていた彼女が、ふとそうつぶやいた。その日は別段ジャガイモ料理が出たわけではないし、あるいは全世界的にジャガイモの生産量が急減したせいでジャガイモの価格が目をむくほど高騰していたわけでもない。あるいは我々がジャガイモについて侃々諤々の議論をしていたわけでもなかった。
かくしてその場を大きな疑問符が包み込む。あまりにもピタリとその場の空気が止まってしまったので、この状況いかにせん、と居合わせた者たちが思考をフルスピードで回転させていた。とはいっても全員が全員、酒にとっぷり浸っている。そのためいくら思考をフル回転させようとも、そのスピードは初期のマック並であったことは注記しておきたい。その証拠に我々が導き出した答えは
「じゃあ、ジャガイモパーティーをしよう」
という滑稽至極なものだった。なんと里美ちゃんの突発的な要望をすっぽり鵜呑みにしてしまったのだ。そこに追い打ちをかけるように酔いに酔った郷田が、
「ほんなら、ジャガイモしか食ったらあかんってことにしようや」
などという意味不明の提案する。さらにそれをその場にいた者たちは思案するまもなく承認した。血迷っていたとしかいうほかあるまい。なぜなら常日頃から頭脳明晰沈着冷静で高名な私ですらが、諸手を挙げてジャガイモンリーパーティーに賛同したからである。もはやだれがその決定に冷静な判断能力を発揮できたろう、誰もできはしなかった。だから、誰を責めることはできない。


 その結果が今の私である。買い出し担当を自ら任じたらしく(らしく、の意味は推して測るべし)、しぶしぶ野菜の安いスーパーにはるばる自転車で一〇分かけて出かけてきたのだ。
「そもそも、何人来るかもわからぬのにどうやって買い出ししろというのか」
とため息交じりに不平を言いながら、私はただジャガイモだけをかごに入れ、カートでレジまで運んでいた。
(さて、どのレジに行こうか)
と視線を上げたと同時に、私は心臓がパチンッとはじけてしまうかと思った。その視線の先には佳菜子さんがいたのである。彼女はあの頃よりも髪を短くしており、肩より少し長かった美しい黒髪は、耳より少し長い程度にまで切り落とされている。若葉色のワンピースを素晴らしく着こなした彼女は、レジ横のキシリトール入りガムを買おうか買うまいかと考え込んでいた。


 佳菜子さんは、いつもそうだった。私に何か食事を拵えてくれるといって買い物に行くのだが、いつもレジ横の商品を欲しくもないのに買ってきてしまうのである。
「なんだか、買ってくれよーって、彼が言っているような気がするのです」
と言い訳するのも、いつものことだった。そして、あの頃と同じように、かごの中身が次々とレジを通っていくのをちらちらと気にしながら、その中身があと一つになると、ギュッと目をつぶったのち決心したような眼になって、キシリトール入りのガムを買い物かごに加えた。
 その一部始終を見終わってから、自分がこんなところで立ち往生していることの危険性に気付き、あわてて私は棚の影に隠れた。何がどのように危険なのかは判然としないが、人間は時にそういった理屈を超えた原理で動くものである。したがって根拠があいまいであろうと、その行動が正当化されないとは限らない。
 店内をうろついて、万が一彼女とぶつかりでもしたらコトなので、私はその影から彼女の一挙手一投足を観察し、自分の存在が彼女に露呈しないように厳重な注意を払った。その甲斐あってか、佳菜子さんは私との予期せぬ遭遇に見舞われることなく店の外に出た。ほっとした私は、ようやく安心してレジ袋三つ分のジャガイモを購入することに成功したのである。


 ジャガイモだけを食うというと、おのずとその料理の種類は減ってしまう。フライドポテト、ポテトチップス、マッシュポテト、私が今すぐに思いつくジャガイモだけの料理などこれぐらいしかない。まことに無茶な思いつきであるといえよう。それにこんな量のジャガイモを食べたら壮絶な量のでんぷん質を摂取することになる。ひょっとすると、この阿呆なパーティーが終わったころに私達の体にヨウ素液を垂らせば、肌が青紫色になるのではあるまいか。私の手にずっしりとぶら下がっている芋は、それほどの量なのである。
「おい郷田、買ってきたぞ」
大きな音を立てて、私がジャガイモを郷田宅の床に置いた。
「お、おお! さすが草さん、徹底した量やな」
「当然だ、私は中途半端という言葉がこの世で一番嫌いなのだ」
もし、中途半端なことをするならば、徹底的に中途半端にするつもりである。それでこそ私である。
「森野!」
郷田がその寝床に仰臥したまま森野を呼んだ。無論、隣の家にいる森野である。
「はーい!」
岸田の壁の薄さをもってのみ実現できるコミュニケーションであろう。プライベートもくそもあったものではない。ここではそのような概念は成立させようと思っても、土台を作るそばからこの郷田という男がその巨躯を駆使した体当たりで根こそぎ崩壊させにかかるだろう。
「おお草さん、買ったなあ」
郷田に呼ばれて、森野がこちらの部屋にやってきた。
「買ったのはいいが、問題はここから先だぞ」
「大丈夫、名案があるんや」
親指を立てて森野が断言した。この男にこれほどまでに言わしめる名案とはさも何ぞや、となんだかわくわくするほど安心感のある宣言であった。
「よし、なら任せる」
「はいよ」
そう気持ちのいい返事をして、森野はジャガイモを抱えて自室に運んで行った。頼もしいことこの上ない背中である。


 よっこいしょ、と立ち上がった郷田が、
「ほんなら、俺らは酒を買いに行くか」
「そうだな。しかしジャガイモにあう酒とは何ぞや」
「ビールやったら、なんでも合うやろ」
「ビールは強し」
ぶらりぶらりと歩きながら、スーパーに向かっていると、郷田がそのスチールウールを思わせるもじゃもじゃ頭を掻きながら、
「最近、どんなこと考えてんの」
と言った。
「急にどうした」
「ええから、ええから」
「むう、そうだな……卒業論文はひと段落ついた。最近は休憩がてら、哲学の勉強を再開させた」
「哲学が休憩とは、さすが草さんやなあ」
がっはっは、と豪快に郷田が笑う。
「あの学問は深みにはまりさえしなければ、楽な学問だ。同時に、深みにはまらなければ、何一つ新しいものは得られない学問でもある。だから休憩なのだ」
「なるほどなあ、深みになあ」
と、この男には珍しい煮えきらない返答だ。こういう時のこの男は何か別に聞きたいことか、言いたいことがある。
 スーパーに着いても郷田が何も言わないので、発泡酒の六本入りのケースを入れているときに、私から問うことにした。
「なんだ、なにか言いたいことでもあるのか」
「え? なんでわかったん」
「貴様のような野蛮人の考えていることぐらい、わからないでどうする」
少しの沈黙のあと、彼は言った。
「むう。最近の草さん、またあのコのこと考えとるやろ」
この男、見かけによらず感情の機微にめざといからかなわない。
「別段、そんなことはない」
「なんでそんな見栄張るんや。なあ、おもいだしとるんやろ」
と少し考え込んで、私は言い逃れをすることにした。
「記憶を呼び戻すのは人間の自然な営為である。確かに私は人間離れした知性の持ち主ではあるが、残念ながらいまだ一人の人間にすぎない。しからば少し昔のことを思い出したところで珍しいことではない」
「別に、悩んでるってことやないんやな」
「当然だ。私がそんな昔のことを引きずるような男に見えるか」
その質問の返答はなかった。われわれの買い物かごがレジを通る順番になったからである。


 実際私は佳菜子さんのことは引きずってなどいなかった。しかしそれは今日ジャガイモを買うまでのことである。あの頃と同じようにレジ前で悩む彼女を見て、自分が幸せだったころの事を思い出した。ガムを買う時に見せた決心の眼が、最後に二人が視線を交わし合った時のことを思い出させた。ジャガイモを買って店を出る頃には、抑え込んでいた諸々の過去が意識の上に怒涛のように流れ込み、油断をすれば慟哭してしまいかねぬほどの精神状況に追い込まれていた。
 しかしなんとか岸田に到着するまでには持ち直し、平静を保っていたのだ。そう考えていたにもかかわらず、この心優しい野蛮人に本心を見破られてしまった。正直、気が動転していた。幸い問い詰められることはなかったために、醜態をさらすことは免れたものの、郷田にはすべてが了解できたことだろう。それがとてつもなく恥ずかしく、しかしなぜか嬉しくもあった。人間は矛盾する生き物なのである。
「帰ったぞー」
私は複雑な心情を振り払うかのように大声で帰宅を告げた。そのまま酒を郷田宅に置き、森野宅へと入る。その途端ジャガイモのやわらかい薫りが鼻を撫ぜた。


 さすがに岸田の料理長である。あまりの美味しさに舌が弛緩しきってしまうようなものが今、あの厨房で練成されているに違いあるまい。
「おかえり。草さん、俺天才かも知らんわ」
「天才は私一人で十分だ」
「何を言うとんねん。ええからこっち」
と、私の冗談をマタドールのように鮮やかにかわし、彼は手招きした。
「調味料とか牛乳とか、粉末、液体のもんは加えたけど、それでもジャガイモだけでこんなにいろんなもんできるんやな。俺も自分で感動やわ」
そこには、私が想起した料理のほかに、じゃがバター、ポテトグラタン、こふきいも、コロッケなど、めくるめくポテトのエデンが発現している。
「しかたない、天才の座はお前に譲ろう」
フハハハハ、となんだか素敵な笑い声をあげて、森野は調理器具の片づけをし始めた。それを見て、私はすかさず森野の手からスポンジを取り上げた。
「私がやる。何から何までやらせては申し訳ない」
「お、そうか。ほな頼むわ」
うむ、と威厳に満ちた返事をして、私は洗い物を請け負った。
「よっしゃ、そしたら俺はゲームでもしてよ」
そう言って、彼は素敵な地上デジタル放送対応のテレビの前に、どっかと座る。私の家にはテレビデオと言われる過去の遺物のようなブラウン管テレビジョンしかないし、郷田の家に至ってはテレビがない。それに比べて、森野のそれは液晶画面である。番組表がテレビ画面上で見られた時には私と郷田は歓声を上げた。文明の進歩は偉大である。
「最近は何のゲームをしているんだ?」
洗い物をしながら問いかけた。
「今はな、『さいごの一歩』をやっとる。格ゲー。」
「週刊誌で連載している漫画のゲーム版か」
「そうそう。なかなかマニアックやねんで」


この森野という男、スポーツマンにもかかわらず、基本的に部活以外はテレビを見ているかゲームをしているかという、無類のインドア派である。昼食はたいてい近くの野山で済ますという郷田とは対極にあると言えるだろう。
 彼のテレビの趣味は、バラエティを中心としてその周りをスポーツ番組とアイドル番組が取り巻いている。ここでは彼のゲームの趣味について少しく話すことにしよう。「なかなかマニアック」と先ほど彼が口にしたが、彼がここまで言うとは、もはや常人には想像だにできぬほどのマニア性であると言える。それほどまでに彼のゲームの指向はマニアックである。
 かつてインターネットショッピングサイト「アマゾネス」で私が誤って購入したいわゆる「くそゲー」があった。私はせっかく買ったのだし、一応やってみようと考え、はじめは自分の家で一人でやってみた。しかしながら、開始二時間にしてくじけそうになってしまう。バグのせいなのかどうかは知らないが、最後までクリアしないとセーブできないという天上天下唯我独尊システムに憎々しげに従って、その二時間の努力を水泡に帰せしめ、森野家において再チャレンジを試みたのである。しかし森野の協力のもと、数時間ねばったのだが結局私は堪えられなかった。あんなにストーリーが進まないのは苦痛にもほどがある。
「もう、駄目だ」
と私があきらめて、コントローラを投げだす頃に、郷田が山から帰ってきた。
「どうした、草さん」
文字通りの山男は、私が事情を話してやると、
「俺がやったる」
と意気込んだ。
「お前には無理だ、やめておけ」
というのだが、思いのほかプライドの高いこの野人は、それでますます火がついて意気込む。
「ええから、ええから」
私が初めの時点で郷田を止めたのは、何も彼よりも私が劣っていることが露呈するのを恐れたためでも、彼を過小評価しているためでもない。彼は本当にこういった根気のいるゲームには向いていないのだ。『みんなのゴーフル』(みんなでゴーフルという洋菓子を作るゲーム。無論、対戦ゲームである)というような、全年齢対応式のものぐらいがやっとなのである。『デブ メイ クライ』というメガヒットしたアクションゲームでさえ、彼の根気が切れる前にエンディングを用意することはできなかった。そんな彼が、そのくそゲーができるとは到底思えなかったのである。案の定、彼は開始二〇分でゲームオーバーになり、コントローラを投げた。
「こんなゲーム、つまらん」
と若干不機嫌になって、それ以降は森野家にある『さいごの一歩』の単行本を読み始めた。
 ここで登場するのが森野である。彼は人が「つまらない」といってあきらめたゲームをクリアすることを至上の喜びとする男で、彼の家にあるゲームのうち、「みんなの」シリーズ以外はすべてくそゲーであるといってよい。彼は「オラ、ワクワクすっぞ」と言い出しかねない様子でコントローラを握った。彼のそこからの偉業は、もはや筆舌に尽くしがたい。尽くしがたいので、書くのはやめておこう。


 そんな彼のいう「なかなかマニアック」である。さぞかし頭を悩ますほどのクソ具合なのだろう。
「かんじざいぼさつぎょうじんはんにゃはらみったじ」
と私は怨霊を払うように唱え、食器洗いに集中することにした。
 それから一時間ほどして、香織さん、弘毅、里美ちゃんが来て、それに加えて一年生のバーバラと卓がやってきた。総勢八名のジャガイモパーティーの幕開けである。森野の作ったものは全てが全て絶品ぞろいであった。実家では食べたことのないジャガイモオンリー料理であったにもかかわらず、みな口をそろえて、
「お母さんの味がする」
と呟いた。私などは心臓までが弛緩して、危うく心不全になるほどほっとした。森野は相変わらず適当に作ったと言っていたが、いつかその秘密を暴いてやりたい。適当に作ってこの味が出ては、プロの料理人は商売あがったりだろう。


 この日来ていた一年生のバーバラは、その名前にもかかわらず正真正銘の日本人である。しかし、何を血迷ったのか、いやむしろ冷静だった方がまずいかもしれぬが、彼女の両親は名字との語呂がいいからという理由でこの名をつけたらしい。確かに語呂はいい。しかし私はその挿話を聞いた瞬間、バーバラの両親に名前とは語呂ばかりが重要ではないということをこんこんと聴かせる必要があるだろうと判断した。しかし幸いにも彼らはバーバラの二年後に妹が生まれた時には、そのことに気付いていたようである。妹の名は妙子という。
 もう一人の卓は、絶妙の緩さで岸田の女子たちをメロメロにしている「素敵な男の子」である。香織嬢などは卓が何かするたびに、
「可愛い! 卓、可愛いよ!」
を連呼するし、酔っぱらっているときにはあわや接吻なるかという程近距離で可愛がっている。それを郷田はあまり面白く思っておらぬらしく、卓が来ると香織嬢を自分の隣から極力移動させぬようにして、卓の毒牙に(本当は主客が逆なのだが、郷田にはこう見えるらしい)香織嬢がかからぬように画策している。しかしながら、当の卓は女性にはあまり興味がないらしく、香織嬢の大人の女の魅力にも屈せずに、
「こ、困りますよお」
とちっとも嬉しそうでない顔で言っている。私が同じ状況で同じことを口にすればどうしたってニヤけてしまう。強靭な精神の持ち主であると、心から讃えざるを得ない。


 里美ちゃんはと言えば、珍しく儀式をせずに黙々と森野の料理を食べている。
「里美ちゃんは、そんなにジャガイモが好きなのか」
「はい、ジャガイモ食べると胸がほくほくします」
「しかしジャガイモだけというのはどうなんだ」
「その点に関しては私も同感です」
と、彼女は笑顔で言い放った。普通の後輩が言うと郷田に対する爆弾発言である。しかし彼女の笑顔は、周囲の男を一瞬にして懐柔する。郷田は彼女を「そんなに可愛くない」と言い張るが、たとえ山男といえども運動部である森野も含めた四人の男手を相手に怒り狂うわけにもいくまい。いくら郷田が腹を立てても、彼女の笑顔の前では無力である。

それに彼女の発言は至極真っ当だ。他の食材も解禁していれば、もっと多くのそして美味いジャガイモ料理が食えたに違いない。酔った勢いとは言え、許しがたい独断と言えるだろう。むう、とうなりながら、郷田は酒をあおった。