ひとり部活動記録

文章書いたり、筋トレしたり、自転車漕いだり、山登ったり、基本はひとり。

『岸田アパート物語』9号室

私は無性に腹が立ち、そのあとカツカレーのLをたいらげた。途中喉に詰まって死にそうになったが、こんなところで死んでなるものかと水で流しこみ、再びかきこんだ。それでもまだ屹立した腹がおさまらない。私は肩を怒らせて食堂を出る。


 食堂のある建物の前では、真冬だというのにダンスサークルの学生たちが熱心に練習をしている。年長者らしき男が後輩に指導しているところも見える。なんと大学生らしい光景であろうか。
「私にも、あんな未来があったのだろうか」
ポツリ呟くと、私の口から出た白い息が冬の空気に溶けていった。
 私は部屋着のモコモコした服を脱ぎ捨て、上下ジャージに着替える。当然防寒のための股引を脱いでいる。そしていつもの革靴ではなくスニーカーを履く。散歩に行くのである。とりあえず、先生の言うとおりにしてみようと考えたのだ。
「少し寒いが、仕方あるまい」
自らを鼓舞するようにそうつぶやいて、私は家を出た。今日の空は快晴で、満天の星空である。家の前の道を南の方に下ると最寄りのスーパーマーケットのある通りに出る。そこは価格帯が高いので近頃はあまり利用することはなくなったが、どこの店が安いだの高いだのをまだ知らぬ時には近いからという理由でよく利用していた。そういえば、はじめて自炊をした時の材料を購入したのもこの店であった。買ったものは豚バラ肉、それだけである。醤油で焼いて、米と一緒に食った時、その味気なさに思わず涙を流しそうになったのを覚えている。一人で食う飯ほど、まずいものはない。


 そのスーパーの通りを北東へ向かう。私のいつもの散歩道である。一年の頃から変わっていない。
 しばらく歩いていると、田んぼが見えてくる。今は冬であるから干からびているが、夏の頃にここを歩けば満々と水がたたえられており、やかましいほどにアマガエルが大合唱を聴かせてくれる。小難しい哲学の本に疲れた時も、桃色のキャンパスライフを望む堕落した心が頭をもたげた時も、淡い恋心を抱いた女性の事を考える時も、ここを通ったものである。いつでもアマガエルたちは私の心をいたわってくれていた。卒業してしまえば、この道を歩くことももうないかもしれない。私が去っても彼らは歌い続けるだろう。なんだかそれも少しさびしい気がする。
 その道をしばらくいくと、大きい交差点に出る。そこを右に曲がると、公立の高校がある。その前をまた道なりに歩いていく。私がぼんやりと遠くを見ながら歩いていると、
「まあ、あいつも頑張ってるんだし」
という声が聞こえた。
「でもさ、そのレベルが低いんだって」
「そうなんだけどさ……」
自分のことを言われたような気がした、というわけでは断じてない。断じてないが、私は彼らが話している人物よ頑張れ、とひそかにエールを送った。
 思えば高校時代も、私は自分の生き方というようなものをしっかりと立てることができなかった。とにかく自分のペースが乱されることを嫌っていたため、何とか人との接触を避けられないかと試行錯誤を繰り返したものである。私とて始めからそうであったわけではない。しかし私なりの尽力の結果、中学同様私には人とともに何かをするということは向いていないことがわかったのだ。
私が何か言うと場が白け、どれだけクラスの人気者たちによって場が盛り上がっていてもいっきに平らに均してしまうのである。それを繰り返しているうちに私は徐々に話すことをやめ、休憩時間も寝たふりをし、放課後も人の視線を避けるようにしてそそくさと帰宅した。……大学になってもそれはあまり変わらなかった。


 やむにやまれぬ気持ちになった私は、走り出したくなった。なったので走り出した。高校の隣にある携帯電話の販売店を駆け抜け、スーパー、スーパーの駐車場、寂れたカフェ、うどん屋まで駆け抜けた。大した距離でもないのに私の肺は自らの限界を訴えかけていた。
「負けてなるものかあ!」
私はさらに地面を蹴る。その時である。横の店から女が飛び出してきて私の横っ腹に激突した。ただでさえよろめいている私はその拍子に転んでしまい、私に突っ込んできた女もろともアスファルトの上に倒れこんだのである。
「ちょっと、なにをするのですか」
私が咎めるように言った言葉は女を追って出てきた男の台詞で見事にスルーされてしまう。
「逃げる気か」
「うるさいわね、あんたみたいな男、もううんざりなのよ」
「このアマっ」
男が女の髪の毛を引っ張ろうとする。私は無意識の間に二人の間に割って入っていた。
「なんだ、あんた! 部外者は立ち入らないでくれるか」
巻き込んだの貴様らだ、このたわけ。と言いたかったのだが、自分でもなぜそこに割って入ったのかが分からないのだから困る。ぎゃあぎゃあと耳元で喚く二人の声のせいで、私の頭はどんどんぼんやりしてきた。いくらかして、私はあきらめたように言った。
「喧嘩する相手がいるだけで、十分だろう」
そんなことを思ったことなどなかった。喧嘩など、すればするほどむやみに体力と精神力を摩耗し、結果がどうなったところで得る所など何もない、そう思っている筈である。私は突然に元気を失った私を不審そうに見る二人を置いて、散歩の続きに戻った。妙なことを言った自分を早く隠したいと感じたのだ。


 夜の町にはいろいろな人間がいる。昼間は太陽に照らされて見えない顔も、星明りの下では皆気兼ねなくその千変万化の表情をあからさまにするのである。酒を飲み、声を張りあげ、大いに笑い、大いに泣き、時には愛を語らう事もあるだろう。そういった人間らしい一切が夜には跳梁跋扈する。私はその飛び跳ねる表情をしり目に、とぼとぼと一人歩いていた。寂しいのは、少しだけである。泣き崩れる男とその背中を必死の様子で撫でながら、大丈夫です大丈夫です、としきりに語りかけている後輩らしき女の子のいる居酒屋の前を通り過ぎ、私の足はレンタルショップ「タツヤ」にさしかかった。私はふと思い立って、店内に入った。
 この店はDVDやCDのレンタル・販売業務もしながら、店の半分ほどの床面積を使って書籍の販売もしている。私の住む町は所謂郊外であり、あまり大きな書店などがないため、本を買うという時はこの店に来ることが多い。故に大学生との遭遇率も極めて高いが、知り合いの極めてすくない私にはその点は関係がない。私は一通り週刊誌などに目を通した後、文芸誌を見るためにそのコーナーへと向かった。私がいつも目を通している雑誌が一見して見当たらないので、棚の下などに隠れてはいまいかとしゃがんで覗いてみる。少しずつ移動しながら探していると、ようやく一冊だけ隠れていたのでとりだして開く。
「草人さん」
私はその声、いや音色を聴いた瞬間にその主が誰なのかを直感した。どうしてこんなことになったのかと考えたが、考えるまでもなく態侘落先生の進言が原因である。あの男はいったい何者なのか。そのような内的葛藤を必死になって隠ぺいしつつ、私はぎこちない動きで首を彼女の方に回し、
「やあ」
と声を裏返らせて挨拶をした。


「相変わらず、本をお読みになるのですね。すばらしいです」
彼女はそう言って、ほほ笑んだ。
「う、うん。私にはこれがないとだめですから」
「私も近頃本を読みます」
彼女はそう言って、私たちのいるコーナーの後ろに置かれているベンチに腰掛けた。この店は本屋にもかかわらず、ゆっくりと読んでくれと言わんばかりにベンチを置いているのである。そのベンチに座った彼女は私にもそこに座るように促しているようにも見える。私は逃げ出したい気持ちで一杯だったが、彼女は私の服装から今私が暇にあかした散歩中であることを理解している筈である。何度か一緒に歩いたこともある。言い逃れるすべは断たれている。私は彼女の隣に腰かけた。
「どんなものを読んでいるのですか」
「このあいだは、荷風の『つゆのあとさき』を読みました」
「ほう、それは素晴らしい。あの作品は私も大好きです」
「そうなのですか? 嬉しい」
彼女は胸の前に手を合わせて、素晴らしい笑顔でそう言った。
「恥ずかしながら、最近文通というものを始めまして。お相手の方からすすめて頂いて読んだのです」
私はそれを聞いて、心の臓が停まるかと思われた。文通相手にすすめられて『つゆのあとさき』を読んだ……私は同じことを私の文通相手にしたことがある。
「そ、そうなのですか。お相手はどんな方なのですか」
「それが、お名前などは分からないのですが、草人さんと同じでとても博識でいらっしゃるようです。いろんなご本をすすめていただいて、とても勉強させていただいています」
それは私ではないですか、と言おうかとも思ったが、そんなことは私にはできなかった。もし、それが私ではなかったらとんだ赤っ恥である。
「そうなのですか。そんなに博識な方だったら私も一度文通してみたいものですね」
「草人さんとあの方ならとても有意義なお手紙のやり取りになるでしょうね。私のような不勉強な人間ではつまらない思いをしていらっしゃるかも知れません」
「い、いえっ。そんなことはありませんよ、大変有意義です」
私は思わず声が大きくなってしまう。
「そうでしょうか……」
すこし目を伏せた彼女の頬に影が落ちる。
「ところで、草人さんは近頃何をなさっているのですか。全くお会いできていなくて残念です」
「江戸の禁書や狂歌・狂詩についての文献を読んでいます。あの辺りになぜかとても惹かれて」
「お変わりなく勉強熱心なのですね、草人さんは。私も頑張らなくては」
彼女はそう言うと、しばらく考え込んだ様子を見せて、そのあとギュッと目をつむった。
「よし、決めました」
「え、何を」
「先ほどから買うかどうか迷っていた本があったのです。少しお値段が高かったので……けれど草人さんと話していて決心がつきました。買います」
「そ、そうですか」
私が彼女の「決心の目」に少したじろいでいると、突然彼女は私の服の袖をつかんだ。
「ど、どうしましたか」
「草人さんもついて来てください」
「え」
彼女は私の袖を引きながら、ずんずんと店内を歩いていく。何度もその本の棚の前に行ったのだろう、足取りにまったく迷いがない。……彼女は私に「お変わりない」と言ってくれた。しかし、彼女だって何も変わっていない。


 私たちがまだ、恋人という肩書をお互いに持っていた頃である。私の家で二人で本を読んでいた。私の家にはせまいながらに三人がけのソファがあり、私たちはそれに座っていたのだが、隣の彼女が唐突に読んでいた本を置いて立ち上がったのである。私が驚いて本から彼女に視線を移すと、彼女の視線は下を向いていた。
「どうかしましたか」
「……」
私の質問にも答えはなく、彼女はしばし沈黙し、
「決めました、草人さんもついて来てください」
と言って事態の説明を求める私に、
「いいから、ついて来てください」
と日頃は見せない強引さで、私を無理やり引っ張りだし、近くの洋服屋に引っ張り込んだのである。そして今のように迷いの一切ない足取りで目的の品のある所まで行き、真っ直ぐレジに向かったのであった。そのようなことが私たちの短い交際期間の中でも三度ほどあった。


 彼女は近頃話題になっている哲学の本をその書棚から手に取り、あの頃と同じように私には有無をも言わせぬ勢いでレジに直行した。彼女は会計の間も私の袖を離さないために、片手で会計を済ませたので、少し手間取ってしまったが、彼女は無事目的の本を買う事が出来た。私たちはレジを済ませた流れで、出口に向かった。彼女はその段になってようやく私の袖をずっと握っていたことに気付き、
「すみません」
と小さく謝った。彼女の頬が赤く染まっているのを見た私も、少し顔がほてるのを感じた。
「今日はありがとうございました。とても楽しかったですし、この本も買う事が出来ました」
彼女は微笑む。私には彼女に一つだけ確かめておきたいことがある。
「あの」
「はい」
「先ほど言っていたお相手からの手紙は、どのように手に入れるのですか」
妙な質問である。私の頭には段ボール箱があった。しかし、彼女はどうしてそんな質問を私がするのかわからないと言った様子で、
「どのように? 郵便桶に届くのですよ。はじめに『文通をしませんか』というお手紙を郵便桶に見つけた時は少し怖いような気がしましたが、今は先ほど言ったようにとても勉強させていただいているので、あの時返事を書いて本当によかったと思っています」


私の心は打ちのめされていた。何もかもが偶然の一致であったのだ。なにもかもが私の思い違いであったのである。私はタツヤに入ってからの数時間で、最高潮の喜びからどん底の絶望までをたっぷり味わった。
「そうなのですか。私も帰ったらそのような手紙が郵便桶に入っていないかな」
と意味のない私の冗談をもって、私たちはそこで別れた。彼女は自転車に乗って帰っていった。私はと言えば、また一人、歩く。
 帰る道うつむいて歩いていると、自分の影の周りの光が青白いことに気付いた。ふと空を見ると月が煌々とその優しい光を投げかけている。私が立ち止まってその光を浴びていると、空から白いものが落ちてきた。無論、雪である。私はまた静かに歩きだし、家路を急いだ。


 家の近くの居酒屋では、今夜もどこかの学生が騒いでいる。

 


一月一七日.


 私が次の日の朝目を覚ますと、世界はぐわんぐわんと揺れていた。幼少の頃体験した阪神淡路大震災の比ではない。何しろ縦揺れ横揺れ斜め揺れ、世界はぐるぐる回っている。エライことになったとあわてて立ち上がると、足がもつれてその場に倒れてしまった。どういうことだ、いよいよ南海大地震かと大変あわてたが、なんのことはない。私は高熱を出していたのである。体が尋常ではなく熱い。
「体温計……どこにしまったか」
私はどちらかというとあまり病気をしない方である。世の中にインフルエンザなどが蔓延していたとしても、ケロリとしている。手をアルコールで消毒しろ、などという忠告には一顧だにしない。愚か者め、アルコールは飲むものである。大学四年間でも数えるほどしか体調を崩していない。たとえ崩しても金曜の夜から日曜の夜までの間に発病から全治までを終えてしまう。この体のおかげで授業を病欠したことは一度もない。
 しかし、それがゆえに直近の病気が一年以上前などというのはざらにある話である。よって体温計や風邪薬などの置き場所を毎回思い出せない。ただでさえ昔のことで思い出せないところに、今のように高熱が出ている場合は思いだせる可能性が限りなくゼロになる。私は地面に倒れてそのまま仰向けになると、とりあえずベッドに戻ることにした。熱が何度かわかったところで体が楽になるわけでもあるまい。這いつくばるようにしてなんとか布団の上に戻ることができた。


 記憶に残るうちで、私がこの下宿に来てから熱を出すのは三度目である。その都度思う事だが、一人暮らしで病床に伏すことほど孤独感に苛まれることはない。熱のせいで頭がぼんやりするし、視界は目を開いていようがいまいがぐらぐらと揺れる。体全体が重い。寝床から起き上がることはなるべくしたくない。しかし、起き上がらなければ水も飲めねば雑炊も食えない。ならば起き上がるほかはないが、まだ起き上がれるうちはよい。体内からの熱が体にまとわりつくように上がり、立ち上がることすらかなわない時、私はいつもこう思う。
「ああ、私はこのまま一人死んで行くのだろうか」
大げさな言い方であると思うかもしれないが、心の底からこう思わずにはいられないのである。喉が渇き、腹も減り、水や雑炊は欲しい。しかし、立ち上がれない。ましてや米を炊き、だしをとり、雑炊を拵えるなどということは話にすらならない。寝床でどんどん重みを増す体に縛られて、益々喉は渇き、益々腹は減る。そうしている間に水分や糖分の欠如のせいか徐々に思考が働かなくなる。起き上がろうという気すら失せてくる。何かあきらめに近いものすら、抱いてしまう。
 またあの孤独感と戦わねばならないのか、と思うと余計に熱が上がりそうだ。私は妙な考えを抱く前に眠ってしまう事にした。


 私が窓から外を伺うと、向かいの民家の影に、あるいは家の前の通り沿いにある自動販売機の影に、黒いスーツに黒のネクタイ、黒のサングラスにスキンヘッドという一様な風貌をした男たちがこちらの様子を探っているのが分かる。どうやら既に取り囲まれているようだ。
「万事休すか……」
私は誰にともなく呟いた。そうでもしなければ、その危機的状況に置いて自分を保っていられないような気がしたのだ。ふっと息を吐いた私はおもむろに洗濯用の竿を取り出し、部屋の東側と南側にあるカーテンレールに載せ、手早く洗濯物を干しにかかった。男たちが踏み込んできてもそれで身を隠すためである。私が最後のシャツを干し終わった頃に、扉がノックされる音がした。
「すみません、書留です」
郵便屋を装っていることは明らかである。私は洗濯物の奥で息をこらした。
「すみません、お留守ですか」
その声がしてしばらくの沈黙のあと、突然凄まじい音がしたかと思うと男たちはドアを蹴破って入ってきた。
「ここにいるのは間違いない、虱潰しに探せ!」
リーダーらしき男が叫ぶ。私はますます洗濯物の幕の奥で小さくなる。
 しかし、男たちの中の一人が私を発見した。まさか発見されるとは思っておらず、私は動揺を隠しきれなかった。
「ようやく捕まえましたよ、全くてこずらせてくれる」
リーダーらしき男が私に近づき、私の顔を覗きこむ。
「私を、どうする気だ」
「そんなこと、教えてあげやしません。お楽しみにしておいて下さい」
「むう……ふざけるな。私が何をしたというのだ」
私のその言葉に、男の口角はいやらしいほどに上がる。
「自分の胸にお聞きなさい。おわかりのはずですよ」
「くたばれっ」
男とそのようなやり取りをしていると、なにやら玄関口が騒がしい。それに気付いた頃には佳菜子さんが私のそばにいた。
「これで応戦してください。私は窓から逃げます」
そういって彼女は私に何かを手渡すと窓から飛び降りて、どこへともなく走り去っていった。
「ちっ、邪魔が入りましたか。しかし、あなたは逃げられませんよ」
男は懐から黒光りするピストルを取り出す。銃口が私に向けられる。私はあわててついさっき佳菜子さんから渡されたものを確認したが、それは奇妙なことにベイゴマである。
「そんなもので、どうやってやりあおうというのですか。あなた、馬鹿ですか」
「馬鹿は私ではないっ」
しかし、佳菜子さんを貶めるわけにはいかない。彼女は命を賭して私を助けにきてくれたのだ。なんとしてもこのベイゴマを役立てねばならぬ。


「馬鹿は貴様だ、これはこうして使うのだ!」