ひとり部活動記録

文章書いたり、筋トレしたり、自転車漕いだり、山登ったり、基本はひとり。

「謝る」はとても難しい。

僕は最近謝れるようになった。というのも、僕はついこの間までろくに謝ることができなかった。本当に悪いと思っていなければ、謝ってはいけないと思っていたからだ。

こういうと「悪いと思っていないのに謝るなんて不誠実だ」と言われるかもしれない。その通り、多分不誠実だ。しかし場合によっては「悪いと思わないと謝らない」という姿勢は、それよりも不誠実だと考えている。

例えば恋人と喧嘩をしたとする。理由はなんでもいい。おならが臭いとか、夜中に歯ぎしりをするとか、浮気とか不倫とか、ほんとなんでもいい。そして「あなたが悪い。謝って」と言われたとする。しかしおならが臭いのは恋人が毎晩食事にニンニクを使うせいかもしれないし、夜中に歯ぎしりをするのはいつまでたっても新しい布団に買い換えさせてくれないからかもしれない。浮気をしたのは恋人が韓流スターを追いかけていて寂しいからかもしれないし、不倫したのは人妻だからしかないかもしれない(?)

だからこちらは謝らない。本当に自分が悪いとは思えないからだ。すると恋人は怒るだろう。「サイテー!」とかカタカナで罵ってくるに違いない(僕は安易にサイテーと言われるのが大嫌いだ。そんな簡単に最も低くなってたまるか)。しかし悪いと思わないのに謝るのは不誠実だ。だから謝るわけにはいかない。結果恋人は納得がいかず、二人はなんとなくどうでもいい喧嘩を引きずってやがてうやむやになっていく。(そしていつか「ずっと嫌やってん」と言われて別れを告げられる)

このとき自分が誠実さを貫いたのは、喧嘩の原因になった「現象」に対してだと僕は思う。「おならが臭い」という現象について「あなたが悪い」と言われるのは、論証が不十分だ。むしろ自分の理屈からすれば事実の湾曲である。「そもそもニンニクを毎晩食べさせればおならが臭くて当たり前だ。だいたいお前のおならだって臭いんだからな!」と反論したい。それこそが「おならが臭い」という現象に対する誠実な姿勢だ。

一方で恋人に対しては誠実だったろうか。僕はこの視点が重要だと思う。「謝る」「謝らない」の意思決定は、本来この視点から行われるべきだ。おならの匂いの原因がどうかは別として、それが相手に不快感を抱かせ、わざわざ指摘するまでに至ったことは事実である。恋人関係にある人間に対して不快感を抱かせているにもかかわらず、謝らないのは不誠実だ。だからまず「おなら臭くてごめんな」と謝る必要があるのだ。「自分は臭くないと思う」?そんなことは関係ない。相手が臭いと思ったらそれが全てだ。

しかしこれで終わってしまえば単なる泣き寝入りである。下手をすれば自分を抑え込みすぎて鬱になってしまう。謝ることよりも重要なのは、このあとである。

「俺のおならが臭いことについては謝る。だからこの臭いを解決するために、ちょっと協力して欲しいことがあるんだ
「なに?」
「毎晩料理にニンニクを入れるのはやめにして欲しい。それが原因だって決まったわけじゃないけど、まずは実験的にニンニクを使わない料理にしてくれ。その代わり俺は毎朝毎晩ヨーグルトを食べる。ヨーグルトは自分で買う」
「私も食べたい」
「わかった。じゃあお前の分も買ってくる」
「じゃあニンニク使わないようにしてみる」

こんなにうまくいくわけがないが、まず相手に対して誠意を示し、そのうえで問題となった現象の解決について話し合う姿勢は誠実そのものだと思う。恋人がおならの臭さに耐えかねて怒り出したとき、その瞬間にして欲しいのはおならの臭さを解消することではない。「この不快感の落とし前、どうつけてくれんねん!」という相手に応えるためには、謝るしかないのである。仮に本当に悪いと思っていなくても、謝る姿勢を見せることが大切だ。



ただ僕の場合、ここで悪いと思ってないとそれが態度に出る。一瞬でバレる。「悪いと思ってないでしょ」と言われる。そう言われると嘘もつけないので「うん」と言ってしまう。予断を許さない、緊迫した状況に追い込まれる。

だからみなさんは僕が「悪いと思っていないのに謝っている」ことに気づいたら、そっとスルーして欲しい。「こいつは自分との関係に誠実であろうとしているのだ。叱ってはいけない」と優しい気持ちになって欲しい。そういう優しい気持ちがあってこそ、良好な関係は築けるのではないだろうか。

こう書いてしまうと冒頭の「僕は最近謝れるようになった」が本当なのか怪しくなるが、僕は確かに謝れるようになったと思っている。自分の中のしょうもないポリシー(「悪いと思っていないのに謝るのはダメ」)とか、しょうもない思い込み(謝ったら負ける。負けるのはダメ)をするりと捨てて、大切なことのために行動できるようになったのだ。

だから僕は誰がなんと言おうと「謝れるようになった」のだ。

抑うつになったときは「しんどい時用タスクリスト」を作ろう

抑うつ状態になった時、一番重要なのは原因を突き止めることだ。原因さえわかればかなり気分が落ち着くし、場合によってその原因を排除して回復を早めることもできる。しかし同時に原因を突き止めるのはなかなか難しい。抑うつ状態になっているときはたいてい思考力も低下しているので、答えにたどり着くまで疲れ果ててしまうからだ。

そこでおすすめしたいのが「しんどい時用タスクリスト」だ。これはある程度元気な時に作っておくもので、タスクリスト通りに行動すれば何が原因かわかるというものだ。

僕の場合の「しんどい時用タスクリスト」は以下の通りだ。

1.ストレッチする。
→これで楽になったら血行が悪くなっていたのが原因の抑うつ。軽度の精神性のものでも、かなり楽になる。

2.体にいいものを食べる。
抑うつ状態になると自分でも気づかないうちに食事を忘れていることがある。これがさらに抑うつに拍車をかける。炭水化物(GI値低いやつ)とタンパク質を中心に、やや多めに食べる。食欲が減っているので、「もうお腹いっぱい」というくらい食べても問題ない。

3.ネットショッピングする。
→これで楽になったら自己肯定感の不足が原因の時の抑うつ。「俺はこんなの買っちゃうぞ」という結構虚しめの自己肯定感が手に入る。これが筋トレへの架け橋になることも多い。でもお金は減るので捨て身の作戦ではある。

4.筋トレする。
→僕にとっての特効薬に近い。実際に筋トレに到るまでの気力があるうちは、たいてい筋トレすれば全部解決する。前向きになれるし、体もすっきりする。ただ筋トレする筋力がないときが問題。ここまでのタスクは筋トレにつなげるためにあると言ってもいい。

5.体に悪いものを食べる。酒を飲む。
→本当ににっちもさっちもいかなくなった時の最終手段。体に悪いものを食べると、たいていそのまま体に出るので、ネットショッピングに勝る諸刃の剣と言える。ただ12月から2月に月イチでやってきていた抑うつは、最後これで解決できた。あんまりやるべきじゃないけど、どうやら効果はあるみたい。


たいていの抑うつはここまでの5つのどこかの段階で解消できる。しかしこれが何の解決にもならない場合もある。それは外部からのストレス(人間関係とか)が原因だった場合だ。ここまでの5つは主に身体的要因を潰していくためのもので、精神的要因に対する効果は弱いのだ。

精神的要因を潰すには、そこから逃げるか、徹底的に思考するしかないと思っている。僕が実践しているのはもちろん前者「逃走」だ。他人による精神的ストレスの多くは、どうにもならない。どうにもならないものを考えても仕方ないので、「まずは逃げる」という作戦の方が効果がある。それでも解決しない時だけ、立ち向かえばいい。


今は抑うつを脱しているので、こんなにも偉そうなことが言えるが、実際抑うつになると実践できないこともある。ただその時もこのリストがあれば、「まずはこれからやってみよう」という気になる。行動を起こせば意外と思考がクリアになっていくものだ。以前に比べれば回復までの時間も早くなった(気がする)。効き目はある。

興味が湧いた人は自分なりのリストを作ってみて欲しい。ポイントは「自分が元気になれること」を探すこと。自分だけのリストができれば、あなたはいつでも元気になれる。

『〆切逃走作家奇譚』4

〈一の三〉

「おはようございます、サカキさん」
「おはようございます」
高台から琵琶湖を眺めていると、三〇代らしき男性信者が声をかけてきた。あのあと私が寝入るまでじっと外の闇を眺めて考え込んでいたようだが、その結論として彼は私を神扱いするのをやめたようだ。賢明な判断だろう。
「素晴らしい眺めですね」
「はい、ここからの眺めは私たちも気に入ってます」
「本当に、人の世界からは隔絶された場所ですね」
「サカキさん」
「はい?」
彼のほうを見ると、その視線はシェルターの方に向けられていた。

「誰かが、近づいてきています」
「誰か、というのは」
「この辺りは登山客が来るような場所ではありませんし、昨日今日は霧が出なかったので遭難者でもないでしょう。おそらくはサカキさんを追ってきた人か、あるいは」
信者たちを追ってきた者か。私は彼らがどんな罪を犯したかをまだ知らないし、知りたくもない。どちらにせよこのままでは私の身が危うい。追ってきたのがサイトウさんならもちろん、朽木村の人たちであっても仲間だと思われて罪を問われる。形としては完全に私がシェルターにかくまっているからだ。
「みんなにも知らせましょう」
「わかりました」
高台からの去り際、ふと後ろの琵琶湖を振り返ると麓から駆け上がってきた風が空へと突き抜けて行った。

「みんな、追っ手だ!」
男性信者がシェルターの中に向かって言うと、すでに信者たちは移動の準備を終えており、彼の方に頷いてみせた。それに答えた男性信者は最年長の信者の近くに腰を下ろして尋ねる。
「何人だ?」
「それが、一人なんだ」
どうしてここにいながらにして人数までわかるのか。訝しく思ったが、一人という人数が何を示しているかはわかった。
「サイトウさんだ」
その発言を聞いた信者たち、いや逃亡者たちは私のほうを一斉に見た。すると最年長の男性が三○代の男性にこう言った。
「おいサゴジ。彼を山麓まで乗せて走れるか」
「もちろんだ。彼は俺たちを許してくれた、恩人だからな」
「頼む。わしらはそのサイトウさんを足止めする。ここからだと南のスキー場まで行けば安全だろう」
「わかった。よし、サカキさん行きましょう」
「え、でも乗せるって……」

何か乗り物でもあるんですか、と聞こうとした私は言葉と一緒にツバをゴクリと飲み込んだ。サゴジと呼ばれたその男性の鼻と口がグググと前にせり出し、もともと大きかった体は全身の肌から急速に伸びる硬そうな体毛でさらに大きくなり、指先からは強靭そうな爪が生え出す。数秒後には完全なる一頭のクマになっていた。
「さあ、サカキさん、乗って!」
口はガウガウ動いているだけだが、頭の中に響くようにサゴジの言っていることがわかる。私の身にいったい何が起きているのか。
「は、はい!」
多少声をうわずらせながら、一頭のクマの背中にまたがる。
「多少強く握っても痛くないので、しっかりつかまっていてくださいね」
「は、はあ」
物語の展開に全くついていけていない私に後ろから逃亡者たち、いやクマたちが声をかける。
「サカキさん、ありがとうございました。また山にいらっしゃった時はお会いしましょう」
「え、あ、はい」

返事をするや否や、体を後ろに強く引っ張られる。サゴジが走り出したのである。お世辞にも乗り心地がいいとは言えないが、さすがは走れば時速五〇kmとも言われるクマだ。ものすごいスピードで山道を駆け抜けていく。リスや鹿は山の王が全速力で走っているのを見て何事かとこちらを見ている。乗っている私が聞きたい。いったいこれは何事か。

三〇分ほど走ると目的地のスキー場近くにまでやってきた。通常の登山コースから少し離れた場所でサゴジは私に背中から下りるよう言った。
「すみません、乗り心地悪かったでしょう」
「ええまあ、ケツの皮がむけたくらいなので問題ありませんよ」
「毛が硬くてすみません」
「いえいえ、本当に助かりました。サイトウさんに捕まったらケツの皮どころじゃない」
「ならいいのですが、あの、サカキさん」
「はい」
襲われたら間違いなく殺されるであろう大きなクマが、神妙そうな顔をしてもじもじとしている。
「私たちは、人を、殺しました」
「へ、へえ」

なんと間抜けな相槌だろうか。しかし目の前のクマが突然こう言えば誰もまともなリアクションはとれまいて。
「うちの息子、ガクが害獣除けの罠にかかってしまったんです。それを助けようとしているうちに猟銃を持った朽木村の人たちがやってきて、こちらも必死で、仕方なく」
「それが、みなさんの罪ですか」
「はい」
サゴジはうつむく。私は深呼吸をする。あれだけのスピードでサゴジが走ってくれたのだから、サイトウさんが追いつくまではまだまだ時間があるだろう。私は自分の考えをこの子供思いのクマに伝えることにした。
「しかし、それは罪だろうか」
「村人たちは悲しみ、怒っていました。私たちが食べる目的以外で命を奪ったからです」
「それでも私はそれを罪とは思いません」

クマは私の言葉を待った。
「現代の人間というのは自分たちが弱いために、強い生き物を自分たちの生活から追い出そうとする。もし強い生き物が生活の中に入ってくれば、すぐに『危機』だの『敵だ』といって攻撃する。私はこれを非常に愚かで、卑しいことだと思っています。強い生き物に対する尊敬の念を失い、武器を使ってそれを駆逐しようとする。そんなことをすればしっぺ返しを受けても仕方ない。もちろんみなさんが正しいことをしたかはわかりません。しかし間違ったことをしたわけでもない。村人たちは悲しみ、怒ることで行き場のない気持ちを消化しようとしているだけです。以前の場所で生活することはできないかもしれない。でも罪の意識を抱えて生きる必要はないのではないでしょうか」
黙って聞いていたサゴジは、大きく息を吐いて小さく、ありがとう、と言った。
「また、必ず会いましょう」
「はい」
私はスキー場へと歩みを進める。歩きながら、サイトウさんから逃げるための次の作戦を考え始めていた。



今年のテーマ「変態」。

1月30日、この日僕は28歳になる。というのは、これを書いているときはまだ27歳なので、このような書き方をする。

この1年は妙に長かった。よく「短いようで長かった。長かったようで短かった」なんて言うが、僕にとってのこの1年は決して短くはなかった。しかし同時にうんざりするほど長かったわけではない。妙に長かったのだ。

3月にはランサーズオブザイヤーというイベントに招待していただき、ここ数年では考えられないような数の人の前に立った。行く前から気に病み、当日も会場の渋谷に着いたのに「吐きそうだ、帰ったほうがいいかもしれない」とか思っていた。それくらい緊張していた。少しだけ参加した懇親会でも食事も飲み物もろくに喉を通らず、そのあと友人に頼まれていた文章術講座もほとんど頭真っ白のまま喋った。東京から帰ってしばらくは体調が元に戻らなかった。

7月には母校の高知大学で特別講師をした。数年前まで引きこもりで、ほとんど寝たきりの生活を送っていた自分の話を学生達は熱心に聴いてくれた。質問も具体的にしてくれたし、ちょっとした人生相談までしてくれる子もいた。この月はいやに忙しく、ほとんど休みは取れなかったけど、無理を押して行った甲斐があったと思った。ただ、やっぱりこの後体調を崩し、吐きそうになりながら仕事をこなしたことを覚えている。

8月には念願のロードバイクを購入し、筋トレ、山に続く趣味に自転車が加わった。9月には恋人と金沢に行き、自分とは違う変な視点でお寺や風景を見る彼女のことを尊敬した。10月からは例年通り山に入り、いろいろな自然を見た。自分の足で歩き、山に登ったり山を越えたりするのは本当に楽しい。山から降りた後、自分が登った山を見るといつも「俺も捨てたもんじゃないな」と思える。

11月には電動歯ブラシを買ったり、ストレッチを始めたり、頭皮ケアを始めたりして生活のクオリティが上がった。このころから死に際とか生き様について考える時間が増えた。その答えはまだ出ていないけれど、「仕事以外は役立たず」というキャラを定着させれば結構楽しく生き、死ねるんじゃないかと目論見始めている。

12月・1月はあまり良い月ではなかった。季節の変化で体調を崩し、何をするにも心身ともに重かった。「無責任なやつだ」とか「お前の生活は俺より劣っている」とか言われた気がしたりして落ち込んだりもした。そんな中でも仕事はしたし、筋トレやストレッチも続けてきた。

去年一年のテーマは「休む」だった。今年は「変態」にしたい。また日を改めて書きたいが、変態は面白い。僕も変態になりたい。あと裏テーマに「もっと休む」を小声で入れたい。去年の休日は130日とちょっとだったので、もう少し休みたい、145日くらい。

もし次に僕と会って「変態だな」と思ったら、褒めてやってください。

『〆切逃走作家奇譚』3

〈一の二〉

「ちくしょ〜、あのクソ作家。ぜってえ許さん」
力いっぱいに部屋の扉を蹴り飛ばすと、サイトウはそう唸った。

彼女は文学賞作家・サカキの担当になって今月で半年になる。その間サカキがまともに原稿を渡したのは初めの一回だけだった。前任者からは「本当ならあのクソ野郎は首輪でもつけて編集部の倉庫にブチ込んでおくべきだ」と聞かされていたから、最初は拍子抜けしたものだ。前任者は社内でも有名な美人編集者で、普段はその美貌と仕事ぶり、そして何より誰にでも優しく接する人柄の持ち主だったので、そんな人が憎悪の形相でそんな風に言うので、相当なものだと覚悟していたのである。

それを知っていたのかサカキは、最初の原稿を締め切りの一週間前に入稿してきた。「なんだ、きちんとした人じゃないか」と思ってしまうのも無理はない。ところが二ヶ月目から毎回入稿が遅れ、サイトウは前任者の言葉の意味を知る。あの手この手で催促から逃れるサカキに手を焼いた挙句、サイトウは前任者に教えを乞うしかないと考えた。なんだかんだとサカキの原稿は人気がある。どうにかしなければならない。すでに別の出版社に転職していたが、失礼を承知でサイトウは前任者の自宅を訪ねた。

すると彼女は前回とは違い、「あの人も変わらないのね」と優しい声と少し悲しげな顔で『サカキ・ナオト追込みマニュアル』と題された一冊の冊子を部屋の書棚から取り出した。パラパラとページを手繰ると、「インターホンはサカキがノイローゼになるくらい鳴らす」「サカキにはストーカー被害歴があり、ドアノブを鳴らされるとフラッシュバックを起こす。インターホンで出ない場合はドアノブで恐怖を植え付ける(後記 克服してる?)」「締め切り一週間を切っても音沙汰がない場合は、全く書いていない可能性」「こちらの殺意を感じ取らせるべし」など、作家一人にここまでするかというほど詳細に書かれている。中には「誕生日にプレゼントを渡しておくとしばらく締め切りを守る」といったなだめすかしの方法も書かれていた。

冊子の最後のページには滋賀県の地図が貼り付けてあり、山深い場所に赤丸とともに「シェルター」と殴り書きされている。あのクソ作家は山にまで逃げ込むのかと、サイトウは頭をかきむしりたくなった。
「それがあれば、多分大丈夫よ。もっとも彼の逃走手段はどんどん進化するんだけどね」
「進化ですか」
「うん。インターホンもドアノブも、どんどん慣れちゃうのよ。しかも追い詰められれば追い詰められるほど、危機感を感じなくなっちゃう。状況を楽しみ始めるの。こっちはそれが悔しくて躍起になって追いかけるんだけど、その想像を超える方法で逃げて行っちゃう。作家のくせに暇さえあれば体鍛えてるから、走ったりするのも速いしね」
「ま、まじですか」
「マジよ。でも彼の書く文章は私も好きだし、世の中の人も求めてる。だから書いてもらわなくちゃならない。サイトウさん、よろしく頼むね。」
「はい」
とは答えたものの、サイトウはすでにゲンナリしていた。前任者の話は柄にもなく編集の仕事とは何か、などと考え込みたくなる内容だ。彼女は前任者に礼を言い、マニュアルをお守りのように抱きしめて帰途についた。

ひと通り罵詈雑言を吐いたあと、サイトウはマニュアルを開いた。インターホンもドアノブも、ガス流し込みもやった。それでも出てこないサカキは知らぬ間に階下に降り、大きなバックパックを背負ってどこかに姿を消した。もちろん携帯にも出ない。
「大きなバックパック……」
サイトウは休日に合コンを差し置いて登山に行くほどの登山好きだった。サイトウが背負っていたのは、容量だけ大きくて背負っているとすぐに肩が痛くなるような安物ではない。登山家が好んで使う本格的なメーカーのものだった。サイトウはマニュアルのページを一気に手繰る。
滋賀県武奈ヶ岳山域!」
そう力強くつぶやいて、編集者は走り出した。