ひとり部活動記録

文章書いたり、筋トレしたり、自転車漕いだり、山登ったり、基本はひとり。

「人生なんてこんなもの」とか言うなよ。

人生は楽しむためだけにある。僕は常々そう考えているし、この座右の銘ともいうべきコンセプトに沿うよう行動している。今日は少し、この僕の人生のコンセプトについて書きたい。長くなるし、話があっちこっち行くのでわかりにくいかもしれないが、何か伝わったら嬉しい。

0.かくして人生は楽しむためだけにある

「楽しむ」には色々な考えがあるし、本当の意味で楽しむためには一定以上の「苦しむ」が必要だったりもする。端的な例を挙げれば「産みの苦しみ」みたいなものだ。しかしそれも、その苦しみが報われるという前提が成立していなければならない。苦労を結果に繋げたいのであれば、その見込みが立ってから行動するべきなのだ。

もちろん「この苦労が報われなくてもいいや」という場面だってある。苦労すること自体が目的になっている場合だ。経験がないのでわからないが、母親が子供に対してする苦労なんかはその部類にはいるのかもしれない(そうでない母親もいたっていい)。僕の場合は恋人や幼馴染、愛猫のための苦労は結構この部類にはいることが多い。しかし「この苦労が報われなくてもいいや」とか言っていても、苦労すること自体が目的なので、苦労をさせてもらっている時点で、実は苦労は報われている。逆説的だが「苦労することを楽しんでいる」のだ。かくして結局人生は楽しむためだけにある。


1.本当に人生を楽しみたいのか?

しかし「人生を楽しみたい」とか言っている割に、このコンセプトをしっかり貫けていない人がいる。苦しみに向かってひた走っているだけなのに、「いつかこの苦労も報われる」なんて言っているのだ。これは楽観主義者どころか単なるアホだ。登山中にこんな奴がいたらどう思うだろうか。

登山者X:どちらまで行かれるんですか?
登山者Y:○○山頂を目指しています。
登山者X:え?それだと逆方向ですよ?○○山はあちらの山ですから。
登山者Y:……いいんです。こっちを歩いていてもきっといつかは○○山頂に着きますよ。
登山者X:はあ……お気をつけて……。

登山者Xは間違いなく「こいつアホだな」と思うはずだ。僕も思う。あなたはどうだろう。「いつかこの苦労も報われる」という計画性も実現可能性も極めて貧弱な夢想を抱いていると、登山者Xのような親切な案内人がいたとしても、なかなか方向修正ができない。夢はいつでも甘美である。希望はまるでスイーツだ。しかし甘いだけのスイーツは肥満へのレッドカーペットである。気持ち良く周りからもてはやされるが、導かれているのは肥満への道、苦しみの人生だ。


2.なぜ「いつかこの苦労も報われる」と信じるのか?

ありもしない希望を信じたいとき、あるいは今の自分を変えることに恐怖や不安を感じるとき、それはたいてい「わからない」をそのままにしているときだ。

僕は大学時代から4年付き合っていた遠距離の彼女に浮気をされたとき、ありもしない希望を信じたかった。彼女と別れた後の自分の存在根拠がどうなるかと考えると恐怖と不安でいっぱいになった。彼女にすがりつくように関係を続け、自分が擦り切れるまで苦労した。「いつかこの苦労も報われる。わかってくれる」と信じた。しかしその希望は叶わなかった。

僕は浮気をした彼女の気持ちがわからなかったし、彼女と別れた後の自分がどうなるのかもわからなかった。何より現実を直視し、冷静に判断することを恐れた。そしてとにかく苦労さえすれば何かその苦労に値する結果が得られるはずだと考えた。

大間違いだ。誰かの信頼をさして深い考えもなしに裏切る人間の気持ちを理解する必要などないし、たかが一人の異性と関係を絶ったところで自分にとって大きな影響など本来あるわけがない。冷静に、現実を直視すれば、これくらいのことはわかるはずだ。しかし「いつかこの苦労も報われる」という幻想を抱いてしまうと、現実を見据える勇気が持てない。幻にかどわかされた瞳には、真実など見えない。「わからない」を抱えたまま歩き出すのはギャンブルだ。


3. 自分の苦労に報いるのは自分自身だということに気づく

では僕はいったいどうすればよかったのか。「いつかこの苦労も報われる」という幻想を打ち砕き、報われる苦労に切り替えるためにはどうすればよかったのか。

このときの僕が発見するべきだった観察は「人生の8割は自分の足で歩いていけるのであって、他者の関与は2割程度しかない」ということだ。僕は過剰に「自分の人生は他者のおかげで成り立っている」と考えすぎていた。なんのことはない、それまでの人生を切り拓いてきたのも、そこからの人生を切り拓いてきたのも、自分なのだ。

なるほど親がいなければ、あるいはその浮気をした女がいなければ自分は自分ではなかったのかもしれない。しかしたとえその人たちがいたとしても、自分が道を切り拓こうとしなければ今の自分は絶対に存在しない。逆に言えば自分さえいれば今の場所に至る道を切り拓くことは可能なのだ。自分こそが自分の人生にとっての必要条件であり、他者は自分の人生にとって替えのきく十分条件にすぎない*。掛け替えのない他者も存在する場合はその他者も必要条件になるが、その判断はごくごく慎重に行われるべきだ。

※野菜が存在しなければトマトも存在しないが、トマトが存在しなくてもピーパンやキュウリなどの別の野菜が存在する。このとき野菜は必要条件となり、トマトやピーマンは十分条件となる。

「自分の人生は自分で歩かねばならない(歩いていい)」この冷たくも希望に満ち溢れた事実を見据えたとき、僕は「いつかこの苦労も報われる。わかってくれる」という他者依存の無鉄砲な考え方を捨てた。自分の苦労に報いるのは自分自身であり、それさえできていれば他者の理解など二の次だ。

4.「わからない」をそのままにするな

こうした自分の中の「わからない」を解消し、「わかった」に変えるまでに、僕は数年を要した(今でもわからないことはたくさんあるが)。問題が複雑になるほど、あるいは原因が根深いほど、かかる期間は長くなる。しかしそれでも「わからない」を放置していてはいけない。それは知らぬ間に自分の苦労を本当の意味で無駄にし、「人生なんてこんなもの」という悟ったふりをしただけの観察に僕たちを招き入れる。

確かに諦めは肝心だ。でもそんな諦め方をしてはいけない。わからないを少しでもわかるに変え、「自分が心から楽しいと思える進路」を見定め、そっちに向かって歩こう。それが人生を最大限楽しむためには、きっと必要だ。

2017年の目標の2月度進捗報告。



1月初めに立てた目標の進捗報告をばいたします。長く続く冬に気分が落ち込んだのか、はたまた2本も取材記事をこなしたせいで疲弊しきったのか、山にも行かず、自転車も漕がず、部屋の中でもぞもぞし続けた2月となりました。

<私生活面>

・「体験」にお金をかける。

KPI(達成指標):月1回以上「新しい体験」に出費する。
→達成済み。「あ、やべ、今月これすらできてないわ」と思いましたが、実はできてました。取材対象者がインストラクターをしているヨガ教室に行ってきました。半分仕事ですが、半分は前からヨガをちゃんとやってみたかったので、よしとしましょう。感想は「筋トレよりきつい」でした。いろんな意味で力を入れるのは得意ですが、力を抜くのは本当に難しい。

DPI(行動指標):月1回以上「新しい体験」の予定を立てる。
→達成済み。とある臨時収入があったので、3月に彼女と「ただひたすら健康ランド内でだらだらして、そのまま泊まる」計画を立てました。


・筋トレを継続するのはもちろん、もっとエスカレートさせていきたい。

KPI:BIG3(1RM)の合計270kg(現在記録上は233kg)。
→以下の通り、今月は計測できていないので不明。

DPI:1ヶ月に1回、BIG3の計測をする。
→今月は体調が優れなかったので計測はできていません。ただ先日スクワットを5回×5セットでやったところ、88kgが5回上がりました。先月の1RMが83kgだったので、多分1RMだと95〜96kgはいくんじゃないですかねえ。ちなみに我がホームジムの最大積載重量は110.5kgなので、そろそろ頭打ち。プレートを買うか、重量よりも回数を増やすか、悩んでいます。


・体を柔らかくしたい。

KPI:前屈で手のひらが床につく。肩甲骨の間で合掌できる。
→未達成。まだまだ継続が必要。筋トレするのでその度に筋肉が硬くなるので、進捗は遅いよね。

DPI:1ヶ月に1回の進度確認。
→前屈はスネの真ん中よりやや下。肩甲骨はかなり柔らかくなっており、頑張れば背中で合掌もできるようになりました。あとは上下から腕を回して肘を曲げ、背中で手を繋げるようになりたいなあ。ストレッチ後なら右腕上・左腕下はできますが、逆はさっぱり。やはり利き手の左肩が硬いみたい。


・「ずっと楽しい」を絶対的基準として行動する!

KPI:週に1つ以上「楽しそうなことリスト」を実行する。
→これ結構無茶目標だったか?

DPI:「楽しそうなことリスト」に週に1つ以上項目を追加する。(現在ストック30)
→7個追加。百均で買ったトートバッグにステンシルプリントしてみたい。


<仕事面>

・コタツ記事の数を少しずつ減らし、取材記事も書けるライターになる。

KPI:2月以降、月1本以上取材記事を書く。
→まさか本当に書くことになるとは…。しかも2本書きました。

DPI:月2本以上、取材記事の企画を立てる。
→先月は1本しか立てられず。やっぱり取材は怖い…。

・休みたい。

KPI:年間休日150日、月平均休日12.5日
→2月の休みは8日でした。休めてないなあ。

DPI:3月中に1ヶ月休暇の宣言をしておく。
→5月丸ごと休みたいなあと考えています。まだ宣言する度胸が出ません。っていうかそんなに休んで俺仕事に戻れるのかという不安が…。

・小説を書く。

KPI:小説を1本以上書き上げる。

DPI:毎週2,000字程度の原稿をブログにアップする(毎週金曜日)。
→申し開きのしようがございませぬ。



以上、進捗報告でした。

習慣を変えるのに「頭」は邪魔。


 

「習慣を変えるのは難しい」先日エクササイズのインストラクターの人と話していて、こんな話題が出た。僕は正直この時「そうかなあ」と思ってしまった。もちろん今の自分とかけ離れたような習慣に変えるのは難しい。しかし適切な目標設定をした上で行動すれば、習慣を変えるのはさほど難しいことではないと思うからだ。

 

習慣を変える時に必要なのは次の4つのアクションだ。

 

1. 「結果目標」ではなく「行動目標」を定め、実行する。

 

→結果目標を設定すると「この手段であっているのか?」「この習慣を身につけて無駄にならないか?」という疑念が生まれる。こうした疑念はときとして非常に有効に働くが、一方で習慣化を著しく妨げる。これに対して行動目標は、設定した行動そのものを行う、どちらかというと頭のいらない目標だ。結果が出ようが出まいが、その行動を実行することこそが目標になる。習慣化にはこの「とにかく実行する」のプロセスが必要不可欠だ。

 

2. 適切な目標を設定したら、とにかく実行する。

 

→だから結果を出すための適切な目標さえ設定すれば、あとはただ無心に実行するだけだ。余計なことを考えてはいけない。「毎晩ストレッチしてから寝る」と決めたのであれば、睡眠時間や余暇の時間すべてに優先してストレッチをするべきだ。もしただ黙々と実行するのが難しいのであれば、実行しやすいように環境を整えてしまおう。僕の場合、ストレッチを始めた当初に使っていたストップウォッチの音が気に入らなくて、バイブレーションアラームのストップウォッチを新たに購入したりした。他にも楽しくストレッチの時間を過ごせるためのBGMも吟味した。継続のために重要なのは「楽しさ」だ。継続が必要な場合、楽しさは何よりも優先順位が高くなる。

 

3.週単位、月単位で効果測定を実施する。結果に基づいて修正・改善を行う。

 

→効果測定も「楽しい」の一つだ。目標が適切ならば、必ず結果は出る。結果が出ればモチベーションが高まる。モチベーションが高まれば習慣化しやすくなるし、習慣がもっとエスカレートすれば「それなしではいられない」ようになる。僕にとっては筋トレがこれだ。今の僕にとって、筋トレなしの生活はありえない。

 

4.ここまでのステップを自動化できるように、適宜「頭」を排除する。

 

13のステップにおいて最も邪魔になるのは、僕たちの「頭」だ。新しい習慣を身につけようとする時、保守的な人間の脳は必ず「面倒だ」「無駄になったらどうする」「どうせ続かない」と邪魔をしてくる。あるいは一定期間同じような行動を続けていると「飽きてきた」「別のことをしよう」「ヤメタヤメタ」と別の行動を促すようになるだろう。こうした生物的な問題を克服するには、あらかじめ習慣化計画から「頭」を締め出す必要がある。

 

前者の保守的な頭の邪魔に対しては、スケジュールアプリなどにアラート付きで新しい習慣の予定を入れておき、そのアラートが鳴ったら有無を言わさず実践するようにしよう。

 

後者の飽き性な頭の邪魔に対しては、あらかじめ週単位・月単位でバリエーションの違う行動目標を設定しておき、その時期が来たら何も考えずにそちらに移行するようにする。例えば僕の場合なら23ヶ月ごとに筋トレのトレーニング法やメニューを変えるようにしたり、ストレッチのやり方を見直したりする。こうしていれば適度に飽きずに継続できるはずだ。

 

 


 

習慣を変えたいのなら、頭で考えるべき段階と、まったく頭を使うべきではない段階があることを理解しなければならない。そうのえで4つのアクションを行えば、たいていの習慣は身についてしまうだろう。

大切な人を大切にする方法

「大切にするっていうのは、相手が大切にしているものを大切にするということだ」

 

これは少女漫画でアニメ化もしている『となりの怪物くん』という作品の中で、とてつもなく地味に書かれていた言葉です。ひとつながりのセリフでもなくて、主人公のハルと名前もない教師との間に交わされた会話を要約するとこういう意味になる、というくらい地味な扱いでした。Googleに「となりの怪物くん 名言」とかで調べても出てきません。マジで地味です。

 

でも僕の中ではこのアニメを観た時からずっと心に残っている言葉で、今でも大切にしたい人に接するときはこの言葉を思い出しながら接しています。「この人を大切にしたい」と思った時、僕はついついこの「大切にしたい」という感情に振り回されて、自分が思う「大切にする」を相手に押し付けがちです。しかし「大切にする」というのはそんな単純で手軽なものでなくて、もっと複雑なものだと思うんです。

 

これは「優しい」とかとも通じると思います。「何が優しさなのか」は一概には言えません。甘やかすことが優しさなのか、その人の将来とかを考えて厳しくするのが優しさなのか。このあたりは優しさについての永遠のテーマでしょう。

 

ただ「大切にする」も「優しい」も、常にこういった複雑な思考が必要なわけではありません。基本的には『となりの怪物くん』が言うように、「相手が大切にしているものを大切にする」をしていればOKだと思います。とはいえ、それでも自分が思う「大切にする」を相手に押し付けるよりは複雑な手続きが必要です。

 

「相手が大切にしているものを大切にする」には言語コミュニケーションなり、非言語コミュニケーションなり、相手とのコミュニケーションが必須です。そのコミュニケーションの内容も形だけ双方向なのではなくて、きちんと相手の話や意見を聞いて、理解していなければなりません。でないと「相手が大切にしているもの」なんてわからないからです。

 

これは人によっては結構難しかったりします。相手がいくら大切なものを発信してくれていても、こちらが真面目に聞かなければダメだし、こっちが一生懸命でも相手が大切なものについて話してくれなければダメです。

 

そういう難しくて面倒臭いコミュニケーションを踏んで、初めて相手を大切にすることができます。こういうコミュニケーションがうまくできる人をコミュ力あるっていうんでしょうか。僕にはそういうスキルはないので、ごく一部の人しか大切にできません。でも大切にしたいと思う人を大切にできているので、それは良しとしようかなあ。

 

これを理解すると、「自分は自分なりに大切にしているつもりだ」とか言う人がいますが、これが全く意味不明な言い分だということがわかるはずです。「自分なりに大切にする」なんてことはできないからです。新製品が売れないのに対して、開発者が「自分では良いと思ったんだけどな」と言っているのと同じです。お前が良いと思っても客が良いと思わなきゃ売れるわけねえだろ、って話です。

 

自分の肝に命じておきたいです。

「自分に期待しない」の希望論

自分に期待していると、「その期待が裏切られたら」と不安になってしまう。自分の期待を裏切るのは自分しかいないから、誰のせいにもできない。逃げ道がないというのは、「逃げる」を信条とする僕からすれば恐ろしい事態だ。だから僕は「自分に期待しない」ことにした。正確には、自分への期待が行動を制限するレベルで過度にならないように注意することにした。

これは一見消極的だが、僕にとってはかなり希望に満ち溢れた考え方だ。というのもこの考え方は「加点方式」だからだ。「できる自分」から「できない自分」に向かう減点方式とは違い、「できない自分」が前提なので何ができてもポジティブになる。この考え方が身につけば、もっと生活の幅も仕事の幅も広がる気がする。

以下ではこの考え方に至った経緯や、展望をメモしていきたい。


1月はかなり体調が悪く、なかなか仕事にとりかかれない日が続いた。この時僕は「自分ならできるはずだ」と思い続けていた。「これまでできてきたんだから、できるはずだ」と。しかし頭は膨張したように重く、思考も全くまとまらない。ストレッチだ筋トレだと体を動かしてみるが、どうにもならない。「自分ならできる」という期待は見事に裏切られ続けた。

この状況の突破口を開いたのが「おいおい、お前、自分に期待しすぎとちゃうか?」という内なる声だった。つい3年前の僕はほとんど寝たきりで、自分で自分を「穀潰し」などと蔑み、毎日死んだように生きていたのである。その頃の僕は「自分に期待しすぎていない」時期で、楽しいという感情さえごく稀にしか抱けなかった。

それが今では毎日の基本が「楽しい」になり、年収は事務員時代はもちろん、ブックオフ時代も上回るようになった。1年目より2年目、2年目より3年目の方が楽しさも収入も増えている。

しかしだからといって3年前の自分がすっかりいなくなったわけではない。それはこの1年でも何度も実感してきたはずだった。にもかかわらずその事実を忘れ、「仕事をサクサクこなせて、評価もされている自分」にすり替えようとしていたのだ。だからこの自分像と今の自分との乖離に苦しむのである。

この苦しみを取り除き、もっと安定して「楽しい」でいるためには、常に自分の実像をとらえ続けている必要がある。お調子者の僕はすぐに「神経の細い自分」を「仕事をサクサクこなせて、評価もされている自分」にすり替え、ヒーローになりたがる。これを戒め、堅実に「自分に期待しない」で生きる必要がある、というわけだ。



この考え方が「希望」だといったのは、僕が今月から取材記事を本格的に書き始めたことが関係している。僕は自分に期待しないことで、この大きな大きなステップを踏み出すことができた。「どうせできないんだから、やってみればいいんじゃない?できなくても、仕方ないよね」という、投げやりな前進ができたのだ。本当は「絶対できる!できるできるできる!やってやるう!」くらいアツい姿勢の方が格好いい気もするけど、まあ、仕方ない。

僕は良い意味でも悪い意味でも「優等生」なので、とかく失敗が怖い。取材対象に依頼をかける前から「失礼があったらどうしよう」「二度とこいつとはあいたくないとか思われたらどうしよう」と気に病み、依頼をかけるのが怖くなってしまうほどである。優等生のままだとこの不安のタネを一つ一つ潰していって、それがなくなるまで行動できない。しかし学生時代と違い、今の僕にはそれを全滅させる気力がないので、結果行動せずにうやむやにしてしまうのだ。

しかしライターとして次のステップに進むためには、僕の場合「取材」が必要不可欠だ。取材記事が書ければ単価も上がるし、書く記事のクオリティも跳ね上がる。当然書いていて楽しくなる。楽しくてやりがいのある仕事で、今よりたくさんの報酬が手に入れば、人生のクオリティはもっと上がるだろう。

さらに「生き残る」という意味でも「取材」はなくてはならない技術だ。ネットで情報収集をするだけのコタツ記事は、ウェブメディアが淘汰されていけば近い将来不要になってくるだろうが、取材記事だけはなくならない。いくらインターネットや検索エンジンが発達しても、「特殊な情報を持っている人」と「その情報を欲しいと思う人」をダイナミックにつなげるのは人間の技だからだ。「取材」はその中でもかなり強力な武器である。だから「書く」ことしかできない僕にとって、生き残るという意味で取材は必要なのだ。だから行動しなければならない。

これを阻害していたのが「自分への(過度な)期待」だった。そしてこの障害物を排除してくれたのが、「自分に期待しない」という考え方だったのだ。



この文章を書いているのは2/4だが、この記事を公開する2/20の前日2/19にはすでに取材のスケジュールが入っている。今から緊張で吐きそうだが、自分に期待しない姿勢で、僕らしい取材ができていることを祈っている(弱気)