ひとり部活動記録

文章書いたり、筋トレしたり、自転車漕いだり、山登ったり、基本はひとり。

『岸田アパート物語』9号室

私は無性に腹が立ち、そのあとカツカレーのLをたいらげた。途中喉に詰まって死にそうになったが、こんなところで死んでなるものかと水で流しこみ、再びかきこんだ。それでもまだ屹立した腹がおさまらない。私は肩を怒らせて食堂を出る。


 食堂のある建物の前では、真冬だというのにダンスサークルの学生たちが熱心に練習をしている。年長者らしき男が後輩に指導しているところも見える。なんと大学生らしい光景であろうか。
「私にも、あんな未来があったのだろうか」
ポツリ呟くと、私の口から出た白い息が冬の空気に溶けていった。
 私は部屋着のモコモコした服を脱ぎ捨て、上下ジャージに着替える。当然防寒のための股引を脱いでいる。そしていつもの革靴ではなくスニーカーを履く。散歩に行くのである。とりあえず、先生の言うとおりにしてみようと考えたのだ。
「少し寒いが、仕方あるまい」
自らを鼓舞するようにそうつぶやいて、私は家を出た。今日の空は快晴で、満天の星空である。家の前の道を南の方に下ると最寄りのスーパーマーケットのある通りに出る。そこは価格帯が高いので近頃はあまり利用することはなくなったが、どこの店が安いだの高いだのをまだ知らぬ時には近いからという理由でよく利用していた。そういえば、はじめて自炊をした時の材料を購入したのもこの店であった。買ったものは豚バラ肉、それだけである。醤油で焼いて、米と一緒に食った時、その味気なさに思わず涙を流しそうになったのを覚えている。一人で食う飯ほど、まずいものはない。


 そのスーパーの通りを北東へ向かう。私のいつもの散歩道である。一年の頃から変わっていない。
 しばらく歩いていると、田んぼが見えてくる。今は冬であるから干からびているが、夏の頃にここを歩けば満々と水がたたえられており、やかましいほどにアマガエルが大合唱を聴かせてくれる。小難しい哲学の本に疲れた時も、桃色のキャンパスライフを望む堕落した心が頭をもたげた時も、淡い恋心を抱いた女性の事を考える時も、ここを通ったものである。いつでもアマガエルたちは私の心をいたわってくれていた。卒業してしまえば、この道を歩くことももうないかもしれない。私が去っても彼らは歌い続けるだろう。なんだかそれも少しさびしい気がする。
 その道をしばらくいくと、大きい交差点に出る。そこを右に曲がると、公立の高校がある。その前をまた道なりに歩いていく。私がぼんやりと遠くを見ながら歩いていると、
「まあ、あいつも頑張ってるんだし」
という声が聞こえた。
「でもさ、そのレベルが低いんだって」
「そうなんだけどさ……」
自分のことを言われたような気がした、というわけでは断じてない。断じてないが、私は彼らが話している人物よ頑張れ、とひそかにエールを送った。
 思えば高校時代も、私は自分の生き方というようなものをしっかりと立てることができなかった。とにかく自分のペースが乱されることを嫌っていたため、何とか人との接触を避けられないかと試行錯誤を繰り返したものである。私とて始めからそうであったわけではない。しかし私なりの尽力の結果、中学同様私には人とともに何かをするということは向いていないことがわかったのだ。
私が何か言うと場が白け、どれだけクラスの人気者たちによって場が盛り上がっていてもいっきに平らに均してしまうのである。それを繰り返しているうちに私は徐々に話すことをやめ、休憩時間も寝たふりをし、放課後も人の視線を避けるようにしてそそくさと帰宅した。……大学になってもそれはあまり変わらなかった。


 やむにやまれぬ気持ちになった私は、走り出したくなった。なったので走り出した。高校の隣にある携帯電話の販売店を駆け抜け、スーパー、スーパーの駐車場、寂れたカフェ、うどん屋まで駆け抜けた。大した距離でもないのに私の肺は自らの限界を訴えかけていた。
「負けてなるものかあ!」
私はさらに地面を蹴る。その時である。横の店から女が飛び出してきて私の横っ腹に激突した。ただでさえよろめいている私はその拍子に転んでしまい、私に突っ込んできた女もろともアスファルトの上に倒れこんだのである。
「ちょっと、なにをするのですか」
私が咎めるように言った言葉は女を追って出てきた男の台詞で見事にスルーされてしまう。
「逃げる気か」
「うるさいわね、あんたみたいな男、もううんざりなのよ」
「このアマっ」
男が女の髪の毛を引っ張ろうとする。私は無意識の間に二人の間に割って入っていた。
「なんだ、あんた! 部外者は立ち入らないでくれるか」
巻き込んだの貴様らだ、このたわけ。と言いたかったのだが、自分でもなぜそこに割って入ったのかが分からないのだから困る。ぎゃあぎゃあと耳元で喚く二人の声のせいで、私の頭はどんどんぼんやりしてきた。いくらかして、私はあきらめたように言った。
「喧嘩する相手がいるだけで、十分だろう」
そんなことを思ったことなどなかった。喧嘩など、すればするほどむやみに体力と精神力を摩耗し、結果がどうなったところで得る所など何もない、そう思っている筈である。私は突然に元気を失った私を不審そうに見る二人を置いて、散歩の続きに戻った。妙なことを言った自分を早く隠したいと感じたのだ。


 夜の町にはいろいろな人間がいる。昼間は太陽に照らされて見えない顔も、星明りの下では皆気兼ねなくその千変万化の表情をあからさまにするのである。酒を飲み、声を張りあげ、大いに笑い、大いに泣き、時には愛を語らう事もあるだろう。そういった人間らしい一切が夜には跳梁跋扈する。私はその飛び跳ねる表情をしり目に、とぼとぼと一人歩いていた。寂しいのは、少しだけである。泣き崩れる男とその背中を必死の様子で撫でながら、大丈夫です大丈夫です、としきりに語りかけている後輩らしき女の子のいる居酒屋の前を通り過ぎ、私の足はレンタルショップ「タツヤ」にさしかかった。私はふと思い立って、店内に入った。
 この店はDVDやCDのレンタル・販売業務もしながら、店の半分ほどの床面積を使って書籍の販売もしている。私の住む町は所謂郊外であり、あまり大きな書店などがないため、本を買うという時はこの店に来ることが多い。故に大学生との遭遇率も極めて高いが、知り合いの極めてすくない私にはその点は関係がない。私は一通り週刊誌などに目を通した後、文芸誌を見るためにそのコーナーへと向かった。私がいつも目を通している雑誌が一見して見当たらないので、棚の下などに隠れてはいまいかとしゃがんで覗いてみる。少しずつ移動しながら探していると、ようやく一冊だけ隠れていたのでとりだして開く。
「草人さん」
私はその声、いや音色を聴いた瞬間にその主が誰なのかを直感した。どうしてこんなことになったのかと考えたが、考えるまでもなく態侘落先生の進言が原因である。あの男はいったい何者なのか。そのような内的葛藤を必死になって隠ぺいしつつ、私はぎこちない動きで首を彼女の方に回し、
「やあ」
と声を裏返らせて挨拶をした。


「相変わらず、本をお読みになるのですね。すばらしいです」
彼女はそう言って、ほほ笑んだ。
「う、うん。私にはこれがないとだめですから」
「私も近頃本を読みます」
彼女はそう言って、私たちのいるコーナーの後ろに置かれているベンチに腰掛けた。この店は本屋にもかかわらず、ゆっくりと読んでくれと言わんばかりにベンチを置いているのである。そのベンチに座った彼女は私にもそこに座るように促しているようにも見える。私は逃げ出したい気持ちで一杯だったが、彼女は私の服装から今私が暇にあかした散歩中であることを理解している筈である。何度か一緒に歩いたこともある。言い逃れるすべは断たれている。私は彼女の隣に腰かけた。
「どんなものを読んでいるのですか」
「このあいだは、荷風の『つゆのあとさき』を読みました」
「ほう、それは素晴らしい。あの作品は私も大好きです」
「そうなのですか? 嬉しい」
彼女は胸の前に手を合わせて、素晴らしい笑顔でそう言った。
「恥ずかしながら、最近文通というものを始めまして。お相手の方からすすめて頂いて読んだのです」
私はそれを聞いて、心の臓が停まるかと思われた。文通相手にすすめられて『つゆのあとさき』を読んだ……私は同じことを私の文通相手にしたことがある。
「そ、そうなのですか。お相手はどんな方なのですか」
「それが、お名前などは分からないのですが、草人さんと同じでとても博識でいらっしゃるようです。いろんなご本をすすめていただいて、とても勉強させていただいています」
それは私ではないですか、と言おうかとも思ったが、そんなことは私にはできなかった。もし、それが私ではなかったらとんだ赤っ恥である。
「そうなのですか。そんなに博識な方だったら私も一度文通してみたいものですね」
「草人さんとあの方ならとても有意義なお手紙のやり取りになるでしょうね。私のような不勉強な人間ではつまらない思いをしていらっしゃるかも知れません」
「い、いえっ。そんなことはありませんよ、大変有意義です」
私は思わず声が大きくなってしまう。
「そうでしょうか……」
すこし目を伏せた彼女の頬に影が落ちる。
「ところで、草人さんは近頃何をなさっているのですか。全くお会いできていなくて残念です」
「江戸の禁書や狂歌・狂詩についての文献を読んでいます。あの辺りになぜかとても惹かれて」
「お変わりなく勉強熱心なのですね、草人さんは。私も頑張らなくては」
彼女はそう言うと、しばらく考え込んだ様子を見せて、そのあとギュッと目をつむった。
「よし、決めました」
「え、何を」
「先ほどから買うかどうか迷っていた本があったのです。少しお値段が高かったので……けれど草人さんと話していて決心がつきました。買います」
「そ、そうですか」
私が彼女の「決心の目」に少したじろいでいると、突然彼女は私の服の袖をつかんだ。
「ど、どうしましたか」
「草人さんもついて来てください」
「え」
彼女は私の袖を引きながら、ずんずんと店内を歩いていく。何度もその本の棚の前に行ったのだろう、足取りにまったく迷いがない。……彼女は私に「お変わりない」と言ってくれた。しかし、彼女だって何も変わっていない。


 私たちがまだ、恋人という肩書をお互いに持っていた頃である。私の家で二人で本を読んでいた。私の家にはせまいながらに三人がけのソファがあり、私たちはそれに座っていたのだが、隣の彼女が唐突に読んでいた本を置いて立ち上がったのである。私が驚いて本から彼女に視線を移すと、彼女の視線は下を向いていた。
「どうかしましたか」
「……」
私の質問にも答えはなく、彼女はしばし沈黙し、
「決めました、草人さんもついて来てください」
と言って事態の説明を求める私に、
「いいから、ついて来てください」
と日頃は見せない強引さで、私を無理やり引っ張りだし、近くの洋服屋に引っ張り込んだのである。そして今のように迷いの一切ない足取りで目的の品のある所まで行き、真っ直ぐレジに向かったのであった。そのようなことが私たちの短い交際期間の中でも三度ほどあった。


 彼女は近頃話題になっている哲学の本をその書棚から手に取り、あの頃と同じように私には有無をも言わせぬ勢いでレジに直行した。彼女は会計の間も私の袖を離さないために、片手で会計を済ませたので、少し手間取ってしまったが、彼女は無事目的の本を買う事が出来た。私たちはレジを済ませた流れで、出口に向かった。彼女はその段になってようやく私の袖をずっと握っていたことに気付き、
「すみません」
と小さく謝った。彼女の頬が赤く染まっているのを見た私も、少し顔がほてるのを感じた。
「今日はありがとうございました。とても楽しかったですし、この本も買う事が出来ました」
彼女は微笑む。私には彼女に一つだけ確かめておきたいことがある。
「あの」
「はい」
「先ほど言っていたお相手からの手紙は、どのように手に入れるのですか」
妙な質問である。私の頭には段ボール箱があった。しかし、彼女はどうしてそんな質問を私がするのかわからないと言った様子で、
「どのように? 郵便桶に届くのですよ。はじめに『文通をしませんか』というお手紙を郵便桶に見つけた時は少し怖いような気がしましたが、今は先ほど言ったようにとても勉強させていただいているので、あの時返事を書いて本当によかったと思っています」


私の心は打ちのめされていた。何もかもが偶然の一致であったのだ。なにもかもが私の思い違いであったのである。私はタツヤに入ってからの数時間で、最高潮の喜びからどん底の絶望までをたっぷり味わった。
「そうなのですか。私も帰ったらそのような手紙が郵便桶に入っていないかな」
と意味のない私の冗談をもって、私たちはそこで別れた。彼女は自転車に乗って帰っていった。私はと言えば、また一人、歩く。
 帰る道うつむいて歩いていると、自分の影の周りの光が青白いことに気付いた。ふと空を見ると月が煌々とその優しい光を投げかけている。私が立ち止まってその光を浴びていると、空から白いものが落ちてきた。無論、雪である。私はまた静かに歩きだし、家路を急いだ。


 家の近くの居酒屋では、今夜もどこかの学生が騒いでいる。

 


一月一七日.


 私が次の日の朝目を覚ますと、世界はぐわんぐわんと揺れていた。幼少の頃体験した阪神淡路大震災の比ではない。何しろ縦揺れ横揺れ斜め揺れ、世界はぐるぐる回っている。エライことになったとあわてて立ち上がると、足がもつれてその場に倒れてしまった。どういうことだ、いよいよ南海大地震かと大変あわてたが、なんのことはない。私は高熱を出していたのである。体が尋常ではなく熱い。
「体温計……どこにしまったか」
私はどちらかというとあまり病気をしない方である。世の中にインフルエンザなどが蔓延していたとしても、ケロリとしている。手をアルコールで消毒しろ、などという忠告には一顧だにしない。愚か者め、アルコールは飲むものである。大学四年間でも数えるほどしか体調を崩していない。たとえ崩しても金曜の夜から日曜の夜までの間に発病から全治までを終えてしまう。この体のおかげで授業を病欠したことは一度もない。
 しかし、それがゆえに直近の病気が一年以上前などというのはざらにある話である。よって体温計や風邪薬などの置き場所を毎回思い出せない。ただでさえ昔のことで思い出せないところに、今のように高熱が出ている場合は思いだせる可能性が限りなくゼロになる。私は地面に倒れてそのまま仰向けになると、とりあえずベッドに戻ることにした。熱が何度かわかったところで体が楽になるわけでもあるまい。這いつくばるようにしてなんとか布団の上に戻ることができた。


 記憶に残るうちで、私がこの下宿に来てから熱を出すのは三度目である。その都度思う事だが、一人暮らしで病床に伏すことほど孤独感に苛まれることはない。熱のせいで頭がぼんやりするし、視界は目を開いていようがいまいがぐらぐらと揺れる。体全体が重い。寝床から起き上がることはなるべくしたくない。しかし、起き上がらなければ水も飲めねば雑炊も食えない。ならば起き上がるほかはないが、まだ起き上がれるうちはよい。体内からの熱が体にまとわりつくように上がり、立ち上がることすらかなわない時、私はいつもこう思う。
「ああ、私はこのまま一人死んで行くのだろうか」
大げさな言い方であると思うかもしれないが、心の底からこう思わずにはいられないのである。喉が渇き、腹も減り、水や雑炊は欲しい。しかし、立ち上がれない。ましてや米を炊き、だしをとり、雑炊を拵えるなどということは話にすらならない。寝床でどんどん重みを増す体に縛られて、益々喉は渇き、益々腹は減る。そうしている間に水分や糖分の欠如のせいか徐々に思考が働かなくなる。起き上がろうという気すら失せてくる。何かあきらめに近いものすら、抱いてしまう。
 またあの孤独感と戦わねばならないのか、と思うと余計に熱が上がりそうだ。私は妙な考えを抱く前に眠ってしまう事にした。


 私が窓から外を伺うと、向かいの民家の影に、あるいは家の前の通り沿いにある自動販売機の影に、黒いスーツに黒のネクタイ、黒のサングラスにスキンヘッドという一様な風貌をした男たちがこちらの様子を探っているのが分かる。どうやら既に取り囲まれているようだ。
「万事休すか……」
私は誰にともなく呟いた。そうでもしなければ、その危機的状況に置いて自分を保っていられないような気がしたのだ。ふっと息を吐いた私はおもむろに洗濯用の竿を取り出し、部屋の東側と南側にあるカーテンレールに載せ、手早く洗濯物を干しにかかった。男たちが踏み込んできてもそれで身を隠すためである。私が最後のシャツを干し終わった頃に、扉がノックされる音がした。
「すみません、書留です」
郵便屋を装っていることは明らかである。私は洗濯物の奥で息をこらした。
「すみません、お留守ですか」
その声がしてしばらくの沈黙のあと、突然凄まじい音がしたかと思うと男たちはドアを蹴破って入ってきた。
「ここにいるのは間違いない、虱潰しに探せ!」
リーダーらしき男が叫ぶ。私はますます洗濯物の幕の奥で小さくなる。
 しかし、男たちの中の一人が私を発見した。まさか発見されるとは思っておらず、私は動揺を隠しきれなかった。
「ようやく捕まえましたよ、全くてこずらせてくれる」
リーダーらしき男が私に近づき、私の顔を覗きこむ。
「私を、どうする気だ」
「そんなこと、教えてあげやしません。お楽しみにしておいて下さい」
「むう……ふざけるな。私が何をしたというのだ」
私のその言葉に、男の口角はいやらしいほどに上がる。
「自分の胸にお聞きなさい。おわかりのはずですよ」
「くたばれっ」
男とそのようなやり取りをしていると、なにやら玄関口が騒がしい。それに気付いた頃には佳菜子さんが私のそばにいた。
「これで応戦してください。私は窓から逃げます」
そういって彼女は私に何かを手渡すと窓から飛び降りて、どこへともなく走り去っていった。
「ちっ、邪魔が入りましたか。しかし、あなたは逃げられませんよ」
男は懐から黒光りするピストルを取り出す。銃口が私に向けられる。私はあわててついさっき佳菜子さんから渡されたものを確認したが、それは奇妙なことにベイゴマである。
「そんなもので、どうやってやりあおうというのですか。あなた、馬鹿ですか」
「馬鹿は私ではないっ」
しかし、佳菜子さんを貶めるわけにはいかない。彼女は命を賭して私を助けにきてくれたのだ。なんとしてもこのベイゴマを役立てねばならぬ。


「馬鹿は貴様だ、これはこうして使うのだ!」

 

『岸田アパート物語』8号室

それから三〇分ほどして、過ぎ去った十一時よりも零時が近くなった頃、里美ちゃんが、
「明日一限あるので帰ります」
と言ったので、当然のごとく一番年少の森野が送っていくことになった。今日この二人は殆んど半日一緒にいたのではないだろうか、喜ばしいことである。里美ちゃんは別れのあいさつを済ませて岸田を後にした。


「あの二人、エライええ感じやなあ」
「水呑み男子にも春が来たのかしら」
「その事なのだが」
私は里美ちゃんの心中をこの二人に話そうと思っているわけではない。私が今日、森野との勝負をつけに昼過ぎに岸田に来た時のことを話すのである。
「そら、もう、そういうことなんちゃうの」
「でも森野は多分そうなる前に私たちに話してると思うよ」
「まあ、確かにそやな」
「やはり、そう思うか」
そうなのである。二人が既に「ふたりっきり」で森野の家にいることが当然の仲になっていれば、森野から何らかの報告があるはずであり、あるいは私には里美ちゃんから何らかの連絡があってしかるべきなのである。しかし、そのどちらもがないということになれば、事態はそれほど前進しているわけではないという事になる。
「まあ、若い二人のことだし、なるようになるわよ」
「それはそうだが……」
里美ちゃんの盟友である私としては、事態を捕捉しておきたいのが本音である。
「まあ、ええやん、草さん。飲もう」
「う、うむ」
そう言って私たちは弘毅が来るまでの間に、残りの酒を飲みつくしてしまった。そして、時計の針が十二時を過ぎた頃、弘毅と森野が連れだって帰ってきた。


「ただいま」
「お久しぶりです、みなさん」
そう言った弘毅の手には素晴らしい量のアルコールがぶら下がっている。
「でかしたぞ、弘毅。誉めてつかわす」
私はそう言って何人かの夏目漱石氏を私の財布から送り出した。避けては通れぬ別れといえど、やはり感慨深いものがある。しかし、それにかかずらっている時ではない。私は早速森野に聞いてみることにした。
「ところでだ、森野」
「ん?」
「今日の昼間、どうしてまた里美ちゃんと二人でいたのだ」
「え、森野、里美と二人でいたの」
だから今言っただろう、と言いたくなる弘毅の茶々が入る。
「ああ、あれ。里美ちゃんからメールが来てん」
「え、里美からメールが来たの」
「どういう内容のメールだったの」
好奇心の抑えきれなくなった香織嬢が入ってくる。だから今言っただろう、と言いたくなる弘毅の茶々も再び入る。
「今から行ってもいいですか、って。それだけ」
「え、そんなメールが来たの」
「それは、もう、そういうことやな」
郷田もたまらず参戦する。だから今言っただろう、と言いたくなる弘毅の茶々はきっちり入る。
「そういうことって……。そんなんちゃうやろ」
「それって、そういう事じゃないの」
「まあ、森野がそう思うのならいいんだけどね」
香織嬢が意味ありげな微笑を浮かべて言う。だから今言った(以下略)。
「森野は仮に、里美ちゃんが『そういう事』だったら、どうなんだ」
「どうするの」
「どうって……さあ、まあええやん、そのことは。飲もうや」
私は何とかそのあとも森野の本心を探りだそうと骨折ってみたのだが、うまくお茶で濁されてできなかった。にしても里美ちゃんは積極的である。先ほど森野が言った文面を送れば、ハイエナのように女性を求めている肉食系男子なら即「そういうこと」だと感知してしまうだろう。むしろ感知してほしかったのかもしれないが、さすが水呑み男子の面目躍如というところか。


「俺、里美のことはあきらめたけど、正直羨ましいよ」
少々酔っぱらった弘毅がだしぬけにこう言った。
「俺なんてさ、今でもメールに返信してもらえないし、電話しても出てもらえないんだよ」
訂正する。彼は相当に酔っぱらっているようだ。にしても、彼には忘年会で介抱してもらった黒髪の可憐な女の子がいるはずである。あれほど親身になって介抱してくれたのだ、何かあるはずである。にもかかわず、未だに森野にこのようにあからさまに嫉妬するとは。
「弘毅、お前、肉欲大魔神だなー」
酔っぱらった香織嬢である。郷田は既に寝ている。
「ち、ちがいますよっ」
「だってさ、こないだ別の子に振られたばっかでさ」
「ほんまやな。それにこないだも酔っぱらった女の子にしなだれかかられて、デレデレしとったもんな」
「それ、いつだよっ」
「この間。そこの飲み屋で飲み会やっとったやろ。あそこに俺もおってん」
「貴様、女なら誰でもいいのか。不埒な奴!」
「よっ、肉欲大魔神
香織嬢がなんとも下劣な囃子をしたのをきっかけに、おそらく大魔神の堪忍袋の緒がプッツンと切れたのだろう。彼は、
「ち、ちがうっ」
と声を裏返しにして怒鳴り、荷物を鷲掴みにし、凄まじい音を立てて扉を閉め、帰ってしまったのだ。家の中が一時静まり返る。


「ちょ、ちょっとやりすぎたかしら」
酔いがさめたのか、少し素面の声に戻って香織嬢が不安げに言う。
「まあ、明日なったら忘れとるやろ」
森野は全くもって気にしていない様子である。それは私も同様だ。
「香織嬢が謝りのメールを入れておけば大丈夫です。肉欲大魔神だから」
「そやな、命名も香織さんやし」
「了解いたしましたあ」
と、香織嬢は間の抜けた声でメールを作り始めた。私たちはと言えば、これまでのゲームの対戦成績が昼間の勝負で一対一になっていたため、その決着をつけるべくコントローラを握っていた。
「草さん、一週間のブランクはきついやろう。さっき、ボロボロやったやん」
「ふん。先のは勝負を面白くするための演出だ。あまり図に乗らぬがよいぞ」
「こっちの台詞やわ」
両雄再び相まみえる。二人の間には蒼い火花が散っていることだろう。


「そういえばさ、草さんは最近楽しいことないの」
メール作成を終えたらしい香織嬢が唐突にそう私に聞いた。
「ありますよ。近頃読んだ本で、江戸一八世紀は末のことなのですが……」
「そうじゃなくて、女の子関係のことで」
「女性、ですか。そんなもの私にあるはずがない」
「ほんとうに?」
なにやら疑われているようである。とはいえ、佳菜子さんのこともあれば、文通相手のことも、さらにはその相手がネットワーク上で不思議なことをしていることもあり、あるいはそれとの関連で態侘落先生に会ったり、兵頭茂に今思えば悪魔的な嫌がらせをしたりと、色々と岸田の面々には話していないことがあるので、香織嬢の懐疑は妥当と言えば妥当である。
しかし佳菜子さんのことに関して言えば誰に相談したところで今更どうにかなるものではないし、何しろ未練がましい自分が恥ずかしい。文通相手周辺のことに関しても、そのことについて他言すればもはや秘密遊戯などではなくその魅力が半減してしまいかねない。だから、どちらも言うわけにはいかないのである。
「本当です。悲しい位何もないですよ」
「ふうん、そうか」
「はい。あっ、しまった」
「草さん、油断したな」
香織嬢の突然の詮索に気を取られてしまい防御がおろそかになった私は、森野の必殺技をもろに受けてしまったのである。
「ふ、不覚……。しかし、まだ一回目である」
私たちはそのあとお互いの負けず嫌いのせいで結局深夜二時まで死闘を繰り広げ、結果十一勝十敗で森野の勝利と相成った。
「最初の一回がきいたんとちゃいまっか、草さん」
「ぐぬう。悔し過ぎる。しかし、きょうはこれまで」
「お、香織さん、こんなとこで寝とる。おうい、香織さん」
森野は香織嬢を引き摺っていくという。私はよろしく頼む、と言って自宅に戻ることにする。


 冬の空気は澄んでいる。鼻から吸い込むと、目の間の辺りがスゥーっとして気持ちがいい。そして何より、星が素晴らしくきれいに見える。私は星がとても好きだ。月と同じくらい、好きである。
私は小学生のころから、人といるよりも一人でいるのを好む子供であった。そのため、運動場にいるよりも図書館にいることが多く、低学年のうちに図書館に大量にあった子供向けに改められた西洋の幻想怪奇小説は全て読んでしまった。私の小学校の図書館にはその他に、春夏秋冬の星座にまつわる神話を縷々解説してくれている本があったが、それは三度ほど読破し、今でもそれらのいくつかは何も見ずに語れるほどである。
その星座の本へと導いてくれたのが、「禁帯出」のシールが貼られた星の図鑑であった。そのような本を初めて見た私は、一時期放課後に図書館が解放されると真っ先にその本を机に広げ、午後五時の閉館時間まで飽きもせずにずっと美しい星のカラー写真を眺めていたものである。

私はその本の中で「すばる」という星群が特に気に入っていた。すばるは西洋では「プレアデス星団」というそうだが、私はそれよりも和名の「すばる」という名の方が好きである。プレアデスという言葉の語源はよく知らないが、その語感は私にとても神聖な印象を与える。この名でもってあの星を見たときに、その光がとてつもなく遠い、それこそ神々の光のように見えてしまうのである。「すばる」の語源は「統べる」だそうだ。語源はともかく、この「すばる」という響きは私に清冽な水がパシャリッとはじけるようなイメージを想起させてくれる。
いつも近くにある水が、ふと見せる醒めるような輝きとあの星のあの美しい水色の光とが私には素晴らしい組み合わせのように思うのである。肉眼でも見え、双眼鏡ではもっと美しく見えるので、私は当時夜になると双眼鏡で空を見てばかりいたものである。


そんなことを考えながら、私はぼんやりと空を見つつ家路を歩いた。すると、星々が輝く間に、白いものがちらちらと揺れているのが見えた。
「雪、か……」
はらはらと舞い降りるそれが、空を見上げる私の唇に触れた。ひんやりとする。
「おお、雪だ」
酔っぱらっていたのもある。それは認めよう。しかし、私はむやみに嬉しくなってしまった。もう弁解はやめる。私は駆けだす。
「おお、雪だ!」
と叫びながら、駆ける。ますます嬉しくなる。


 どうしてこんなにうれしくなるのだろう、と考えてはみたが、答えは出なかった。

 

一月一六日.

 電話が鳴った。私は嫌な夢から覚めた後だった。仕方なしに電話に出ると、東京から今帰ってきたらしい長田である。
「ただいま。寝てた?」
「嫌な夢から覚めたところだ。そのせいですこぶる機嫌が悪い」
「嫌な夢?」
「誰かの手のひらの上で、次々に迫りくる妖怪どもを延々倒す夢なのだが、この妖怪が本気で私を殺しに来るものだから全く気が抜けない」
「手の平の主はわからなかったの」
「うむ……顎までは見えたのだが、それより上が暗くてよく見えなかった」
「なんだか気持ち悪いね」
「イライラしながら妖怪退治にいそしんでいたのだ」
「それは御苦労さま。ところで、こないだ頼まれてた件なんだけれど」
「そうだ、どうだった」


私は先日兵頭の所で切れていたあの妙な出来事の糸口を探すべく、長田に調査を依頼していた。この長田という男は、私と同じ学部の人間で、一見するといたって普通の大学生なのだが、その実態は全くもって違う。世の中のありとあらゆる方面の動向に精通し、理学部生徒とブラックホールのロマンについて物理の公式を使いながら歓談し(私には何が何だか皆目わからぬ)、スポーツ科学科の生徒とはより効率の良いトレーニングの方法について議論し、江戸学の教授と侃々諤々の論争を繰り広げた後、意気投合して酒を飲みに行った。
政治や経済、文藝・ファッション・芸能などなど、とにかくありとあらゆる情報を幾重にも積み重ねてその脳内に収納している男、それが長田である。この男はその情報収集力を生かして探偵稼業も営んでおり、学生ながら彼の評判はその世界では全国的に高名らしい。
「どうする? 電話でも報告できるけど……」
「会って話したい。今日の午後はどうだ」
「大丈夫だよ。なら図書館の前で」
「うむ」
彼はその仕事をするとき、全くと言っていいほど外に出ない。足を使わないのである。彼は日頃収集した情報を五十音順に並べて整理し、いつでもその情報を開けるようにデータベース化している。それを使って、その時々の依頼に類似した情報を引き出し、それを糸口にあらゆるところに網の目のように広がった人脈(彼はこれを「天網」と呼ぶ)を利用して「答え」にたどり着くのである。故に、彼は東京にいながらにして今回の私の依頼をこなすことができたのである。私は軽い食事をとると、図書館へと出かけた。


 図書館の前に行くと、長田はもうそこにいて、にやにやしながら書物を読んでいる。
「久しぶりだな」
「お、草人」
「何を読んでいる」
「『こわれもの』っていう、俺の尊敬する学者が書いている本。めちゃくちゃ面白いよ」
「また気が向いたら読もう。で、どうだったのだ」
「結構簡単に終着点まで行けたよ。そんなに複雑な構造ではなかった」
「して、例のサイトを作り、手紙を書いている人間は誰なのだ」
「でさ、その手紙のことなんだけど、その後どうしてるの?」
「文通は、続いている」
あの晩、私は気味が悪いながらも貼られた手紙を回収し、部屋に戻って読んだ。するとそこには相も変わらず彼女の美しい筆跡で文章が書かれていた。私はどうにもこのような字を書く人が、あんな妙な手口で手紙を運ばせているということが腑に落ちず、その日のうちに返事を書いたのである。それからも何度かやりとりをしているが、文面には何の変化もない。
「そうだとは思ったけど、一応確認したんだ。そして、そこがおかしい」
「兵頭の件も思い合わせれば、何かしらの変化があってもおかしくはないのだ」
「そうなんだ、なのに彼女はいたっていつも通り返事を送っている」
「もったいぶるな、はやく結末を言え」
「……」
長田は私がそう言うと、手元を凝視してしばし黙してしまった。この男の逡巡に何の意味があるのか考えてみようとしたが、おそらく私のような人間にはわかるまい。日頃は稀代の大知性を自称する私も、この男の前では赤子同然なのである。


「あのさ、草人」
「うむ」
「この依頼はね、君自身が、君の力で解決すべき問題だと思うんだ」
「どういうことだ」
「そっちの方が、君の為なんだ」
「……」
「俺を信じてくれ、きっとそうなんだ」
「しかし、私にはもう解決に至る糸口が見えなくなってしまっている」
「うん、だから、ヒントは出す。だけどその糸を手繰るのは、君じゃなくちゃならない。当然、相談料はとらない」
「お前がそこまで言うのなら、しかたあるまい」
「わかってくれてうれしい」
彼は心底ほっとしたようにそう言う。
「で、ヒント、なんだけど」
緩んだ顔の筋肉をいっきに引き締めて、彼は切り出した。
「君が持っている情報だけでも、彼女とそのサイトの管理人が別人だってことがわかるよね」
「というのは」
「彼女が君のイメージ通りの女性だった場合を前提として、彼女とサイトの管理人が同一人物だった場合、さっき言ってたみたいに何かしらの変化がおきるはずだろう?」
「うむ」
「だから、同一人物の線を消すことができる。で、じゃあどういう構造なのか、ということだけれど」
「そう、そこだ」
「可能性は三つある。第一にサイトが依託制になっていて、文面をどこかに貼り付ける仕事を専門に請け負っている。彼女はそのことをどこかから聞きつけて、依頼をした。君と兵頭との間にあった一件は当然管理人にもバレている筈だ。しかしそれを管理人は彼女に報告していない。サイトの落ち度になるからね」
「なるほど、しかし……」
「そう、兵頭のバイト料が一万円と言うところに少し違和感がある。そこまで給料が高いとなると、彼女の依頼にかかったお金はもっと高くなる。いくら退屈しているからと言っても、ちょっと変だ」
「この線は薄そうだ」


「そこで、第二の可能性だ。彼女とサイトの間に、もう一人介在者がいる場合を想定する。彼は彼女のことを気にかけていて、彼女のために何かしてやりたいと思っている。資金力も十分だとしよう」
「彼は彼女から手紙を預かり、サイトの人間に渡す。それが私の駐輪場の段ボール箱に貼られる」
「これなら君と兵頭の一件が彼女に伝わっていない可能性が、より考え得るものになる。介在者が増えるほど、その可能性は濃くなるだろう」
「三つ目は?」
「この介在者が、サイトを作った。あるいはサイトの管理人が介在者になった。ここは大差ないね」
「なるほど……」
長田はそこまで言うと、荷物をまとめて立ち上がった。
「ヒントはここまで。あとは何とか頑張って」
「おいおい、新しい情報は何もなかったではないか」
「それをあげるとあっという間にわかっちゃうんだよ……にしても君は幸せ者だ」
「何?」
「まあ、態侘落先生にでも聞いてみるといいよ」
私が呼びとめるのも聞かず、彼はそう言って去っていってしまった。
「聞いてみるといいと言われてもだ……」
先生は神出鬼没、何処に現れるかもわからんお人なのである。とにかくも今の長田との話からでは、彼女についても、サイトについても、その想定される介在者についても、何もわからない。なんだか煙にまかれたようですらある。
「私のため、か……一体なんだというのだ」


私はその場で考え込んで、終いには眠り込んでしまった。疲れるような夢を見た時は決まってこうなのである。おそらく熟睡していないのだろう。
「はっ」
 寒さに目を覚まし、辺りを見回して自らの状況を把握する。ほっと一息つくが、視界の端に妙なものが映り込んだような気がしてその方向を再度確認した。すると、そこにはベンチに横たわる老人がいた。無論、態侘落先生である。こんな短い間に角田先生おっしゃる所の「僥倖に近い幸運」が二度も訪れていいものだろうかと不安に思う。
「先生!」
「……」
熟睡しておられるようである。だからといって、このチャンスを逃すわけにもいかぬ。私は先生の近くまで行き、肩を叩いて揺さぶった。
「先生、起きてください」
「ん?……貴様か」
「貴様かじゃないですよ、お聞きしたいことがあるのです」
「……かるか」
「は?」
「寝起きに貴様のような汚い面を見せられた私の気持ちがわかるか、といっている」
「す、すみません」
深いため息をついて先生は体を起こし、私を向かいのベンチに座らせた。
「で、なんだ、聞きたいことというのは」
「以前言われた男を追いかけたのですが、彼からは結局あまり有益な情報は得られませんでした。」
「そして、また私に何か言ってほしい、と」
「はあ」
「貴様は全くもって他力本願だのう」
「すみません」
「まあ、しかたあるまい。ではの、今日の夜、貴様の平生の散歩をせい」
「先生はなぜそれをご存じで」
「儂はなんでもしっておるのだ。いいか、いつもの道順をあるくのだ」
「はい」
相変わらず雲のように曖昧な助言である。
「よし、儂は腹が減った」
「では、言われたとおりにします。ありがとうございました」
「ちがう」
「え、別のことをしろと?」
「ちがう、ちがう!」
先生はもうどう考えても、どう見ても癇癪を起した老人である。
「何なのですか」
「飯を奢れというているのだ!」
癇癪老人は憤然と言い放った。
「そうならそうと言えばいいでしょうが!」
「愚か者、気づけ!」
私はなおもぎゃあぎゃあと喚く先生をなんとか宥めすかしながら食堂へと連れて行った。


 私は鶏のから揚げに大根のすりおろしとネギを載せ、最後にポン酢をかけた通称「とりポン」とほうれん草のおひたし、そしてライスのMをトレイに載せ、レジを通過した。私が先生の分のお茶を持って席についてもまだ先生は迷っている。私は呆れているそぶりは極力見せぬようにして先生のもとに近づいた。
「何を、迷っておられるのです」
「迷ってなどおらん。チキン南蛮か鶏のから揚げポン酢かで決めあぐねておるのだ」
「それを俗に迷っているというのです」
「貴様の俗人ぶりを自慢されても儂は困惑するほかないぞ」
「まあいいです。で、どちらにするのです」
「待て、今考える」
一分ほど先生はなにやらぶつぶつと言いながら決める努力をしていたが、それは報われそうにはなかった。
「先生」
「なんだ」
「鶏のから揚げポン酢は私も頼みましたから二つほどお分けします」
「何? それをさきに言え」
威厳たっぷりにそう言うと、先生はチキン南蛮をトレイに載せた。私がレジで会計を済ませ、ようやく席に着くことができた。
 食べ終わると、つまようじで歯の間に挟まったものを取り除きながら先生がだしぬけに言った。
「あのような者が、近頃の大学生の典型なのか」
先生が指差す先を見ると、恋人同士であろうか、男女が仲睦まじ気に歩いている。
「まあ、所謂という感じはありますが」
「ほう、貴様は典型ではないのか」
「私、ですか」
私の頭にはそれまでの大学生活が走馬灯のようによぎった。このままこと切れてしまえばどんなにいいかと思う程、軟弱な日々である。
「私はこの四年間、何もしてきませんでした。私には何もありません」
「……」
先生は黙している。私は続けた。


「一年生の頃は確かにあのような典型的大学生を目指したこともありますが、結局私には向いていなかった。普通の女性と気兼ねなく話すなどということは、私にはどだい無理な話なのです」
先生は何も言わない。
「だからでしょうか、私は活字の世界の中に自分の理想郷を見たのです。自分のペースで歩むことができて、かつ書き手との対話も何度も繰り返すことができる。……それは今思えば逃げているだけだったのかもしれません。しかし、私にはそれしかなかった」
私がそこまで言うと、先生は無言で立ちあがった。
「貴様は、何も見えておらんのだな」


それだけ言うと、御馳走になった、と言って呆然とする私をその場に置いて食堂から出て行ってしまった。

 

『岸田アパート物語』7号室

私はまず彼の生活領域に突如現れることから始めた。つまり、彼が生協の購買などで立ち読みしているのを見かけたら、知らぬ顔で隣で雑誌を立ち読みする。あるいは彼が食堂で友人たちや女の子と食事をしているのを見かけたら、同じく知らん顔で隣のテーブルに座り、黙々と食事をする。
私は四年なので講義はもうないし、ましてや理学部の講義などに出るはずもない。しかし彼の姿があれば私はそのすぐ近くに座り、何をするともなくぼんやりとしていた。そうこうしているうちに、彼の様子に変化が現れ始める。眼が血走り、常にきょろきょろと辺りうかがうようになったのだ。明らかに私の存在に怯え始めた証拠である。
ここで私は第二段階に入る。彼の下宿の前にゆで卵を大量に並べる、という悪魔のような所業を四日ほど続けて行い、とうとう身も心も荒みにすさんだ五日目の彼が、朝扉から出たとたんに満々と水をたたえたドラム缶を彼めがけてたおすことで、私は彼にとどめを刺した。彼はその場で泣き出したのである。


「もう、もう許してくれよ……」
「観念したか。私から逃げられるはずもないのだ。さあ、洗いざらい吐け」
注記しておくが、私はこの男が何者なのか、何を知っているのか、それらについて何の情報も持っていない。態侘落先生が兵頭茂に向かって走れと言われたから走り、彼が逃げたから追いかけ、逃げ切られたから数々の責め苦を施したのである。しかし、兵頭は洗いざらい吐き始めた。いよいよ先生の慧眼に感服せざるを得ない。
「俺はあの夜から三日前に、サイトを見たんだ」
あの夜、と言ったという事はあの時の黒ずくめの男が兵頭であったということか。全く気付かなかった。
「サイト、というのは?」
「あんた、ほんとうに何も知らんのだな。そのサイトはパスワードがないと入れないらしいんだが……」
「どうしてお前がパスワードを知っている」
「それが、俺もよくわからないんだ。ある日メールが来て、いいバイトがあるからURLにアクセスしろって書かれてあって」
「で、アクセスしたのか」
「うん」
「馬鹿か、お前」
「うるせえ。で、アクセスしたらあの仕事を頼まれたんだ。一回一万円で。」
「確かに割のいいバイトだ」
「この話を友達にしたら、みんな知っていた。けど危なそうだからみんなやらないって言ってたよ」
「それはそうだろう。怪し過ぎる」
「でも、そのサイトには『貼り屋』専用の掲示板があって、俺以外にも何人かの人間が書き込んでいるんだ。それで、仕事を請け負ったのさ」
貼り屋とはおそらく、段ボール箱に手紙を貼り付ける人間のことだろう。
「そのサイト、今見られるのか」
「いや、俺はあの晩しくじったから、もうアクセス制限の対象になっている」
「……そうか、わかった」
私はそう言って彼を解放してやった。
「今まで済まなかった。今日からは平穏に暮らしてくれ」
私はとりあえず、態侘落先生にもう一度会おうと思った。

 


一月十四日.


 私は兵頭茂の下宿を後にして、大学へ向かった。態侘落先生が何処の学部で何を専門としているかは見当もつかなかったが、手始めに私のゼミの教授に尋ねることにした。研究室のドアをノックすると、か細い声で返事が返ってきた。失礼します、と言って入室する。
「あれ、ど、どうしたの」
「先生に聞きたいことがありまして」
「え、あ、ん、なになに」
私のゼミの教授、田村先生は博識で発想力もあり、世の中に認められる知性だと常日頃から思っている。しかし、二年来の関係である私にもいまだに挙動不審のままという極度の人見知りである。それに加え、ちょっとした宴会の乾杯の音頭をとるのでさえ、
「何て言えばいいの」
と私に小声で相談するほど人前で話すのが苦手な、極度の引っ込み思案でもある。おかげで学会の発表ではロクに話すこともできず、
「僕が書いたものを発表するなんておこがましい」
と言って論文を発表することもしない。そんなことだからいつまでたっても浮かばれないのである。
「先生は、態侘落先生ってご存知ですか」
「て、態侘落先生? う、うーん、聞いたことはあるけれど」
「何処の学部なのですか?」
「が、学部は、ぼ、僕と同じだよ、確か。で、でも見たことは、な、ないねえ」
「そうですか……」
「す、角田先生なら知っているかもしれない。あ、あの人、ここ長いから」
「わかりました、聞いてみます」
「うん、うん」
「じゃあ、失礼します」
「うん、うん」


私はその足で角田先生の研究室に向かう。角田先生は哲学コースの重鎮で、何でも二十年以上はこの大学にいるという噂の大先生である。文章として発表することをあまり好まない角田先生が二年前に初の著書を刊行された。私は当時哲学に大いに興味を持って様々の書物を読んでいたので、角田先生と少しだけ親交があったという事も手伝って、六三〇〇円するその書物を購入したのだが、難解すぎてわずか一二頁で膝を折った事を覚えている。私が文学やその周辺の文化史などに興味を移してから自然疎遠になっていたが、角田ゼミの友人に聞くと、今なおあの頃と変わらぬ異彩を放っているそうである。
 扉をノックすると、針のように鋭い返事が返ってきた。
「し、失礼します」
「君か。久しぶりだ。どうした」
「おききしたいことがありまして」
「なに」
「角田先生は、態侘落先生をご存知でしょうか」
私がそう聞くと、それまでしかつめらしい顔をしていた先生が破顔した。
「君、態侘落先生に会ったのか」
「はい」
「どうだった」
「どうと言いますか……変わったお人で、はじめは人間ではなく魍魎の類かと思ったくらいです」
「はっはっは、そうかそうか。お変わりなしか」
角田先生が笑ったのを初めて見たように思う。
「先生は、態侘落先生をよく御存じなのですか」
「それはもう、大変お世話になった。あの方は今のところ、私が生で見た最初で最後の哲学者だ」
「え、哲学の先生なのですか」
「著作も論文も全くと言っていいほどないがね。前に発表したのは四〇年以上前ではないかな」
「それって……」
「そうだ、この大学に採用が決まったときの院生時代の論文以来かいていない」
「へ、へえ……。」
「で、態侘落先生がどうした」
「その、お会いしたときに少しお世話になりまして。お礼を申し上げたくて」
「もう一度会いたい、と」
「ええ」
「それは極めて困難だな」
「なぜでしょう」
「先生は大抵色々なところを転々としながら、寝床を探しておられる」
「ええ、私がお会いした時もそうでした」
「それは本当に、僥倖ともいうべき幸運なのだ。先生は同じ所では二度と眠られない」
「ということは」
「そう、何処にいるかわからない。先生が研究室に帰って来られなくなってから幾年月、という程だ」


「なぜ帰って来られないのですか」
「研究室内に先生が寝たことがないところがなくなったからだ」
「なるほど……わかりました」
「すまない、力になれなくて」
「いえ、次の僥倖を粛々と待つことにします」
「そうだな。先生のお話ならいつでもしてあげるから、また来なさい」
「はい、ありがとうございます。失礼します」
私が扉を閉じたあと、角田先生が、なんだかやる気が出てきたぞ、と大きな声で言っているのが聞こえた。角田先生はよほど態侘落先生を尊敬しているらしい。

 とにもかくにもこちらから会いに行くことができないとなれば、再び会えるのを待つしかない。私は別方面から手紙の件についての調査を進めることにした。あと数日待てばある人間が帰ってくる。彼に会えば何かわかるだろう。私はそう合点して、ひとまず帰路につくことにした。


 家に帰り、時計を見るといつの間にやら昼飯時である。炊き込みご飯が余っていたことを思い出し、それをレンジにかけて食べようかとも思ったが、三合分も一人で食べると同じ味は飽きてくる。そこで私はショウガとニンニク、ネギやらなんやらを付けたして、炊き込みご飯炒飯なるものをつくることにした。これの美味さは立証済みである。美味くて早くて冷蔵庫の掃除にもなる。一石三鳥とはこのことだ。自らの錬金術的発想ににんまりとして私は手早く炒飯を作り、それを食した。満腹になったところでぼんやりと何を考えるともなく考えていると、そう言えばここ一週間とりつかれたように兵頭茂を追いまわしていたので、全く岸田に顔を見せていないことに気付いた。
「そう言えば、決着もついておらんな」
決着、というのは一週間前に始まった森野と私の格闘ゲーム対決のことである。私と森野の格闘ゲームの技術レベルが気持ちのいい位互角で、何度やってもギリギリの勝負になるのでこれまで様々なゲームで死闘を繰り広げてきたのであるが、また新しいゲームにおいて一週間前に両雄相まみえたのだ。その時は私が僅差で勝利し、深夜二時まで及んだ戦いは幕を引いたのだが、惜しくも敗北を喫した森野が別れ際にこう言ったのである。
「三番勝負やから」
私はその挑戦状に対して不敵な笑みでこたえたのだ。それから一週間、おそらく彼は死に物狂いで修業を積んでいたに違いない。そのような彼相手に、一週間奇行に没頭していた私がかなうのかと言われると、自信を持って答えられるわけではない。わけではないが、ここで逃げては男がすたる、逃げるわけにはいかないのである。
「むんっ」
と勇ましい声をあげて私は立ち上がり、岸田へと向かった。


 簡単に言えば、その時の私の威勢は、間の悪いものだった。
「いざ勝負つかまつら―ん」
と森野の家の扉をあけると、森野と里美ちゃんが二人だったのである。いや、ふたりっきりだったのである。
「草さん、久しぶり。やるか」
と森野は一点の曇りもなくいつも通り。
「草さん、あけましておめでとうございます」
と里美ちゃんもいつもどおりである。しかし、私だけは何処をどう考えても自分が間の悪い男であることを自覚せずにはいられなかった。なにしろ、ふたりっきりなのである。だからと言って、
「お邪魔しました」
などとその場から撤退するわけにもいかない。あまりにもそれは無粋というものである。
「おう、おめでとう」
などと平静を装い、私は森野宅に腰を下ろした。
「草さん、勝ち逃げしたんかと思ってたわ」
「そんなことするわけがない。少し野暮な用があったのだ」
「ふーん。まあ、ええわ」
そういって森野はゲーム機の電源を入れた。この森野がここ一年ほど当たり前のように使っているゲーム機は、あたかも彼の持ち物のように見えるが、実はそうではない。かといってかくいう私のものでもない。私のゲーム機はゲーム以外の目的のために我が家の棚に鎮座している。これは、郷田の所属する学生団体のものなのである。団体が使用する部室のような所にずっと誰に使われるでもなく放置されていたゲーム機を、郷田曰く、
「救ってやった」
のである。郷田のその多少我田引水気味の救助活動によってこのゲーム機はその本分全うできない屈辱的状況から抜け出し、此処森野宅において目下フル稼働中である。


「この何週間か、里美ちゃんは何をしていたのだ」
「いろんな人に会いましたねえ」
「いろんな人?」
「ええ、地元の友達とか、高校の先生とか」
「どうだった」
「岸田があってよかったな、と思いました」
「ほお」
私と森野は思い思いのキャラクターを選んだ。
「他の大学に行った友達は、なかなか岸田みたいな関係は作れていないみたいでした」
「まあ、ここのような関係はなかなかあるまい」
「郷田が、いい意味で変わってるからなあ」
と言いながら森野は私に必殺技を決めてくる。
「あれほど自分の家で宴会だの食事会だの開く人間はなかなかいない」
「そうですよね、あと千沙さんの力もあります」
「ああ、あの変態球形哺乳類か……てえいっ」
私の必殺技が森野に決まる。
「やつのフランクさはどんな精神的障壁もたたき壊すからな」
「そうなんですよ、尊敬します」


 千沙がオーストラリアに行く前、私たちは四日間連続で飲み会を開いた。その時はちょうど四月の末だったので、多くの新入生が岸田に出入りする季節でもあった。故に、その千沙の送別会と称した飲み会は、千沙の全く知らない人間も多くやって来ていたのだが、彼女は全く気にしていないようだった。
彼女は規格外の酒乱怪獣たちに囲まれて萎縮してしまっている新入生に、なんともやわらかなアプローチを図り、見事仲良くなることに成功してしまったのである。彼女は変態だが、素敵な人間なのだ。
 そうこうしているうちに森野のコンボが決まり、私のキャラと心は打ちのめされた。
「よっしゃあ」
ギリギリの勝負を制した森野はこの上なく喜んでいる。そんな森野を里美ちゃんがなんだか嬉しそうに観察している。私はこの上なく気まずい。
「あ、そうや、今日の晩飯やけど」
「うむ」
「里美ちゃんと郷田らとで鍋でもしよういうてるんやけど、草さんも食うやろ?」
「そうだな、頂こうかな」
「そしたら、もう五時やし、そろそろ買い出し行こうか」
「キムチ鍋にしましょう」
「それはいい」
という事で私たちは外に出たのだが、私はその時妙案を思いついた。流石と言わねばなるまい。
「すまない、少し調べ物があるのを忘れていた。どうしても今日中にやっておきたいのだ」
つまり、森野と里美ちゃんのふたりっきりを邪魔した償いに、ふたりっきりで買い物に行ってもらおうという計画である。
「あ、そうなん。そしたら二人で行くわ」
「お勉強、頑張ってください」
「うむ。よろしく頼む」
そう言って私は意気軒高に我が家への道を歩いた。我ながら素晴らしい演技力であった。これを機に、近頃疎かにしていた部屋の掃除をしてしまおう、と決めた。今の下宿を出る日もさほど遠いわけでもない。


 一時間ほどして森野から連絡があったので、私は岸田に向かった。今日は森野がどうしても見たいテレビがあるというので、テレビのない郷田宅ではなく例の地上デジタル放送対応の液晶テレビのある森野の家に集まる。ということだったので、私は森野の家の扉を開いた。森野の家は玄関を開いてすぐの所がいわゆるリビングで、そこにこたつやテレビ、暖房器具などが置いてある。そしてその奥が台所で、さらに奥まった所に無理やり取り付けたと思しいユニットバスがある。そして今、台所では里美ちゃんと森野がなにやら仲睦まじ気に会話を交わしながら夕食の準備をしている。二人で買い物に行き、二人で食事の準備をするなどもはや夫婦ではあるまいか。
私は何とも羨ましい二人の光景に少し嫉妬はしたものの、やはり里美ちゃんという盟友の恋がうまくいっているのは何にもまして嬉しいものである。私は二人に声をかけることはせず、静かに机や床を片づけることにする。


「森野さん、ネギは斜めに切るんですよ」
「え、そうなん。いっつも適当にやっとったわ」
「まあ、なんで斜めに切るかは知らないですけどね」
「でもなんか、たしかにうまそうやわ、ありがとう」
「いえいえ」
などという他愛もない、しかし事情を知る私からはなんだか妙に浮かれた気分になってしまう会話を聞きながら、私はてきぱきと部屋を片付けていく。心も体もたくましい森野は、思いのほか身辺を片づけるという事をしない。汚れているわけではないが、散らかり方はなかなかのもので、なぜこんなところに箸がというようなところに一本だけ転がっていることもままある。
これは郷田に関してもそうだが、森野は箸が一本なくなったところで別の箸を使えばよい、別の箸の片方がなくなればむしろしめたもの、その前になくなった箸と組み合わせて使えば万事がうまくいく、という思考回路を持っている。そのために炬燵の敷物の下から種類の違う箸が一本ずつ出てきたりするのである。部屋の掃除をしないことに関しては自分も人のことをとやかく云える身分でないのは重々承知の助だが、この箸の件に関しては私はどうにも我慢のならない気質である。岸田でいざ食事という時に、
「ああ、草さん、その箸、一本なくしたやつやわ」
などと言われれば、
「先に食べておいてくれ」
と言ってまで、その孤独にうちふるえている箸たちをどうしても出会わせてやりたくて、私は必死の捜索を開始する。まこと慈悲深き所業と言わねばなるまい。断じて片方だけは気持ち悪いから、などという感覚的な目的で動いているわけではない。念のため。


 そんなこんなで片割れの箸を三本ほど見つけた頃に、森野が私に気がついた。
「草さん、おるなら言うてや」
「すまない」
「びっくりしたわ、なんかもぞもぞ動いとるから何者かとおもたやんか」
「もぞもぞとは失敬な。ほれ、箸が三本もあったぞ」
「お、ありがとう。道理でなんか最近箸少なくなったなあ思とってん」
「どうしてそれで探さんのだ」
「え、何となくかな」
フハハハハと素敵に笑って、彼は再び調理に戻った。里美ちゃんはといえば黙々と人参の皮をむいている。
 六時半ごろになってデートに行っていたという郷田と香織嬢が森野宅にやってきた。
「何処に行っていたのだ」
「海を見に行ってたの」
「めっちゃ寒かったわあ」
「貴様はよくその図体で寒いなどと言うな」
「草さん、俺も人間なんですよ」
「それは知らなかった、考えを改めるとしよう」
「よろしくたのんます」
「森野、ビール買ってきたよ」
「お、香織さん、ありがとう」
奥から出てきた森野が言う。
「あら、里美ちゃん、もう来てたんだ」
「はい、お久しぶりです」
森野の後ろから里美ちゃんが顔を出す。
「今日キムチ鍋やから」
「お、それならビールにぴったりだね」
「それは素晴らしい、さすが香織嬢」
森野は鍋の仕上げをし、郷田と香織嬢は隣室の郷田宅から食器類を持ってくる(森野の家の食器だけでは五人分に足りな)、私は掃除の仕上げに机の上を濡れた布巾で拭き、そのあとのから拭きも済ませる、里美ちゃんは調理で出た生ごみなどの処理をする。いつもの要領で各々が仕事を見つけ、七時前には皆が鍋を囲んで炬燵に足を入れていた。


「お腹すいたわ―」
「早く食いたいものだ」
「まあまあ、その前に乾杯でしょ。里美ちゃんはどうする?」
「ビール、飲んでみます」
「え、どないしたん」
里美ちゃんはいつもチューハイか梅酒と相場が決まっているのである。その彼女がビールに手をつけると言ったので、森野が少し驚いたように言う。
「なんだかいつもチューハイとか梅酒なので、せっかくいろんなお酒があるのに、それ以外が美味しく感じないなんてもったいないなと思って」
「確かにそうやけど、無理しなや」
「はい」
森野が心配そうに彼女にそう言ったので、少し嬉しそうに里美ちゃんは返事をした。
全員のコップにビールが注がれ、夕食が始まった。
皆の腹が満杯になり、しかしアルコールへの欲求がより一層高まったころ、時計の針は十一時を指していた。


「酒が、足りん」
私が言う。
「俺もそう思う」
森野が言う。
「無論よ」
香織嬢も同調する。
「弘毅呼ぶか」
郷田がこの上ない提案をした。彼に買ってきてもらうのである。当然金は出すが、この寒い中誰かが買いに行くという禅寺の修行僧かというほどの苦行を免れるというのはとても大きい。全会一致で郷田の提案が可決され、それは即実行に移された。
「もしもし、弘毅。そう俺。今から岸田おいでや。あ、そうそう、酒買ってきてくれん?うん、なんでもいいから。はい、おねがーい」
そう言って郷田が電話を切る。
「来るって」


満足そうに一同は頷く。

『岸田アパート物語』6号室

私はその時、ひょっとして奴は森の賢者か何かかと思ったものである。とにかく彼の言葉は私の腑にストン、という気持ちのよい音をたてて落ちた。それからしばらく彼の言葉をかみしめるように、小一時間ほど河原に一人坐していた。


 それからしばらくして後に、私は自宅付近にて森の賢者と再会するのだが、その後の私たちの関係は読者諸賢の知るとおりである。郷田はその時のことをあまり覚えていないという事だが、私はそれ以来人を否定することをやめ、色眼鏡で見ることもやめた。外見を気にすることをやめたのもその時期であるから、それが私の大学生活にどれだけ資する所あるかは定かではないが、とにかく生きるのが楽しくなったのは確かである。
 と、そんなこんなで過去にばかり浸っていると、気づけば外はもはや暗くなっているではないか。残りの部分をさっさとやってしまおうと、寸分の無駄もない動きで掃除を実行していると、この日一番の「イタイトコロ」が出てきてしまった。それは、佳菜子さんから頂いた、一冊のノートである。


「私が、草人さんの頭の中を覗くための、ノートです」
と素敵な笑みを浮かべて彼女はそう言った。
「はあ」
と私がその笑みに照れながらも、その意図を解しかねている様子を見せると、
「草人さんは、ただご自分の思いつかれたことなどを、ここに書いてくださればよいのです。」
「はあ」
「それを私が読むのです。」
「ああ、それで私の頭を覗く、ですか」
「はい」
彼女はさらに素敵にほほ笑んだ。


 それがこのノートなのである。何の変哲もない大学ノートなのだが、彼女の美しい筆跡で「草人さんの頭の中」とタイトルが記されていて、私の感興をおのずから催しめる。ぱらぱらとめくってみると、どうしようもない思い付きから、どうしようもない思い付きまで、つまりどうしようもない思い付きばかり記されていた。諸々の読書体験から得た感動などである。それに彼女は逐一コメントを記してくれている。感極まるとはこれだろうか、胸が苦しくてとはこれだろうか、私はこの日二度目の涙を流した。
 その時である(私の感興は外部からの干渉によって邪魔される傾向にある)。私は掃除に伴って舞い踊る埃による空気のよどみを解消すべく、窓を開け放っていた。だからであろう、ティシューで涙をふき、鼻水をかんでいた時、階下で何やら音がしたのを耳にした。
「もしや」
手紙の主ではないか。私はそう考えた、いや感じたと言ってもよい。私は心身に纏わりつく過去や現在や未来の諸々の懸念をえいやと振り払い、外に出て大急ぎで階段を駆け降りた。するとそこには上下黒づくめで黒のニット帽をかぶったマスクの男が必死に何かを段ボール箱に貼り付けている姿があった。私は一瞬間言葉を失ったが、自らを奮い立たせ、声をかけた。少し、震えていたかもしれない。
「……あなたが、手紙の主でしょうか」
ギクリと体全体を飛び上らせた男は、突然私に突進するかと思うとその脇を抜けて逃げようとした。私は思わずその腕を捕まえていた。
「答えてくれ」
私の声は半ば懇願するようにすらなっていた。想像していた結末と、あまりにも懸隔がありすぎる。黙する眼前の男の返答を、私は待った。しばらくして、男はあきらめたように口を開いた。
「ちがう」
「ほんとうに?」
「俺は、うまいハナシに乗っただけだ」
「頼まれた、ということか」
「そう」
ただの文通にしては、あまりに手の込んだやり方ではあるが、郵送ではなく段ボール箱を介しているという時点で、そもそもただの文通ではない。何かしら「裏」があってしかるべきなのである。しかし、あの手紙の文面に裏があるとは考えにくいのもまた事実である。
「誰に頼まれたのだ」
「わからない、俺たちはあそこに紙を貼って、金をもらうだけだ」
「たち?」
私がそういった瞬間、男は私の手を振り払って走り去ってしまった。たかが段ボール箱に紙を貼るだけのことに、いったいどれだけの意味があるのだろうか。問い詰められて話せないほどに、その秘密の露見はあの男にとって不利益になるものなのだろうか。たった今交わした会話からはそれらの疑問の答えになる何ものも得ることはできなかった。


 私は段ボール箱まで戻り、いつも通りその手紙を剥がしとったが、先ほどのような出来事の末に手に入れたものであるから、なんだかすこし不気味である。しかしそこにはいつもと変わらない「彼女」の筆跡があった。私は「カネかモノを要求されるまではこの秘密の遊戯を愉しんでもよい、但し深みにははまるべからず」という、この文通を始めた時に自らに課したルールを思い出し、後半の部分には些かの不安があるものの、まだその要旨には抵触してはいまいと考え、その「彼女」からの手紙を丁寧に折りたたんで、懐に納めた。
「とにかく、飯にしよう」
私は誰にともなくそう言って、自室への階段を上った。

 


一月六日~一月十四日.

 私の小さな頃の夢は、野球選手だった。人並みに無邪気で、人並みに夢見がちであったということだ。人並みに恋もし、人並みに恋破れた。国破れれば山河があるが、恋破れた後には何が残るというのだろう。今の私には後悔としか答えようがない。
 あの日の夜から一週間ほど、私はあまりよく眠ることができなかった。あの黒ずくめの男の言動がどうしても気になったのである。文通の相手の女性(仮)が私と同じ大学であるとするならば、まず間違いなくあの男もそうであろう。そしておそらくその他の男たちも。ということは、虱潰しに構内の男どもを問い詰めれば必ず突き当たるということだ。しかし、私にそんなことをする度胸などあるはずもない。しかし気になる、でも度胸がない。そういう堂々巡りを延々と続けていたのである。気づけばもう年も明けて、大学の講義もはじまってしまった。むくりと布団から体をおもむろに起こした私は、そのまま大学へと赴いた。
 一週間堂々と堂々巡りをしながら、練りに練りすぎて逆に液化してしまいそうになった「虱潰し」作戦を実行に移すか否かと思案しながら大学まで歩いてみたが、私の思考は臆病大迷宮をぐるぐるぐると回る一方で、一向に決断する気配が見えない。茫然として図書館の前のベンチに腰かけていた。
「貴様」
私はビクリとした。あまりにも突然の声であったのだ。それまで人が私に近寄ってくる気配など微塵もなかったのである。一睡もしていないせいで脳が私をして幻聴を知覚せしめたのかと疑ったが、声のする方向に顔を向けるとそこには確かに人がいた。しかし、普通の人間ではなさそうである。その男は長く伸びた髪を束ね、髭を胸のあたりまで伸ばすに任せ、そしてスーツを着ていた。しかしそのスーツも全くもって折り目正しくはなく、全体的にしわだらけでスーツがフォーマルウェアであることに疑念を抱くほどに、彼のそれはカジュアルダウンされていた。
「貴様」
男は同じ言葉を繰り返した。よく見てみたが、その風体も一向に変わり映えがしない。
「なんでしょうか」
「そこは、儂の場所だ」
「いえ、ここは公共の場所です。あちらにもベンチがあるので、あちらをどうぞ」
「やかましい。儂はそこで眠るのだ」
「やかましいもくそもない。眠るのなら別のベンチでもできるし、というか家で寝てください」
私がそう言うと、その怪人はしばし沈黙した。あの程度の説得に応じるような外見には見えなかったが人は外見には寄らないな、反省しよう―――などと思った私は限りなく聖人に近い。男は激怒したのである。
「喝!」
と耳をつんざくような怒声を発したかと思うと、男は背中に仕込んでいたらしい木刀を取り出した。正気の沙汰ではない。第一、正気の人間がこのような風体を衆人に晒すことなどできはしまい。
「ま、まあ、ゆっくり話し合いま」
「問答無用!」
男は木刀を一直線に私の脳天めがけて打ちおろした。それを間一髪でかわした私はすぐさまそのベンチを立ち退く決心をした。ベンチはほかにもいくらだってある。私がほかに移って事が丸く収まり、おまけに自分の身の安全まで確保できるならそれに越したことはない。
「わかりました、どうぞ、どうぞ!」
そう言って私が席から立ち上がると、男の怒りの烈火は瞬く間に鎮静し、木刀も納められた。
「はじめからそうすればよいのだ、この愚か者」
傲然とそういってのけた男は悠々とベンチに横になり、ものの数秒で高らかにいびきをかき始めた。私はほっと胸をなでおろし、近くのもう一つのベンチに腰掛け、先ほどの懸案に取りかかった。相も変わらず迷宮から脱出するすべはなく、ぐるぐるぐると思考を円環状に巡らしていると、
「貴様」
という声が聞こえた。見ると、言うまでもなく先ほどの怪人である。寝ていたのではなかったのか。しかも、またもやお怒りのご様子である。
「どうしましたか」
「そこは、儂の場所だ」
いえ、ここは公共の場所です。あちらにもベンチがあるので、あちらをどうぞ。などという台詞を極めて最近に口にしたような気がして、私は口をつぐんだ。そして、静かに席を譲った。
「うむ」
と満足そうに頷いて、男はまたそこに横になる。私はと言えば、このまま思案していてもらちが明かないことに少し気がつき始めたので、とりあえず構内をぶらぶらと歩いてみようと思った。さてまずは北側から歩こうか、と私が足を踏み出した時である。背後から怪人が私を呼びとめるのである。
「貴様」
よもや、そこは儂の場所だ、などと言いだすのではあるまいか。しかしそうではなかった。
「して、何を思い悩む」
「え」
「して、何を思い悩む」
「どうしてそれを」
「儂は、何でも知っている」
「仙人でもあるまいし」


とは言ってみたものの、なんだか少し怖くなってきている自分に気付く。この男は人間などではなく魑魅魍魎の類ではなかろうか、という疑念が首をもたげる。そう言えば、そう見えないこともない。いつの間にかベンチに胡坐をかいていた怪人の眉間には深い深い皺が寄り、彫刻刀で刻みつけたようである。耳はよく見れば先が少し尖っており、耳たぶはほとんどないに等しい。中世の欧米において恐ろしい数が火刑に処せられたいわゆる魔女のような鼻の上には、奥底のしれない漆黒の瞳があり、その岩をも貫くのではと思わせるほど鋭い眼光は今私に向けられている。
一見すれば単なる華奢な老人にしか見えないのだが、今目の前にいるその男は何人も決してそのように形容することはできない、何か妖気のようなものを身にまとっていることが分かる。しかし私の分析と緊張感とは裏腹に、怪人の口から発せられたのは何とも間の向けた台詞であった。
「いや、儂はこの大学の教職員である」
「私はあんたなんか見たこともない」
「それはそうだ、儂は滅多と大学に来んからの」
仕事しろ、と言いたくなったがやめた。
「滅多と大学に来ない教職員が、なぜ私が思い悩んでいることが分かるのだ」
「蟲の知らせ、かの」
「なんですか、それは」
「まあ、よい。して、何を思い悩む」
「貴方に話してどうこうなる問題でもない」
「ならばなおさらよいではないか、いいから話してみろ」
あまり堂々巡りをしていてはまたいつ木刀が振り下ろされるかわからないので、私はなし崩し的に男の言うとおりにした。文通の始まり、そのとき心に決めたルール、彼女(仮)の流麗な筆跡や知的な文面、そして昨晩のこと。要点を絞って話し、今私が迷い込んでいる臆病大迷宮について説明したのである。その間怪人は黙って聞いてくれていた。
「それで終いか」
「……そうだ」
「して、貴様はどうしたい」
「あの手紙の依頼主を突きとめたい」
「突きとめてどうしたいのだ」
「え」
その時私たちの間を一陣の風が駆け抜けた、気がした。なんだかドラマティックである。
「どう、したい」
男はゆっくりと、私の精神に深く問いかけるように、言った。しかし、私にはその答えがない。
「わからない」
「ふむ……まあ、それも一興」
おもむろに立ち上がったその男は、その場から立ち去ろうとしているように見えた。
「ほんとうに話聞いただけなのか」
「儂は貴様に何かしてやるなどと言ったか」
「言ってはいないが、そんなに偉ぶるのだ、何かしてくれてもよかろう」
本音が出てしまった。
「……仕方あるまい、これも一興。あそこに理学部棟がある」
彼は木刀でその方向を指し示す。
「あそこに男がいるだろう」
見ると確かに男が一人、建物の前で携帯電話をいじくっている。
「あれがどうしたのだ」
「あれに、走って近寄っていけ。そうすればおのずと道は開ける」
そこまで言うと、男は図書館の方へと向かって行こうとする。
「あんた、名前は」
「ふむ、態侘落(ていたらく)先生とでも呼ぶがよい」
「ていたらく……? 私は……」
「言わずともよい、知っておる」
そういうと、態侘落先生は木刀を背中に納めて図書館に入っていった。
「何という怪しい奴。しかし」
なぜか妙に説得力のある男であったことは認めざるを得ない。それはあの瞳に一度対峙してみればわかるだろう。私は先生の言うとおりにしてみることにした。
「どうにでもなれ、だ」


私は件の男めがけて全力で向かって行った。男は全く私に気付いておらず、その距離はずんずん狭まっていく。あと二〇mほどの所で男は私が迫って来ていることに気付いたそぶりを見せた。そして私の顔を見るや否や、ひどく狼狽した様子になり、あと五メートルほどのところで彼は私が迫り来る方向とは逆の方へ駆けだした。つまり、逃げたのである。
「待て、怪しい奴!」
と私は叫んだが、私だって十分怪しい奴である。何しろ突然見ず知らずの相手に向かって全力疾走しているのだから。
 私は男を三〇秒ほど追っていたが、結果的に逃げ切られてしまった。何しろ普段は歩く以上の速度で移動することなどない私だ。一瞬にして肺活量の限界が来てしまったのである。敗北感に苛まれつつもと来た道を戻っていると、道端に何か落ちているのが見えた。なんと、財布である。
「これは神の憐れみか……」
一瞬その慈悲深さにひれ伏しそうになり、落ちていた財布を手に取ったが、たかが神の憐憫などに屈する自分に気付き、その慈悲をこれでもかと地面にたたきつけた。
「私は神などには頼らぬ」
と誰ともなしに弁解するように言って、その場を立ち去ろうとした。が、たたきつけた拍子に飛び出した学生証の顔写真に見おぼえがあった。拾ってみてみると、なんと先ほどの男である。学部も学科も名前も、無論記してある。私はにやりとした。


 男は兵頭茂。理学部理学科の三回生である。私がそれから一週間を通して彼の友人、知人、元恋人、元浮気相手などに聞き込み調査をした結果得た情報は以下のとおりである。
出身は兵庫県神戸市。四歳の頃に初めての恋人ができた。同じ幼稚園の隣の組の女の子(名を奈緒ちゃんという)である。彼らは相当に「オマセ」な幼稚園児で、休み時間になるとデートと称してコンクリート山麓のトンネルの中で二人きりで語り合っていたそうである。それを幼稚園の先生に咎められた二人は、理解を得られない二人の関係を嘆き悲しんで駆け落ちまでしようとしたそうである。ほかの園児が昼寝している隙をついて二人は走った。どこへ、などと言う事は考えなかったと彼は語ったらしい。逃げなければ、という漠然とした使命感に駆られたのである。
昼寝の時間が終わり、先生が二人のいないことに気付いてすぐさま捜索に向かった結果、二人は幼稚園の建物の裏で身を寄せ合って震えていたという。二人の相思相愛に半ば自分に恋人がいないことを責められているような気がして思わず感情的になっていたその先生は、震えながらも自分たちの愛を貫こうとする姿に感動して、それ以来彼らの関係を認めるようになった。
その後兵頭茂が七歳になった頃、その先生にも運命的な伴侶が現れ、彼女は幸せになった。結婚式の写真が手紙とともに彼のもとに送られてきたが、そこには
「茂君と奈緒ちゃんのおかげで私も素直になれ、幸せをつかむことができました。本当にありがとう。」
と記されていた。しかし、元来女癖の悪い兵頭茂はその時すでに奈緒ちゃんと別れ、別の女の子と甘すぎて吐き気がしそうなほどの甘ったるい愛をはぐくんでいたそうである。


 そんな放蕩癖のある兵頭茂も小学校六年の時に叶わぬ恋をした。お相手は三つも上の中学三年生の女の子である。小学校への集団登校中、時折見かけるその見目麗しい姿に少年の心は鷲掴みにされたのだ。しかし相手は中学生、しかもあと一年で卒業してしまう。彼は生れてはじめての道ならぬ恋(彼がそう言ったらしい。使い方は間違っている)に身も心も引き裂かれそうになった。同学年のどんなに可愛い女の子にも全く興味をなくし、ぼんやりとしていることが多くなった。そんな彼を見かねた友人一党が、彼に元気を出させるために連れて行ったのが福岡県北九州市にある某宇宙テーマパークである。
しかし、この涙ぐましい友情が彼の将来にある欠落を招くことになる。彼らは散々に遊び呆けた。3Dのプラネタリウムに感動し、凄まじい頻度で高度の上下するジェットコースターに乗り、脂分の恐ろしく多いファストフードを貪り、添加剤満載の炭酸飲料を飲みまくった。そこまでは十二分に彼も楽しんでいたし、いつもの元気な彼が見られた友人たちもとても楽しかった。そして、一通り遊んだのでそのテーマパークでは有名なプールに行こうということになった。和気あいあいと騒ぎながら彼らはプールに入る。ひとしきりプール内にもあるアトラクションを愉しみ、ビーチボールなどで遊んだ。そうこうしているうちに閉園時間になり、それではそろそろ帰ろうかという段になって、彼らは兵頭茂の姿がないことに気付く。彼はと言えば、その頃一人でウォータースライダーの階段を上っていた。最後にもう一回、と小さくつぶやきながら。彼は自分の思惑通り、最後の一回を滑り降りることができた。
事件が起きたのはそのあとだ。彼がスライダーから飛び出した途端、彼の両足のふくらはぎに激痛が走った。彼は必死に浮かびあがろうとするが脚が言う事を聞かない。ジタバタしているうちに彼は意識を失った。幸いにも彼が溺れていることに気付いた係員が意識を失った彼を救いあげ、適切な措置をとったおかげで命に別条はなかったが、彼はそれから金槌になっただけでなく、洗面台にたまる量以上の水が怖くなってしまった。それ以来浴槽につかったことすらないという。汚い話だ。


 時は過ぎて彼が高校生の時、海にも川にもプールにもいかずに何とか許容量の水との接触だけで過ごしてきた兵頭少年に、再び悲劇が訪れる。彼は中学入学と同時に野球部に入り、元来運動神経のよい彼はメキメキと上達し、中学三年のときにはエースナンバーを背負うまでになっていた。無論彼は高校入学と同時に野球部に入り、悲劇の待ち受ける高校二年生の時にはすでにエースであった。女の子にも当然ちやほやされ、手癖の悪い彼は何人ものうら若き乙女たちに涙を流させていた。ある日彼が家に帰ると、母親がこう言った。
「茂、そこにあるゆで卵、食べちゃってくれる」
「ああ、うん」
と生返事をして部屋に荷物を置き、キッチンへ行くと、そこにはボールに山盛りのゆで卵があった。
「母ちゃん、これ、なに」
「だから、ゆで卵」
「全部?」
「うん、そう」
「えっと、なんで?」
「まちがって買い過ぎちゃってね、たまご。それで」
「ああ、そう……まあ、いいんだけどね」
彼は、(まあこれもタンパク源だし良しとしよう、筋肉もつくだろうし)と自分に言い聞かせて、一つ目をパクリと齧った。半熟でとてもおいしい。
「母ちゃん、美味いよ」
「そりゃあよかった」
彼は二つ目を手に取った。手際良く殻を剥き、先ほどと同様パクリと齧った……つもりだった。しかし、なぜか噛み切れない。そんなことより、触感がおかしい。彼は不審に思ってその噛み切れないたまごから口を離し、手元を見てみた。
 あまりグロテスクな描写をしていたずらに読者諸賢の気分を害するのはやめておこう。しかし、このエピソードが彼の心的外傷になったということをはっきりさせておくためにも、一言だけここに書かせてもらおう。それは、有精卵だった、とだけ。

 そんなこんなで彼は大学生になった。海、川、プールにはいかず、風呂はシャワーだけですませ、生玉子やゆで卵を食すことは固辞してきた彼は、それ以外の部分でたっぷりと遊蕩生活を送っているようである。彼の友人は必ずこう彼を形容した。
「いい奴なんだけどね、女癖がね。いい奴なんだけど」
また元恋人はこう言った。
「あの人は私以外の女の方により多くの金を使っていたわ」
元浮気相手はこう言った。
「いい男なんだけど、夜の方がね、あんまり」
様々の情報を収集した結果、彼を私の思惑通りに動かすために必要なのは、大量の水と卵であることがわかった。私は一度決めたことは最後まで徹底してやり抜く男である。とはいえ、この頃の私は何かに取りつかれているような気すらする。未だかつて私がこれほどまでに活動的であったことがあったであろうか。

 

ともかく、異様なほど私は一生懸命であった。

『岸田アパート物語』5号室

私がそう口にした途端、香織嬢は我が意を得たりといわんばかりに口角をあげ、私の胸倉をつかんでこう言った。
「上等だ」
私は様子のおかしい里美ちゃんを森野が介抱しているのを見届けて、負け戦の場へと身を翻した。相手は底なし沼の香織嬢である。死なばもろとも、という覚悟すら持ってはならぬ。


 しかし、私はこの後奇跡的に生き残った。酔ってはいたが、潰れてはいなかった。私より先に香織嬢を睡魔が襲い、彼女は唐突にその場に突っ伏して眠ったのである。決死の戦から命からがら帰還した私は、安堵の念に胸をなでおろしながら周囲の様子をうかがった。すると、思いのほか生存者は多かった。それはひとえに郷田の功労であった。郷田は早い段階から千沙の酒に九六度のリーサルウェポンを混入していたのだ。そのために本人の予想を上回る勢いで酒は回り、千沙はあえなく撃沈したのである。でかした郷田! と心の底から快哉を叫んだ私である。
それからの会は何とも甘いムードであった。里美ちゃんはここぞとばかりに(本人に自覚はないだろうが)森野に甘え倒し、それを森野も甘受していた。それを眼前に見た昏睡状態からさめた弘毅は、
「むぬあー」
と意味不明の奇声を発し、目の前にあったウーロン茶をイッキ飲みしてしまう。吐き気のあるところに飲み物を投入すると、それがどんなものであれ吐いてしまうことがある。彼のこの場合がそうであった。彼は声にならない声を発しながらトイレに駆け込んだ。この男つくづく憎めないやつと思っていると、岸田の駐輪場に誰かが自転車で来た音がする。私はその正体を知るとともに、憎めなかったこの男を憎むことになる。
 それは、弘毅が里美ちゃんの次に好きになった女の子であった。郷田が気を利かせて呼んでおいたらしい。この男、この日はやけに冴えていた。
「弘毅さんは」
と挨拶もそこそこに彼の居場所を尋ねた彼女は、なんとも可憐な黒髪ショートの女性である。相も変わらず、弘毅は面食いなのだ。
「トイレに」
私が言うか早いか彼女はトイレに駆け込んだ。大丈夫ですか、などと献身的な響きで問いかけている。本当にあの男が恋破れた相手なのかと疑う程の心配ぶり。突然現れた彼女に弘毅は一瞬驚いたが、たちまち幸福そうな表情に変わり、よわよわしいガッツポーズを見せた。
 私と郷田は、なんだか寂しくなってしまった。しかし、本当にさみしいのは私だけである。なぜなら郷田は一人ではない。彼は弘毅とその思い人の様子を見、里美ちゃんと森野の様子を見、そして何のためらいもなく眠っている香織嬢の横に寝ころんだ。やつにはぬくもりをくれる相手がいるのである。この私にはそれがない。私のみが生存者の中で独りなのである。それに気付いた時、酔いも手伝ったのだろう、私の中で何かのスイッチが入る音がした。結果として、私の記憶はそこまでしか残ってはいない。


 そしてこの状況である。あの記憶の状態からこの様相にまで至るには、何かしらのカタストロフィーが起る必要があろう。でなければ説明がつかない。あの時の生存者の面々がこうなるまで飲もうはずはないからである。少なくとも、何かしらのスイッチが入った私以外は。私はふと机の上を見た。ミートソースドリアが食い散らかされている。これはあのときまだ岸田には存在していなかったはずだ……そのことを思い出した途端、私の頭に断片的な記憶が続々と浮かび上がってきた。出来たての、二つの意味でゲキアツなドリアを郷田の口内にねじ込む映像、
「熱いのなら冷たいのをやろう」
とリーサルウェポンを彼に投入する私の手。高らかな笑い声が聞こえたかと思うと、何かを飲み干した様子の森野と私の手に持たれたウィスキーの瓶が映像として映った。妙な汗が背中ににじんだ。あれやこれやとどれだけ希望的な観測を繰り返したところでこの惨状の首謀者は私なのである。玄関先の「モノ」はその場にとどまらず、扉を出た先にまで続いており、その足跡は森野の家の扉まで続いている。
そのことから察するに、不幸中の幸いながらこのモノの元宿主が私でないことは確信してよいようである。しかしそれはそれこれはこれ。自らの所業の記憶が戻った以上、そしてこの状況の第一発見者になった以上、私はこのモノを何とか処理しなければならぬ。自ら「見て見ぬふり」の師範代を授けた私とはいえども、自らの所業もかえりみず、玄関にまき散らされた吐瀉物をまたいで、自室に帰ることなどできない。
私はおもむろに郷田宅の雑巾を探し始めた。トイレ脇に置いてある衣類などがごった返している部分をあさってみたが、雑巾なのかタオルなのか到底判断しきれない布ばかりで困惑する。二日酔い未ださめやらぬ状態も手伝って、私はすこぶる機嫌が悪くなった。「雑巾ぐらいわかるように置いておけ!」とぐっすりと眠っている郷田の顔に床に広がっているモノをぶちまけたくなったが、私の中のジェントルマンがこう言ってそれを抑えた。
「彼に非はないさ」
そうその通りである。私は代わりにそこにあったタオルとも雑巾とも判断の附かぬ布切れを、ほとんど何の吟味もせずに後処理に用いることにした。許せ、郷田。


 にしても、見るだけでこちらまで色々と催しそうな様相である。ふう、と短く息を吐いてそれに取りかかろうとしたその刹那、私の背後から素っ頓狂な叫び声が聞こえた。
「な、なんじゃあそりゃあ」
郷田であった。彼は私のごそごそと部屋をあさる物音に野性を刺激されたのか、アルコールによる極度の昏睡状態から目覚めたのであろう。とはいえいまだに酩酊状態であるには違いない。
「草さん、なんちゅうことを」
野性児の割に自らの家になると汚れることを極度に嫌うのがこの男である。ならば自分の家で宴会など開かなければよいのにと思うが、存外に人見知りの彼は自らの牙城でなければ安心して酒も飲めないのであった。一度私の家で宴会があった時に郷田も招いたのだが、その日集まった面々が彼のあまり知らない人間ばかりであったせいで、借りてきた猫のような(その風貌はライオンに近かったが)おとなしい様子で殆んど口を利かないまま静かに自分の家に帰っていった。とにもかくにも、この惨状の主犯は私ではない。
「私ではない」
「じゃあ誰やねん」
怒り心頭の彼は犯人がだれであろうともはや構わない。
「もうほんまあり得へんわ。吐くんやったらトイレ行けっちゅうねん。台所が一回そんな風になったらメシも気分よう作られへんやないか。誰がやってん」
断じて私ではない。この惨状の主犯は私ではない。確かにそのきっかけを作ったのは私かもしれない。そのことを認めるに私とて決して吝かではないのだ。しかしだからこそ、二日酔いで世界が未だぐるぐると回っているような状態のまま、タオルか雑巾かなどとと本来なら迷う筈もない分岐点で逡巡などしつつ、私はその処理をしようとしているのだ。その私にこの仕打ち。私の苛々は募りに募った。その時である。
「ぶっはあー」
と奇声をあげて千沙が起き上がった。今一番起きてはならない人物であろう。
「どうしたの、草さん」
「いや、お前は寝ていてくれ。おそらく話がややこしくなる。状況もややこしくなる」
「何だよ、つれないなあ」
そう言って陸に上がったウミガメのように地面を這ってやってくる。後方ではまだ郷田が何か喚いている。状況の説明を求めているようだ。
「おー、なんだこれは」
「見てわかるだろう」
「わっかんないなあ」
どうやらこの生き物も未だ酩酊状態にある。それに気付いた頃にはもう遅かった。何が遅かったかと言って、私の堪忍袋の緒がだらりと伸びきるまでに事態が収拾できなかったのだ。彼女は自分の前あしで眼前の液体を、
「ピチャピチャするぞー、これ」
と言いながら弄びはじめたのである。私の脳髄はこのような奇行を受容するほどおおらかにはできていない。後ろの方では郷田が相変わらず喚いている。その怒声に目が覚めた二日酔いの香織嬢が郷田に絡み、二人は遂に喧嘩を始めた。そのような状況など全く意に介さない千沙は、ずっと先ほどからの奇行を続けている。私の中の何かが、ぷつん、とはじけた。


 私は静かに岸田の扉を閉じた。外は素晴らしい快晴である。このような日に意味のわからぬ酔っ払いどもと戯れる趣味など持ち合わせていない。たとえあの状況に自分が一枚かんでいても、である。
 自宅に帰る途中、ぼんやりと空を眺めているとふわりとやわらかそうな雲が視界に流れてきた。それを見て、ふと弘毅のことを思い出した。あの少女とはどうなったのであろうか。そう言えば、森野と里美ちゃんは。しばらく思い出そうとして記憶の海の中に潜ってみたが、全く息が続かなかった。そんなことより頭が痛い。

 


一二月三〇日.

 気づけば、もう四回生である。しかも卒業は眼前に迫っている。思えばなんと早いことか。
 そんなことを思ったのは、あの忘年会から数日たったある日のことである。ふと日めくりカレンダーの日付を見て、もう年末ではないか、と誰に言うともなく責めるように言って年末大掃除を始めた。掃除というと年末ぐらいしかしないものだから(しなかった年もあることを書き添えておこう)、私の部屋は大掃除と言うにこの上なく相応しい。一回生の時に百円均一で購入した掃除道具を押し入れから引っ張り出し、玄関から順にそれはもう丁寧に掃除していくのである。そうしていると得てしてなんだか懐かしくてセンチメンタルになってしまう思い出の品々に出くわす。かくしてこの年末大掃除なるものは丸一日かかる大仕事なのであった。


玄関では一回生の時に購入した、血迷っていたとしか思えない奇抜なデザインのスポーツシューズが靴箱の奥底から出てきた。三年間の大掃除では見逃されていたのかもしれない。銀色の革張りのボディに、金色のラインをあしらったものである。今はこのようなむさくるしいことになってしまった私とはいえど、あの頃はまだファッションなるものに関心を持っていたものである。直截にいえば、モテたかったからだ。
ちょうどこの靴を買った頃だった。そのような希望が、学生の本分を失念した蒙昧なものであることに私は気付いたのだ。異性との交遊にうつつを抜かしていてはこの貴重な四年間を無駄にしてしまう、それでは高い金を出してくれている両親に申し訳が立たない、そう考えたのである。だからと言って、大学生活の大半を図書館で過ごした私の四年間に後悔はないのか問われると、正直答えに窮する。薔薇色というより桃色のキャンパスライフにも、少しは興味だってある。それを横目に必死に活字の海に浸った四年間であったのだ。


 キッチンを掃除していると、即席乾麺などを無造作に放り込んでいる段ボール箱の中から賞味期限切れの粉末のスポーツドリンクの素を発掘した。これも一回生の時のものである。私が大学に入って初めて風邪をひいた時のことであった。それをどこから聞いたのか、はたまた私が知らずテレパシーででも発信していたのかは定かではないが、同じ講義を取っていた女の子が私の家に届けてくれたものである。確か風邪薬と一緒に渡してくれたように思う。風邪薬はあまりにも病が辛かったので飲んでしまったが、スポーツドリンクの素の方はなんだかもったいなくて飲めなかった。家族以外の女性から優しくされたことなど今までの人生で無かったのだ。
その女の子は華奢だった。スカートは長いものしかはかなかったのでその時はわからないが、ジーンズなどを履くとその足の細さは大学構内で目立つほどであった。その細くしかも長い脚で風が地面を撫ぜるように音もなく歩くものだから、存在自体誰にも気づかれないほどである。彼女が細いのは脚だけではない。肩や首の線なども、他の女性などと比べると明らかに痩せていて本人もそれを気にしているのか、いつも少し分厚い生地のシャツを着ていた。それでも彼女の細さは隠せるわけもなく、その繊細な体のラインは彼女の周りの空気まで白く滲ませてしまう程、儚かった。実際、いつも遠くのほうに視線を向けていて、あまり人と交わらないような人だったのだ。そのような女性だから、軟派な男などは声をかけにくかったのだろう、その美しい容貌のわりにはあまり近くに男がいることはなかった。そんな彼女がある日、私に声をかけてきたことがあった。
「本、好きなの?」
私が四六時中本ばかり読んでいることは、当時からクラスでも有名だった。読書が面白くて仕方ない時期だったように思う。
「ああ、読むようになったのは最近だが」
「何か、貸してほしいな」
「わかった。今度何冊か持ってこよう」
「ありがとう」
彼女はその時私に向かってほほ笑んだ。桃色の唇が優しくカーブを描いていた。はじめて見た彼女の笑顔はそれはもうとびきりに美しかった。百合の花が揺れるような、などと表現すると笑われるだろうか。しかし、私だってたまにはそんな繊細な表現もしたくなるのである。文学青年であるから当然のことだ。ともあれ、その日から私と彼女は時折話をするようになっていた。
 しかしその女の子は、私の風邪が治った頃に交通事故で死んでしまった。夏のとても暑い日だった。私はその話を聞いて、胸が張り裂けそうになったのを覚えている。私は彼女に惹かれていた。


 そんな忘れかけていた思い出が思いがけず段ボール箱から出てきたものだから、少し涙してしまった。不覚である。賞味期限切れとはいえさすがにこれは捨てかねたので、また即席乾麺の下に戻しておいた。
 次に冷蔵庫の中を点検した。改めて見てみると冷蔵庫の中というのはどうしてなかなか散らかっているものである。いつか使うだろうで、もう既に何か月もたったキムチの素や浅漬けの素。知らず知らずのうちに奥底に追いやられて人知れず萎れてしまった奴ねぎ。そして極めつけは二回生の夏ごろから我が家の冷蔵庫に鎮座まします卵である。うっかりしていて賞味期限を超えていた卵を発見した当時の私は、
「卵は、放置し続けるとどうなるのか」
という素朴な疑問を抱いてしまい、その結果その時の卵が未だに放置されているのである。この卵の行く末については、当時侃々諤々の議論があったものである。時間の経過に従って内容物が腐敗することであの強固な殻がぶよぶよと軟化してしまうという説や、殻が軟化することなどあり得ない、ある日突然クシャっと崩れてしまうに違いないとする説、いっそもう有性卵になってしまって雛が生まれるのだという説まで飛び出したものである。しかしながら、どうしたわけか、それからその卵は外観上何の変化もないまま二年の時をこの冷暗所で過ごしている。そろそろこの研究にも目処をつけた方がいいのかもしれないなと私は決心して、二年前にこの卵を産んでくれた鶏に謝罪をして他のものと一緒に廃棄処分とした。


 私の年末大掃除の旅は遂にリビングに到達する。クローゼットとは名ばかりの衣類置き場を整理していると、またもや過去の遺物に対面した。これまた奇抜な、今度はパーカーである。真っ赤なそれは、ジップの周囲に鋲が打ち込まれており、なんともパンキッシュな出で立ちをしている。確かそれは、一回生の終わりごろにとある古着屋で見つけた品だ。その見た目の尖鋭ぶりに当時精神的に尖りに尖っていた私はこれが噂の百年の恋かと言わんばかりに打ちのめされ、即断即決で購入したものである。先ほどの銀色の靴といい、このパーカーといい、精神はやはり外見にまで表出するものだということが、しみじみと感じられるではないか。何をそこまで尖っていたのか、と振り返ってみると、いやはやひたすら赤面する限りである。
 とにかくあの頃は、なにかとイラついていたことは覚えている。食堂でレシートをポイ捨てする輩に憤慨し、図書館でぺちゃくちゃと無神経にしゃべり散らす輩に憤怒し、本など読んでも何の意味もないと嘯く輩にいっそ憤死してやろうかと思った。そして何よりそのような怒りを相手にぶつける度胸のない自分に一番腹が立っていた。所詮、臆病者の戯言でしかないではないか、と。それでも私はぶつぶつと何やら唱えながら活字の世界に籠りきっていた。そこに何かある、と私の第六感が喚き続けたのである。あまりにも喚くので時には彼を叩きのめして口をふさぎ、常々ないがしろにしてしまっていた五感とともに、気の赴くままに放蕩の限りを尽くしたこともある。といっても元来が紳士的な私であったから、放蕩の限りと言っても酒を浴びるように飲む程度ではあった。それでもとにかく、
「私は世界を断固否定する!」
とか何とか言って周囲に敵意をむき出しにして、そう剥きすぎてグロテスクですらあるほどに剥き出しにして、私は日々を生きていた。


そんな私の棘を根こそぎ引っこ抜いたのが、思えばあの郷田であったのである。わたしは当初彼を心の底から軽蔑していた。なぜか。それは阿呆だからである。学生の本分たるべき勉学を疎かにし、徹頭徹尾享楽に耽りに耽るあの男を、私は忌み嫌っていた。そういっても全くもって過言などではない。そのような彼に対する評価が、一八〇度とは言わずとも一五六度ほど変わったのは出会ってしばらくしてからのことである。
私は脳髄から発熱でもするのではないかという程に思い悩んでいた。四六時中、自他問わずに苛立ちばかり覚えていた私は、遂にいったいぜんたい自分が何に苛立っているのかということを見失ってしまったのである。気づけば毎晩何かしらの巨大な組織に命を狙われるという悪夢ばかり見るようになっており、そのせいで寝不足ですらあった。それがさらなる精神的苦痛を加えていたことは言わずもがなである。私の鬱屈し、あまりにも屈したがゆえにそのまま筋肉が硬直してしまったような精神は、その肉体にまで浸食し、四月も終わる頃にはたびたび左胸に激痛を覚えるほどに私は衰弱していた。

その苦痛に耐えかねた私は、いつもは図書館に向けるその足を、大学の近くに流れる川へと向けた。清澄な空気を胸いっぱい吸い込めば、このなんだかわからぬ靄も晴れるであろうと思ったのだ。私は人気のない河原に降り立った。そこは普段は無知蒙昧軽佻浮薄の連中が春の陽気に誘われて不埒な遊行に興じる定番の場所であった。しかし幸いなことに、その日はそのような輩は一人として見えなかった。手頃な岩に座って、
「私はこの滔々と流れる川に一石を投じる。何たる英雄的メタファーであろうか」
などと意味不明なことを呟きながら、手近な石ころなどをポーンと川の流れに投じていると、向こう岸の森の中から河原に降りてくるものがある。このまま熊にでも食われて非業の死を遂げるの悪くはないかなどと思い立った私は、力いっぱいそちらの方に石を投げつけた。
「さあ、かかってこい!」
半ば自棄を起こした私はそう叫んで、命をかけた戦闘に向けて自らの精神を鼓舞したのである。しかし、森から這い出てきたのは熊などではなかった。さらに言えば四足歩行の生物ですらなかった。つまりはそれこそが、昼飯を終えた郷田であったのである。
「何すんねん、めっちゃ痛い」
彼はその丸太のような腕を抑えて河原に降り立った。ものすごく悲しそうな顔をしている。まさかそんなところから人間(のようなもの)が現れるとは思いもしなかった私は、彼の肉体的痛苦に対しての全責任を自らが負っているにもかかわらず、狼狽のあまり二の句どころか一の句すら口にできなかった。正直得体のしれない目の前の生物に怯えていたのである。
「かかってこい、て……。意味わからんのやけど」
「う、うるさい! どうしてお前がそのようなところから出てくるのだ! 不条理極まりない」
私は狼狽していたために、極めて身勝手無責任な言葉を吐いた。そんな私を彼は何を言うでもなく、何かするでもなく凝視していた。今もってあの時彼が何を考えていたのかわからない。しかし、その瞳は何も語っていないようでいて、すべてを語っているような、そんな思いを抱かせるものだった。少なくともあの時の私にはそう見えた。あの野性児のことだ、本当に何も考えていなかった可能性だって大いにある。だが私は、その視線に向かって焦るように叫んだ。


「私の何が悪いのだ! 私は正しいことを言っているだけだ! 正しいことをしているだけなのだ! なのになぜ責められねばならない! なぜ疎まれねばならない! 私はもっと認められてしかるべきなのだ!」
かかってこい、よりも脈絡のない言葉を私は吐いた。多分、その時、ずっと思っていたことを吐きだせたのだろう。なんだかすっきりしたのを覚えている。意味不明の私の叫びを、目の前の男はじっとその視線をずらさずに聞いていた。そして私がほかにもとにかく何かしらに対する罵詈雑言を吐き終わった後、彼はほほ笑んでこう言った。
「自分は、誰かのこと、認めたったんか?」


男は私が返答をする間もなく、またもと来た森の方へ帰っていった。