漫画・アニメ研究会活動要綱
漫画・アニメというのは、日本が誇る「文化」だとサブカルチャー界隈では言われている。
それはそうだと思う。
漫画は、古くは江戸時代の黄表紙本にさかのぼることが可能な、一つの表現媒体だ。
当時の日本の識字率は、世界でも頭一つ抜けており、貸本屋が流行するほど庶民までもが文字に親しんだ。
現在で言うフォントともいうべきものも、漫画世界に落とし込まれている。
フォント自体は漫画以前に「書」であるため、漢字に関しては中国何千年の歴史の上に成立しているわけで、
漢字文化というものはそれこそ気の遠くなるほどの時空の蓄積によって今の様相を呈している。
しかし、文字大国日本も、当然負けてはいない。
日本人は漢字、平仮名、カタカナという三つの記号を一つの言語体系の中に昇華してみせた、トンデモ民族である。
特に文字の横溢を見せた江戸時代には、単に文字を伝達手段の記号として扱うのではなく、もはや表現の一体系として人々が楽しむものとなっていた。
重要なのは、末端にまでこのような感覚が浸透していたことにある。
二つの画像はほぼ同時代(18世紀末)の日本とイギリスのカリグラフィ。
文字だけに関していうなら、当時の日本とイギリスは同時代人であった。
河東節正本
ウィリアム・ブレイク『無垢の歌』表紙
これが時代を経て、こうなる。
楳図かずおのカリグラフィ。
それが漫画に入り込むと、こうなる。
漫画という表現媒体を考えるとき、確かにその物語性に重きを置く視点もあり得てしかるべきなのだが、はっきり言ってそれだけを考えているようでは、もはや「文化としての漫画」を語ることはできない。
物語だけを見ていても、「漫画」という一つの文化集積体のごくごく一部分しか見ることはできないのだ。
そもそも「表現」というのは、独自性というものがいつでも重要になってくる。
オマージュを作るなら、「どのように再編集するか」が肝要だし、
コラージュにするなら、「どれを切り、どれを貼り、どう繋ぐか」が本質になってくる。
でなければ、よく似たものばかりが横溢することになるが、均質性を帯びたコンテンツは、いわば記号化し、消費されるだけになっていく。
言うなれば、「甘さ」という記号を持った砂糖のようなものである。
食事をするたびに減っていくが、砂糖の結晶一つ一つに「意味」などない。
とにかくストーリーが面白い!
めちゃくちゃ絵がうまい!
それももちろん、漫画という表現を楽しむための一つの視点である。
しかし、漫画は日本の文化だ、と誇らしげに言うためには、そのような感想はあまりにも浅薄だと言わざるを得ない。
アニメにしろ、ボカロにしろ、カラオケにしろ、コスプレにしろ、それをその中だけで論じていてもどうにもならない。
それでは結局のところ「とにかくもうなんかすごいの!」と言っているのと大差ないのだ。
能や歌舞伎、落語に茶道、作庭術に、植物観、地図に小説、建築、食文化、そして漫画が、同じ土俵で論じられなければならないのである。
そうして初めて「サブカル」と呼ばれる「軽い薄い文化」が、蓄積と研磨を経て「カルチャー」となりうるのである。
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と、まあ、小難しいことを書いてはみたが、漫画だけじゃなく、アニメでもこんな話をしてみたり、普通に少女マンガ読んで「きゅんきゅんするわ~」と言ったり、萌えアニメ見て「ケモミミええのう~」とか言ったりするのが、漫ア研の活動である。
温かい目で見守ってほしい。