ひとり部活動記録

文章書いたり、筋トレしたり、自転車漕いだり、山登ったり、基本はひとり。

マラソン大会に出ます(10kmやけど)

 5月の末ごろだったか、妙にハイな気分になってとあるマラソン大会にエントリーした。10kmやけど。

f:id:Cogitica:20170618203600j:plain

 

長距離走が大嫌いだった高校時代の僕なら今の僕をみて「うえ〜!お前頭おかしいんとちゃうか!何を好き好んで10kmもはしるんや…」と言うことだろう。それくらい僕の中でマラソン大会にエントリーするというのは狂気の沙汰だ。

初めてのことで不安だったので、「ひとり部」の名を裏切って幼馴染2人を誘っての出場である。「運動不足だったし」と快く一緒にエントリーしてくれた2人には感謝している。自分以外にも沢山の人が参加するマラソン大会なるものに、1人で特攻を決めることはメンタルたまご豆腐の僕には到底無理だ。

で、せっかく参加するのだから1時間は切りたいと思い、この2週間ほど家の近くを少しずつ距離を伸ばしながら走っている。街中を走るのもいいのだけど、車やら信号やらが面倒なので、「万代池公園」という自宅から2km弱のところまで走って行って、公園内をぐるぐる回ってまた帰ってくるというコースを繰り返している(公園1周は700m)。

 

自分以外にもジョギングしている人やウォーキングをしている人もいるが、高級住宅街ということもあってかこの上なく穏やかに走り続けることができる。

このジョギングを何回か繰り返していると、不思議な気持ちになってくる。まだたかだか数kmのジョギングに過ぎないが、「走ることの気持ち良さ」を実感できるようになってきたのだ。

これはもともと僕が何をしていても考え込む癖があること、そして以前のように肺が辛くなるような走り方ではなくゆっくりとしたペースで黙々と走る方法をとっていることも影響しているだろう。ただそれでも、「走る」という行為には色々な人が取り憑かれるなにがしかの魅力があることは間違いないと思う。

ノーベル文学賞候補として何度も名前が挙がっている作家村上春樹もエッセイでこんな文章を書いている。この文章は村上春樹ウルトラマラソン(100km)を走った時の情感を綴ったものだ。

 

「僕は人間ではない。一個の純粋な機械だ。機械だから、何を感じる必要もない。ひたすら前に進むだけだ」

その言葉を頭の中でマントラのように、何度も何度も繰り返した。文字通り「機械的」に反復する。そして自分の感知する世界をできるだけ狭く限定しようと努める。

僕が目にしているのはせいぜい3メートルほど先の地面で、それより先のことはわからない。僕のとりあえずの世界は、ここから3メートル先で完結している。その先のことを考える必要はない。空も、風も、過去も、記憶も、僕にとってはもうなんの関係もないものごとなのだ。

ここから3メートル先の地点まで足を運ぶーそれだけが僕という人間の、いや違う、僕という機械のささやかな存在意義なのだ。

引用:村上春樹 『走ることについて語るときに僕の語ること』(2010)

*改行筆者

 

 

この文章を見つけた時、「そうそうちょうどこんな感じ」といたく共感した。といっても数kmしか走れない僕がこの領域まで到達しているわけではない。

ただ3年以上続けている登山をしている時に、ほとんど同じ心境になったことは何度もある。ジョギングの時の「気持ち良さ」がその時の心境に似ていることに、この文章を読んで気づいたのだ。

 

自分の存在の意味が限りなくシンプルになり、透明な意識だけが地面を移動していく。それまでは太ももに、膝に、腰に、肺に、全身に負荷や痛みを感じていたのが、たちまち霧散してしまう。登山であれば山の一部になってしまったかのような、そんな感覚(別段ものすごい山を登っているわけでもないので、これもまた偉そうな物言いには違いないが、確かにそういう感覚を僕は知っている)。

 

とはいえ、毎回この感覚が訪れるわけではない。特にジョギング前の筋トレが充実すればするほど、ジョギングの時の体の重さはどうしても増してしまう。コンスタントに、意識的にこの感覚を味わえるように、もっともっと走る練習をしていきたい。そうすればまた楽しい趣味が一つ増えることだろうから。

 

今『岸田アパート物語』を少しずつ手直ししているのだけど

大学卒業間際の12月、僕はとある小説を書き始めた。当時どっぷりと入り浸っていた「西田アパート」という集まりを主題とした青春小説『岸田アパート物語』だ。ワードで150枚弱の中編小説で、バカみたいに恋したり、バカみたいに酒飲んで暴れたり、小難しいことを考えて色々なものをこじらせたり、そんな「THE大学生」をふんだんに盛り込んだ物語だった。

 

人生で初めて書き上げた小説だったから、記念にと幻冬舎の雑誌『papyrus』の「パピルス新人賞」に応募した。今調べたら僕は応募した2011年が最後の応募だったようだ。そしてその結果は「最終選考候補作」だった。当時神奈川の川崎で荒みきった毎日を送っていた僕にとって、飛び上がるほど嬉しい出来事だったものだ。

 

実際『岸田アパート物語』の評判は上々で、周囲からも面白いと言ってもらえた。自分でも正直面白いと思っていた。しかし先日あることがきっかけで読み直してみると、「おいおい、なんじゃこら……。よくこれで最終候補に残ったなあ」と思うほど文章がひどい。

主述関係もむちゃくちゃだし、日本語もおかしい。誤脱も多いし、第一表現が「小難しい」のではなくて「ズレている」。物語のつじつまもそこかしこで矛盾している。

 

村上春樹は『騎士団長殺し』の原稿を出版社に渡すまでに、5度書き直したという。僕は『岸田アパート物語』を一度として書き直したことがない。そりゃこんな文章のままだわなあと合点が行く。

 

「自分史上最高の文章」と思っていた文章が、憂鬱になるくらいの悪文駄文だと気づけたのも、この3年間延々と仕事で文章を書き続けてきた成果かもしれない。

そう思った僕はいまになってぼつぼつと『岸田アパート物語』の手直しを始めている。完成はいつになるはわからないが、完成したらブログに公開しちゃおうかなあと思う。その時はどうぞ読んでやってください。

僕たちが赦される唯一の方法は「誠実であること」だ。(後編)

すっかりブログを書くのを忘れていて、滑り込み週一更新!

まずは前回の内容を振り返っておこう。

 

0.人間はどうしても間違える。間違えることを赦されるためには「誠実さ」が必要である。

1.誠実とは「真面目で、真心があること」である。

2.真面目には時間的要素と空間的要素が絡んでいる。

3.時間的要素における真面目とは「継続すること」である。

4.空間的要素における真面目とは「ヌケモレがないこと」「ぬかりがないこと」である。

5.真面目かどうかの評価には「真面目度」がある。

6.2〜5から考えるに極力ミスをなくそうと力を尽くす姿勢こそが真面目、そして誠実さに繋がる。

 

今回はこれに続いて真心について考えてみよう。僕は生まれてこの方「クソ真面目」の称号を欲しいままにしてきたので、真面目に関してはベテランである。しかし真心については初めて考える。これは僕に真心がないからか?そんなことはどうでもよい。さて真心とはなんであるか。

 

真心についてGoogle先生に尋ねたところ、「偽りや飾りのない心」「真剣につくす心」とある。

これはまた難しい話である。 ここで言われている偽りや飾りは、浮気男の常套句である「嘘なんてついてないよ!」で使われる嘘とは違う。客観的あるいは論理的に偽りや飾りがあるかどうかでなく、自分の心に偽りや飾りがあるかどうかを問題にしているのだ。

 

自分の心というものは、おそろしく曖昧なものだ。そもそも自分の心が何を感じ、何を知っているのかは、おいそれとわかるものではない。

僕が酒の量を大幅に減らした時の話をしよう。以前の僕には2日に1回はかなりの量の酒を飲む習慣があった。一番ひどい時は毎回焼酎をストレートで440ml飲んでいた。焼酎をストレートで飲むのが辛くなってからはビールを2〜3リットル飲むようになっていた。うつ病を罹患していたこともあり、この状況は喜ばしいものではない。また筋トレが本格化してきて、この食生活のままでは一向に減量が進まないという問題も発生していた。

 

そこでこのアルコール習慣を止めるために僕は「ビールが飲みたくなったら味のないただの炭酸水を飲む」を実践した。甘いものを飲んでカロリーを摂取するくらいならビールが飲みたい。しかしカロリーゼロのただの炭酸水(甘味料も入っていないのでさらに健康的)には脱アルコールだけでなく痩せるという大義名分もある。だからただの炭酸水なのだ。

この子供騙しみたいな作戦の効果は、導入1日目から現れた。ただの炭酸水の炭酸は得てしてビール以上にきつい。このバッチバチの炭酸が喉を駆け抜けていくと、それまで飲みたかったはずのビールの必要性を感じなくなった。すなわち僕はビールが飲みたかったわけでなく、何かしら口腔内に刺激が欲しかっただけなのだ。

 

このエピソードから得られる教訓は、自分が確かにあると信じていた感情も、もしかすると全く別の感情かもしれないということだ。僕の場合、これはファストフードやジャンクフードにも当てはまった。「別にそれでなくてもよかった」という例は枚挙にいとまない。

 

感情はそんな自分ですら捉えがたいものなのに、真心とは「偽りや飾りのない心」を意味するという。これは真面目であることよりもはるかに難しそうだ。それこそ真面目になって、自分自身の心と向き合い、自分の「偽りや飾りのない心」はどこにあるのかを問い続けなければならないだろう。「本当に自分はそう思っているのか?」「自分がやりたいこと、考えたいことは本当にこれなのか?」と。真心とは言い換えれば自分に素直でいることなのかもしれない。

 

 

一方、「真剣につくす心」についてはこのブログでも何度か書いてきた。これは「相手を大切にする心」と言い換えて差し支えないだろう。相手を大切にするには、相手の大切なモノ・コトを大切にする必要がある。このことについては「大切な人を大切にする方法」を参照されたし。かなり面倒で大変な作業だが、これもまた誠実になるために必要なようだ。

 

 

前回の内容も踏まえた上で、誠実になることで赦されるためには以下のように考える必要があることがわかる。

 

1.誠実とは「真面目で、真心があること」である。

2.真面目には時間的要素と空間的要素が絡んでいる。

3.時間的要素における真面目とは「継続すること」である。

4.空間的要素における真面目とは「ヌケモレがないこと」「ぬかりがないこと」である。

5.真面目かどうかの評価には「真面目度」がある。

6.2〜5から考えるに極力ミスをなくそうと力を尽くす姿勢こそが真面目、そして誠実さに繋がる。

7.真心とは「偽りや飾りのない心」「真剣につくす心」である。

8. 「偽りや飾りのない心」を手に入れるにはは真面目になって、自分自身の心と向き合い、自分の「偽りや飾りのない心」はどこにあるのかを問い続けなければならない。

9. 「偽りや飾りのない心」とはすなわち「自分に素直でいること」なのかもしれない。 10. 「真剣につくす心」は「相手を大切にする心」と言い換えられる。

11.相手を大切にするには、相手の大切なモノ・コトを大切にする必要がある。

12.8〜11に基づいて考えると、真心とは自分に素直でいながら、相手を大切にする心である。

 

これらをさらにまとめると、次のようになる。

 

1.誠実とは「真面目で、真心があること」である。

6.2〜5から考えるに極力ミスをなくそうと力を尽くす姿勢こそが真面目、そして誠実さに繋がる。

12.8〜11に基づいて考えると、真心とは自分に素直でいながら、相手を大切にする心である。

 

いっそ一文にまとめてしまおう。

 

誠実とは極力ミスをなくそうと力を尽くす姿勢を持ち、自分に素直でいながら、相手を大切にする心である。

 

 

 

……思いつきで始めた「誠実」についての考察だったが、割合良い結論が出たのではないだろうか。今日からはこの一文を胸に、誠実になるために努力していきたい所存である。

僕たちが赦される唯一の方法は「誠実であること」だ。(前編)

今日と来週は過去の自分にならって、抽象的な話ばかりしようと思う。テーマは誠実さについてだ。

 

人は間違いを犯す生き物である。

浮気をしたのに、問い詰められて答えに窮し、「最後まではしてない」とか言い逃れにもならないセリフを吐いたり、どう考えても幸せになれない男との関係に執着して己の人生を浪費したり、塩と砂糖を間違えたり、醤油とソースを間違えたり、とにかく際限なく間違える。

間違えると別れを切り出されたり、冴えない人生になったり、ケーキがしょっぱくなったり、目玉焼きに何をかけるか論争が勃発したりする。なかには笑いに変えられる間違いもあるが、もちろん変えられないものも多い。

だからできれば間違えたくないものだ。 しかし残念ながらどれだけ注意を払っていても、人間は間違える。

 

なぜ正しいことを正確に行えないかというと、知らないことがあるからだ。無知なのである。 知らないことがある、ということは予測結果を導き出すまでの過程に不確定要素があるということだ。不確定要素の数が増えるほど、結果の予測精度は下がる。

方程式の変数が増えるほど、解を導くのは難しくなる。しかしだからといってわからない変数があるのに解は導けない。 にもかかわらずテキトーに解を導き出せば、間違って当たり前である。

 

そして私たち人間にはすべての不確定要素を逐一明らかにする力も時間もない。残念ながら、間違える確率をゼロにすることはできない。

 

 

ではどうすれば良いのか?僕は「誠実であること」が唯一の方法だと思っている。

間違えたとしても、その選択が誠実であったならば、きっと自分も納得できるだろうし、自分の選択で迷惑をかけてしまった人たちも理不尽に怒り狂ったりはしないはずだ。

もし理不尽に怒り狂うようならこっちだって用意がある。ダンベルを口に突き立ててやろう。目には目を、理不尽には理不尽を。

 

Google先生によれば、誠実とは「真面目で、真心があること」だそうだ。わかったようなわからないような、ふんわりした説明である。これを今週と来週を使って、もうすこし掘り下げてみよう。

 

まずは真面目についてである。真面目には時間的要素と空間的要素の2つが絡んでいる。

時間的要素における真面目とは「継続すること」である。三日坊主で止めるような人間のことを真面目だとは言うまい。約束したことを数日後には忘れ、ド派手に破るような人間も、真面目ではないだろう。

真面目であるためには、とにもかくにも継続がなければならない。

 

一方で空間的要素における真面目とは「ヌケモレがないこと」「ぬかりがないこと」である。1万字の文章の中に誤字脱字が1文字もない人と、400字の間に誤字脱字が80字近くもある人を比べた時、明らかに前者の方が真面目な印象を受ける。真面目であるためには、正確さが必要だ。

 

ただ注意したいのは真面目か否かは、ゼロかイチかという問題ではないという点だ。5年続けていたことを1日サボったからといって、あるいは1万字の中に1文字のミスがあったからといって、それが即不真面目だということにはならない。

真面目かどうかの評価には「真面目度」とでもいうべきものがあり、それが高すぎる人をクソ真面目、低すぎる人をチャランポランと呼ぶ、と考えるべきだろう。

 

かくして誠実であるためには、まず継続性を持ちつつ、正確な仕事や言動を心掛ける必要がありそうだ。

人間は間違える生き物なので、後者に関しては100%を実現するのは難しい。しかし真面目さは度合いで測られるので、1つのミスで全てがダメになるわけではない。

極力ミスをなくそうと力を尽くす姿勢こそが真面目、そして誠実さに繋がるといえそうだ。

 

 

ではもう一つの要素「真心があること」とは何か?これについては次回考えたい。

これから少しずつ、昔の文章を振り返ります。

f:id:Cogitica:20170522013543j:plain

 

 先日講演者として参加した中小企業経営者の会で、ある方から「昔お父さんからブログのようなものを見せてもらったのだけれど、あれは今も書いているの?」と聞かれた。僕がブログを始めたのは最近だったので、おそらくmixiのことをおっしゃっていたのだろう。

 

そんなきっかけがあって、ふと自分のmixiの文章を読み直してみた。 何も考えずに書きつけていたせいもあり、ものの見事に読みづらく、理解もしにくい抽象的な議論が多い。

 

でもやっぱり考えていることや価値観は、今にも通じるものがたくさんあった。そこでブログのネタがないときは、昔の自分の文章セレクションをやっていきたいと思う。これに関してはカテゴリを作って、まとめていく。

 

示唆に富みすぎて逆にわかりにくくなっている文章、読むものを寄せ付けないガチガチ抽象論、酒か自分に酔っているポエミーな文章……mixiには僕の青春が詰まっている。お目汚しになること請け合いだが、興味がある方は是非読んでみてほしい。結構、良いこと言ってたりするんですよ(笑)

 

今回転載するのは、2014年1月4日の午前5時24分に投稿した日記だ。伝えることについて抽象論に徹した書いたものだが、ひとつひとつ言葉を選んで。丁寧に書かれている。

 

かなり分かりにくいが、この文章に関しては今の自分から見ても的確だ。 2014年1月4日といえば高知の会社を辞めて、大阪に帰ってきてからアルバイトをしてみたり、カウンセリングに通ってみたりした挙句、少しずつ人をまた信用でき始めた時期だったと思う。

 

まだ自分がライターになるなんて思ってもいなかったし、筋トレだってしていなかった。確か髪を長く伸ばして、ハンドクリームとかヘアトリートメントとかに凝っていたはずだ。

 

そんな僕が書いた「伝えること」についての記事、お暇つぶしにごらんあれ。

 

 

 

人は傷つけあって、涙を流して、いつでもすれ違っている。

 

人はどこまでも、いつまでも不完全で、だからこそわかり合おうと、人を愛するのだけれど、何十年一緒にいても、分かり合えないものは分かり合えない。

 

不完全さは、大きく言って、感情に起因している。 単純なものなら、感情的になったがために、本来理性的に順を追って話せばよいものを、相手にただ感情的になったことだけが伝わってしまい、すれ違う場合。

 

この場合の感情は、うまく使えば伝えるのに効果的なこともあるわけだけれども、それはあくまで意図的に行うものであって、それは感情をぶつけるのとは意味が違う。

 

複雑なのは、見栄や建前、意地や先入観、時には優しさや気遣い、慢心、迷いなどの、直情的ではない、しかし大きく言って感情的なフィルタがその人の自己意識に蓋をしてしまっている時起こる、すれ違いである。

 

そういうフィルタは、得てして正確な情報を伝える時に、邪魔になる。 繰り返しになるが、たとえ伝えたいことが感情的な内容でも、それはきちんと感情をコントロールし、その感情を伝えるために最適な言葉と表情、身振り手振り、声のトーン、方法で伝えなければ、伝わらない。

 

すれ違わないためには、傷つけ合わないためには、とても繊細で、微妙な、選択が必要なのだと思う。

 

それを雑にやるから、今日も何処かで誰かと誰かがすれ違う。

 

それは確かに人間であることの醍醐味というか、逆説的な美しさに繋がっているのだけれど、僕は、もう、傷つけられるのもごめんだし、傷つけるのも、誰かが傷ついているのをみるのももう嫌だ。

 

伝える作業というものは、子供が生まれて初めてピアノの鍵盤を恐る恐る触れる時のように、暗闇の中青白い月明かりを頼りに夜道を歩くように、あるいは初めての恋人と初めてのキスをする時のように、いつだってそんな風に行われなければならない。

 

それだからこそ、伝えるということになんとも言えない美しさが生まれるのだと、僕は思うのだ。

 

 

 

良いこと言うわーw