ひとり部活動記録

文章書いたり、筋トレしたり、自転車漕いだり、山登ったり、基本はひとり。

なぜ私たちの言葉は伝わらないのか?

3月31日のランサーオブザイヤー2017のパネルディスカッションの記事を読んで、今回新たに講演の依頼を頂いた。といっても父が何十年も所属している中小企業経営者及び個人事業主のじい様サークルからの依頼だが(笑)とはいえ一癖二癖どころか何十万癖もある人たちなので、純粋無垢な18歳の高知大生に向けて話すよりもややこしいのは確かである。

 

そこでこの場を借りて、講演の内容を文章化しておきたいと思う。小さな話を二部構成でするつもりなので、ブログでも2回に分けて書くことにする。今日のテーマは本番の第二部で話すテーマ「なぜ私たちの言葉は伝わらないのか?」である。

 

「知っている」と思うことの弊害

僕はこれまで税務・財務・IT・ビジネス・経営・転職・不動産・遺産相続……意味不明なほど多岐にわたるジャンルで文章を書いてきた。初めてのジャンルでは基本的に知らないことだらけ。これを自分が説明されて理解できるレベルにまで噛み砕き、これをさらにレベルを下げて文章にする。でなければ「本を読むのは面倒だけど、ウェブで無料で読めるなら読んでみよう」レベルの読者に伝わるはずがないからだ。

 

このとき弊害になるのは、実は「知らない」よりも「知っている」だったりする。知らないことは書かなければいいし、書けるようになるまで調べようとする。しかし知っていることは無意識のうちに書いてしまうし、「知っている」が前提になっているので噛み砕くのを忘れがちだ。すると自然に文章は不親切になり、伝わりにくいものになってしまう。

 

そしてここに年をとる、おっさんになることの大きな問題がある。人間は年を食うほど「自分が知っていることは増えている」と考えるようになる。必然、知っていることを大した咀嚼もせずに話してしまうし、それを他の人間が知っていて(理解できて)当たり前だと思うようになる。

 

挙げ句の果ての常套句が「最近の若者はものを知らん」である。笑止千万、人として最も重要な「伝え方」も知らんくせに何をのたもうか。

 

 

僕たちは常に「自分が知らないことばかりだ」とソクラテスのように自覚するべきだ。同時に「他人も同じように知らないことばかりで当然だ」という真実を知らなければならない。 本当に伝えたいことがあるのなら、その大前提に立ったうえで、双方が何を知っていて、何を知らないのかを確かめ合う必要がある。それをコミュニケーションなしで実践できるのが想像力というものだが、これは高度な技術である。ろくに「伝える」について考えたことのない人間には無用の長物でしかない。まずは「自分がどうしようもなく阿呆である」という真実を自覚するところから始めるべきだろう。

 

「何を三十路にもならぬ若造が生意気に」「お前の言葉はわしらには伝わってこん」という声が聞こえそうだ。当然である。僕はあなた方の頭の中身を知りようもないし、その時間もない。ましてや想像する気もない。僕は今日、書きたいことを書き散らしているだけだ。興味がないなら読むのをやめたまえ。興味があるなら座して聞け。

 

言葉は「伝わらない」が大前提

言葉は伝えるために存在するが、同時にそもそも言葉は伝わるものではない。その言葉が抽象的になるほど、伝わらない度合いは増していく。例えば「ご飯は楽しい」の時のご飯は、大好きな人と食べるご飯、丁寧に調理されたご飯、満たされた気分で食べるご飯などの意味を持っている。

 

しかし「ご飯」と聞くと白米をイメージする人もいるだろうし、6畳のワンルームマンションの自室で一人食べるカップラーメンをイメージする人もいるだろう。そういう人にとって「ご飯は楽しい」という文章は、全く理解できないはずだ。「白米が楽しいってどういうこと?」「ご飯は寂しいの間違いだろ」とツッコミが入るだろう。

 

ビジネスに当てはめたいなら「資料を整理しておけよ」という指示が何を意味するのかという問題でも良い。「資料の整理」は単に棚の書類の並びを綺麗にすることなのか、明日の会議のためにデータ分析をすることなのか、あるいはそれをパワーポイントに落とし込むことなのか。

 

このような可能性のある指示を「資料を整理しておけよ」という言葉で伝わると思っている方がおかしい。伝えることに関してサボりすぎている。別にサボっても構わないが、それが上手く伝わらなかったと言って部下を叱責するのは大間違いだ。手を抜いたのは部下ではなく、自分である。

 

本当に伝えたいのなら、「自分は途方もない阿呆である」という自覚と「相手も途方ない阿呆かもしれない」という認識をしたうえで、緻密に伝え方を構築しなければならない。そして本来組織のマネジメント層にある人材の仕事の大半は、この伝え方の構築である。これはブックオフ時代の実体験と、ライターを始めて以来300冊以上読んでいるビジネス書から得た教訓である。

 

マネジメント層の仕事はプレイヤーとして動くことではなく、プレイヤーが動きやすいように立ち回ることだ。そのために「伝えるための努力」は絶対に欠けてはならない。 「言葉は伝わらない」これを前提としたうえで、それでも伝えたいと思う、伝えようとする。それが「伝える」「伝わる」の本質である。

 

<メモ> 本番の講演ではこの辺り、もう少しライターよりの話にした方が良いかもしれない。例えば読者ペルソナから文章を構築する視点とか。

 

 

「伝わる文章」とはどんな文章か?

ここまでの話を前提として「伝わる言葉とは」「伝わる文章とは」について考えてみたい。私はこの問いの答えを「相手を大切にすること」だと考えている。「相手を大切にする」とはすなわち「相手が大切にしているものを大切にする」ことである。これについては以前のエントリー「大切な人を大切にする方法」に書いているので省略するが、要は相手との真摯な対話の中でこそ、コミュニケーションは成立するという話だ。

 

理想的なコミュニケーションのあり方でない限り、どこかに甘えやサボりがある。その甘えやサボりのぶんだけ、コミュニケーションはズレていく。これを自覚するだけでも文章や言葉は伝わりやすくなるし、大切にしたい人との関係も強固になる。

 

「理想論だ!」「甘いな(したり顔)」なんて声が今にも聞こえるようだ。しかし理想を抱けない人間に、決して現実は変えられない。現実を変えようとしないのが悪いと言っているわけではない。しかし現実を変えたいのに理想を抱かないのなら、それは判断ミスだ。改めるべきだろう。

 

「伝わる文章」と聞いて何かノウハウ的なものを期待した人には申し訳ないが、ご覧の通りノウハウを真似したところで根本が間違っていれば決して文章も言葉も伝わらない。これについては「伝えたいこと、伝わること、伝えるということ」に詳しく書いた。要は小手先のテクニックは実質1割程度で、大切なのは「何を伝えたいのか」であるという話だ。

 

 

年間120万字の文章を書いて対価を得ている人間として言えるのは、こんなところである。

逃げ出したり、立ち向かったり。

「軽やかでいたい」と思っても、なかなか思い通りにはいかない。厳しくもなんともない現実から逃げ出してショッピングに没頭してみたり、これじゃダメだと無理やりにパソコンの前に座って現実と立ち向かったり。そうして僕はなんとか今日を生きている。

 

そんな調子だから、まともに前向きなブログも書けない。せっかくはてなブログに引っ越してきたばかりなのに、全然ダメだ。

 

でもきっとこの苦しくて陰鬱な期間も、いつかは終わる。それまでただただ生き延びるだけだ、無理やりにでも週一のエントリを続けることだ。一度やめてしまった習慣を元に戻すのは大変だから、とにかくみすぼらしくても、つまらなくても、習慣を守る。

とにかくどこへでもいいから歩き続けること、なんなら流され続けるだけでもいい。うずくまって、目をつぶって、何も考えないようになれば、またあの頃に戻ってしまう。そして戻ってこれなくなってしまう。

 

それだけは、嫌だから。

軽やかな人でありたい。

最近、僕は「僕なんて」と思いすぎ、あるいは言いすぎている。特にクラウドソーシング「ランサーズ」のイベント「ランサー・オブ・ザ・イヤー2017」前後は、あまりにも「僕なんて」が多かった。
 
周囲を見渡すと、どうにもみんなが自分よりはるかにまともに人生を生きているように思えた。にもかかわらず僕は恐れ多くもパネルディスカッションのパネラーとして登壇し、「トップを走り続けるフリーランスなんて枕詞で紹介されてしまった。褒められたり、持ち上げられたりするたびに、「僕なんて大したことないのに」「どうせお世辞だろう」とひねくれた考え方ばかりしていた。
 
もともとがそういう性格だから、一度卑屈な方に振れてしまうと、なかなか元に戻らない。この「僕なんてシンドロームは4月9日現在に至るまで続いている。なんとかしなければといつもの筋トレ・ストレッチ・ショッピングなどの策を講じてはいるが、なかなかうまくいかない。サイクリングや山登りに出かければ一挙に解決しそうにも思うが、なぜかそんな気にもならない。これはいよいよまずい。
 
ただ、頭では「『僕なんて』とか言って、つまんない奴だな、僕は。『〜したい』『〜になりたい』って言い続けてなきゃ、どんどんつまんなくなるぞ」と終始自分に言い聞かせてきた。そこでポンと飛び出るように出てきた答えの一つがタイトルの「軽やかな人でありたい」だった。
 

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まるで地面から数センチ浮いているかのように、スタコラサッサと歩き、外部からの攻撃なヌラリクラリとかわし、好きなことにだけ興味を示して、嫌いなことやつまらないことには執着しない。何も考えていないようでいて、深く鋭く怜悧な思考を持ち合わせ、その気になれば様々な価値観とにこやかな異種格闘技戦を展開できる。性善説を貫く無邪気さと能天気さと強かさを兼ね備え、少し傷ついてはまたスタコラサッサと歩き出す。そんな人に、僕はなりたい。
 
多分生来が「重々しい人」なので、完全に軽やかな人になるのは難しいかもしれない。でもだからこそ、ずっと「なりたい」と願い続けていたいし、そのためにあれやこれやと工夫していたい。「僕なんて」なんて、便利な言い訳を使ってうずくまっている場合ではない。きっと、軽やかな人なら、うずくまるのではなくスタコラサッサと逃げているはずだ。
 

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こんな風に思えたのは、8日に梅田の駅構内を歩いていた時に見かけた少年のおかげだったりする。僕の腰の高さほどの身長しかない彼は、頬を赤く染め、なぜか鬼気迫る表情で地団駄を踏みながらエスカレーターを上ってきた。エスカレーターが終わった途端、彼はさらに興奮した表情になり、僕の横を駆け抜けていく。彼を掻き立てていたのが何かはわからないが、彼はとにかく何かとんでもない衝動に掻き立てられていて、それを全く隠そうとしていなかった。かわいいなと思うと同時に「あいつ、めちゃくちゃかっこいいな。憧れるな」と思ったのだった。彼は軽やかな人とは少し趣が違うかもしれない。でも重々しい僕とは、対極にあるように思えた。
 
だから(?)今日から「僕なんて」を「軽やかだぜ〜」くらいに言い換えて、春の陽気を楽しみたい。軽やかすぎて地団駄踏んで走り出したりしたい。
 

3月30日から4月1日まで上京していました。

3月30日から4月1日まで上京していました。引きこもりの鈴木のキャパシティを完全に超えるスケジュールでしたが、同時にめちゃくちゃ充実した3日間となりました。

30日は2年近くお世話になっているクライアント2社に、昼・夜とお会いし、今後の方針や今までのお仕事の裏側などについてたっぷりお話させていただきました。自分のライターとしての実力が、業界的にそこそこのものだということをクライアントさんたちからお墨付きをいただき、ちょっと安心できたり。今後の仕事の展望を示していただいて、「こりゃ頑張らなきゃなあ」と思ったり。鈴木の「社交ポイント(RPGのMP的な)」をフル動員した1日になりましたが、相応の価値のある時間になったと思います。

31日は先週のブログでも書いた「ランサー・オブ・ザ・イヤー2017(LOY2017)」にパネルディスカッションのパネラー3人の1人として参加してきました。2017の受賞者のみなさんが立派すぎて、「この人たちの授賞式の後に、この鈴木がいったい何を話すのか」というためらいの中、なんとか自分の仕事のノウハウやライターとしての経歴について話しました。そのあとの「ランサー交流会」や「二次会」で色々な人とお話しさせていただいた感じだと、そこそこうまいこと話せていたようです。

前日に宿泊した「ファーストキャビン秋葉原」があまりにも快適すぎて全回復した社交ポイントでしたが、二次会の終盤には完全に枯渇し、もはや人様向けの表情を維持できず、失礼ながら途中から人気のない場所で休憩していました……。うん、でも、まあ、僕にしては頑張ったと思います。この辺りの話は、また後日記事にしたいです。

その日の夜は沖縄宮古島で知り合った親友の家に宿泊。いまだかつて友人宅で受けたことのないレベルのおもてなしを受け、超感動しました。翌日1日は鎌倉にでも出かけようかと言っていたのですが、社交ポイントを酷使しすぎたせいでHPもほとんどなくなっていたため、全く身動きできず。一日本当にダラダラとくっちゃべって、夜に親友とその奥さんと食事をして、大阪への帰途につきました。

今日(4月2日)は完全オフでしたが、29日の夜行バスから数えて4日間の疲労が一気に出たのか、体はずっと怠いし、眠いし、何かを食べればお腹を下すしで、完全に体調を崩しています笑 うん、ほんと、頑張ったね、自分。

筋トレが、仕事になってる。(仕事と筋トレのこと徒然と)


2月の終わりから、筋トレ系の記事を書かせてもらっている。クライアントは個人さんなので、別にフィットネス業界に切り込めている訳ではないのだけれど、それでも趣味で始めた筋トレがまさかお金になるなんて思いもしなかった。(そもそも3・4年前までは自分の文章がお金になるとすら思ってなかったが)

自分の体験を踏まえてトレーニングメニューを提案したり、今まで自分では買わなかった筋トレ雑誌や栄養学の本を買ったりして、それを参考に記事を書いている。こんな楽しい仕事って、あるだろうか。

しかもこの仕事の影響で新しくクレアチンというサプリメントを飲むようになって、自分の筋トレにも新しい刺激が生まれている。クレアチンは正確にはクレアチンリン酸といって、牛肉なんかに多く含まれているアミノ酸なのだが、これは瞬発的な無酸素運動へのエネルギー供給を担う重要な物質だ。これを筋肉中に蓄積しておくことで、瞬発的な無酸素運動=筋トレにおける出力エネルギーが格段に上昇する。実際、した。

ずっと70kg前後で伸び悩んでいたスクワットが、たった1ヶ月で93kgを5回あげれるようになったし、自重でやっとメインセットが組めるくらいだった懸垂も、今は12kgの負荷をかけてメインセットを組んでいる。体重は減っているのだけれど、体のサイズはところどころ少しずつ大きくなっている。クレアチンマジすごい。

ただこれ以上サイズが大きくなると、サイズ勝負の手持ちの洋服が着れなくなるという問題が出てきている。就活スーツは30分も着ていると肩が痛くなってくるし、前のボタンを留めると著しくシルエットが崩れる。脚も太くなっているのでズボンもパツパツだ。

もともと超普通体型だったので、体重さえキープしていれば間違いなくどのブランドでもMサイズでよかったのだけれど、最近はMサイズだと「着てるのしんどい……」という着用感になってしまう。かといって身長も腕もMサイズなので、Lサイズにすると着丈や袖丈が余る。今の筋トレメニューのままでは「いつもジャージか軍の放出品着てる人」みたいになる。それはちょっと嫌だ。おしゃれがしたい。トレーニーの中には「筋肉が最高のおしゃれ」とかいう人もいるけど、んなわきゃねえだろとおもう。


でもこういう問題も結構楽しかったりする。というのも劇的にトレーニング方法を変える良いきっかけだからだ。今組んでいるメニューはもともと8サイクル(だいたい2ヶ月強の予定)回す予定なので、これが終わったらどんなメニューにしようかと考えるのが楽しい。低負荷高回数にして有酸素的な筋トレにしたり、HIITという有酸素トレーニングをメニューに組み込んだりするのも面白そうだ。そうなれば「サイズダウンの筋トレとは」みたいな記事も書けるようになるだろう。またこれも仕事になったらいいなあ。

とまあ、そんなこと考えながら、31日のランサー・オブ・ザ・イヤー2017年でパネルディスカッションのパネラーやってきますね。